・ACL決勝戦は2010年11月13日(土)国立競技場で開催!チケットについてはこちらから!
※準々決勝の1stレグが15日に終わり、岡山一成選手の所属する浦項スティーラーズは惜しくも初戦を落としたが22日に準決勝進出、そして決勝の地国立を目指しホームで第2戦を戦います!
2009年1月1日。岡山一成の姿は国立競技場にあった。しかしそこはグランドではなくアウェイ側のゴール裏スタンドに。以前所属した柏レイソルが天皇杯で決勝まで進出し、恩師でもある石崎監督と元同僚を男にするために、応援に来ていた。当時の彼は、2008シーズン終了後にクラブから契約の延長を打診されることなく、他のJリーグのクラブのどことも契約ができていない状態だった。そして新シーズンが始まっても契約ができず、一時浪人となった。その後5月に韓国に渡り7月に浦項スティーラーズと契約。そして、数々の激戦の末、2009年11月7日、国立競技場で行われた2009シーズンのACL決勝でサウジアラビアのアルイテハドを下し、見事アジアを制した。そして試合後に、浦項サポーターのみならず、以前に所属していた川崎フロンターレ、柏レイソル、ベガルタ仙台など彼を応援するためにかけつけたサポーターと共に、1月1日に応援する側の人間として立っていた国立競技場のアウェイ側スタンドに、アジアを制したプロサッカー選手として、立っていた。そんな激動の2009シーズンを過ごし、そして今年もACLに出場しベスト8まで進出してきている浦項の一員としてアジア連覇を目指す岡山一成選手に現在の心境そして当時の様子を直撃インタビューした。
◆絶対に復活したい
「2009年シーズンの契約が決まっていなかった年明け〜1月31日までの間、そしてそれ以降も廻りの人とかなりぶつかり、そしてあたり散らしてしまっていました。そういうことはブログには書けなかったのですが…。今は、自分に自信があり、色々と今までやってきたことを振り返れるが、その時は自分に自信がなくて、今まで築きあげてきたことすらも信じられなくなっていました。その当時は口を開けばグチしか出てこなかったですし、(プロとしての)サッカーがない自分は、自分という存在がないことと同じでした。サッカーがないことは自分にとって軸がないということ。当時は、取材も一切なかったし、あの時に取材されても自分は何を語れたかというと、何も語れなかったと思います。究極の話グチしか言えない人間になっていました。
僕は、高校を卒業してプロになるときも浪人していました。その時に感じたのが、自分は何者なんだろうというものでした。プロになるために、韓国にサッカー留学したり、アサヤンのプロサッカー選手育成企画のようなものに出たりして色々と模索していたが、その当時は、日本国籍ではなかったし、かといって韓国の言葉が喋られるわけでもなく、自分はいったい何者なんだろうと思っていました。そしてプロになれば自分が岡山一成になれるという感覚でした。
そういう中で、横浜マリノス(当時)と契約が出来て、それからプロで13年やってきて、2009年1月31日(ベガルタ仙台との契約満了日)を迎え、どことも契約ができていないということは、今までずーっと築き上げてきたものが、なくなってしまう怖さがありました。自分の中で、様々な葛藤もあり、どうやって1月31日を迎えていいのか分かりませんでした…。なんにもない状態で練習生で、マリノスに行き、必死にやって、マリノスに入ることになり、契約書にサインをした時からずーっと続いてきたプロ生活がなくなってしまうのをどういう気持ちで迎えればいいのかが分からなかったんです。
そして、その日を実際に迎えるにあたり、プロ選手の岡山一成ではなく、岡山一成として迎えようと思い、敢えてその日に、プロになりたての時からの仲間でもあるてんつくマンの講演会場で、自分がデザインしたTシャツを売らせてもらうことにして、イチ売り子として会場へ行くことにしました。段ボールの搬入なども含めて全ての作業を全て一人でやりました。
正直、プロ選手時代はTシャツを売るといっても用意された場所に行って、買ってもらったTシャツにサインをするだけでよかったんです。しかし2009年1月31日の僕は、プロ選手ではなかったし、手伝ってくれるという人もいたのですが敢えて一人でやりました。
Tシャツを売るときには、元Jリーガーという風になりたくなかったので、Jリーグに復帰する岡山一成ですと言っていました。その年の1月11日に結婚したばかりで、無職…。指導者の道やクラブスタッフの道ではなくJリーグに復帰するためには練習をしていかなくてはいけないので、勤務時間がしっかり決まっているような仕事ではなく、このようにいつでも練習できるような仕事の形態をとろうと思いました。自分でちゃんと持って行って、自分で売って、お客様から直接お金を頂くということをやらなくてはいけないと思っていました。ただ、正直行くときもかなり葛藤がありました。Tシャツを売りながら「今日でサッカー選手ではなくなります。明日からも続けていきたい」と話ながら泣いていました。悔し涙なのか哀しい涙なのかなんだかわからない涙が出ていました。てんつくマンとも泣きあいながら「絶対復活しような」と誓い合った。それが2009シーズンのスタートでした。本当に、色々な人に支えられていましたし、僕一人の思いだけだったらくじけていたと思います。」
◆サッカーが出来なかった時の辛さは何にも比べられない
「浦項スティーラーズに練習生で行ってからは、友人もいない、言葉も通じない、練習もキツイということもあったが、しんどいことは一個もなかったです。サッカーができなかったときの辛さに比べれば全然なんともなかったですね。3月31日で一度登録のウィンドウが閉じるので、それまで自分では本当に色々な手を尽くしました。ユニフォームが着たいという思いで、自分の価値を下げたり、ここでは言えないようなことも色々と試したのに結局は、ダメだった…。
僕の小さい頃の夢は、日本代表になりたいというもので、それがサッカーをここまでやってきた原点です。僕の原点はドーハの悲劇なんです。中学3年生、14歳のときに、カズさんに凄い憧れていました。僕は当時は韓国籍だったのですが、日本代表をメチャメチャ応援していました。それまでワールドカップすら、ろくに知らないくらいだったのに、日本代表がワールドカップに行ってくれとメチャメチャ願っていました。願って願ってあと一歩で行けると言う時に、あのゴールで、日本が行けず、そして韓国が行けることになった…。その時に両親は喜んでいたが、僕は本当に哀しいという感情しかなかったんです。そしてその時に自分が日本代表の青いユニフォームを着て、ワールドカップに行くと誓いました。
あの時、自分の中では、何かが弾けた感じがして、そして両親にも「青いユニフォームを着て日本代表になりたい、だからサッカーの強い高校に行きたい」という思いを伝えました。すると両親は、強豪の私立高校への進学を認めてくれ、そして(日本国籍取得については)20歳になって自分でしっかり考えて決めなさいと言ってくれた。
日本代表になるためにはJリーガーにならなければという気持ちで、高校卒業後も大学も行かずに浪人しながらプロになる道を探し、そしてJリーガーになれました。その時は、自分が日本代表になれると思っていたのに、いつの頃からか日本代表になれると思っている自分となれないんじゃないかと問いかけてくる自分がいて、不安になってきて、人に自分が日本代表になるんだということを言えなくなってきていたりしました。
その時は夢のことを言わなくなっていて、目標を言うようになってきていました。その目標とは、J1昇格というものでした。当時所属していたJ2のクラブを、自分の力でJ1に上げるんだということを言っていました。ただ、それは夢ではなく、目標であり、皆の思いに応える、自分もその思いに応えるというものでした。日本代表になりたい夢は自分のなかでみないフリをしていました。それを目標に変えた。目に見える標(しるし)とした。昇格という目標。夢ではなくて、皆の思いに応えることを優先した。それが、去年、サッカーができなくなった時に、僕はもう一度Jリーガーになりたいということを廻りにすごく言うようにしました。もう一回Jリーガーになりたい。それが夢となったんです。
契約してくれるクラブを探しているときに、浦項スティーラーズからの話もあったんですが、実は一回断っていました。その時は、どうしてもJリーグの選手に戻りたかった。プロ選手ではなくてJリーグの選手になりたかったんです。ただ、Jリーグのクラブでは契約をしてくれるところがなく、浦項スティーラーズのことを調べると、ACLで川崎フロンターレが浦項スティーラーズと予選リーグで戦うことが分かったんです。それはすごい衝撃で、これだ!と思ったし、これ(対戦)を叶えたい!と思い、友人が録画してくれていた自分のプレーシーンを自分で編集して、DVDにまとめて、クラブへ送りました。ただ3月の韓国の選手登録の〆までに、契約がまとまらず浦項スティーラーズに入れなかったんです。でも、川崎フロンターレも浦項スティーラーズもお互いにACLの予選を突破すれば、決勝戦で国立競技場で浦項スティーラーズが川崎フロンターレと対戦できる可能性がありました。
そこで、浦項スティーラーズに、練習生でもいいから入れてくれとお願いをしたら快く受け入れてくれた。次の登録の〆は7月だったので、5月11日に韓国に渡り、その日までに、契約ができるように、一生懸命練習に取り組みました。決勝に行って川崎フロンターレとどうしてもやりたかったんです。そして、なんとか契約をしてもらうことができ、自分はプロサッカー選手に戻ることができました」
(取材日:2010年6月12日)
Vol.2へ続く>>
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