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【FCWC特集】アジア代表 G大阪のクラブの歴史を紹介!Vol.2(08.12.02)

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2008年のACLを制し、アジア王者に輝いたG大阪。Jリーグ発足当初は昨年の王者浦和レッズと同様、低迷していたが、今ではアジア王者に輝くまでに成長。そのクラブの歴史に迫るレポート第2弾。

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■第二の変革。クラブとしての成長。
 97年はクラブにとって第二の変革期となった。これまでチームの顔たる存在だった礒貝洋光、山口敏弘ら主力を大量放出。ユース所属だった稲本潤一を“飛び級”でトップチームに昇格させたり、クゼ監督自らスカウトしたカメルーン人のパトリック・エムボマやクルプニコビッチを獲得するなど、チームの全体的な見直しを図る。これと同時に新大阪にあったクラブ事務所、京田辺市にあった練習場を、万博に移転。前年度は最低観客動員を記録した反省をもとに、改めて、ホームタウンに腰を据えた経営の見直しに乗り出す。

 そうした変革への着手は実を結び、“浪速の黒豹”の愛称で親しまれたエムボマが大活躍。開幕のベルマーレ平塚戦で魅せた、脅威のボレーシュートは今もJリーグ史に残るベストゴールとして語り継がれているが、他にも、数々のスーパーゴールでチームを牽引。一方で稲本も17才6ヶ月でJリーグデビューを果たし、当時の最年少J出場を塗り替えるなど、若手、ベテランが噛み合いながら1stステージは過去最高の8位に。更に2ndステージでも開幕戦こそ黒星スタートとなったが、エムボマの6試合連続ゴールなどもあり、Jタイ記録の9連勝を樹立する。残念ながら終盤の失速が響き、初優勝とはならなかったが、2ndステージはクラブ最高位の2位で終了。だが、チームを躍進へと導いたクゼ監督は母国クロアチア代表へのスタッフ入りが決まり、退任。コンシリアコーチが暫定的に指揮を執った後、98年5月にアントネッティ監督へとバトンが引き継がれたが、前年度の勢いはなく。フランスW杯終了後、エムボマのカリアリへの移籍決定にあわせ、その後釜にユーゴラビア出身で、フランスリーグ得点王にも輝いたことがあるFWアント・ドロブニャク、DFクロード・ダンブリーらを獲得したとはいえ得点力の低下は顕著で、終わってみれば1stステージは14位(18チーム中)、2ndステージは16位。再び2桁順位に甘んじた。

 99年。1stステージを10位で終えたG大阪は、釜本氏以来となる日本人監督の招聘に乗り出した。白羽の矢が立てられたのが早野宏史氏。この『早野体制』は01年まで敷かれ、チームは年を追うごとに熟成をみせていく。それを証明するのが、00年2ndステージの4位。01年1stステージの5位という成績。01年には現在も主軸として活躍する遠藤保仁、山口智ら大型補強にも成功し、チームは勢いを伸ばすが、1stステージ終了時点で、クラブ史上初となる稲本潤一の海外移籍が決定。それも影響して2ndステージはスタートダッシュに失敗し、シーズン途中で早野監督が辞任。後任を預かった竹本一彦ヘッドコーチのもとでの6試合は2勝1分3敗で終え、11位でシーズンを終了した。

■西野朗体制スタート。リーグ優勝、そしてアジアチャンピオンに。
 西野朗氏を新監督に迎えての02年。その西野監督の要望もあり、この時代から、外国籍選手は『多国籍のヨーロッパ路線』から『ブラジル路線』へと統一されるなど、チーム作りにも一定の方向性が見られるようになり、その中でチームは着実な進化を遂げる。

 最初の優勝争いは02年の1stステージ。日韓W杯を挟んだ難しいシーズンになったとはいえ、西野監督にとっては古巣となる柏戦を白星発進。W杯による中断後の清水戦も清水に快勝するなど、流れを巧く作りながら白星を積み上げる。最大の見せ場となった第12節。2位磐田との上位対決では4-2とリードしながら残り8分で追いつかれ、延長Vゴール負けという歴史的屈辱を味わい、1stステージは4位で終了。続く2ndステージも再び終盤の正念場を勝ち切れず2位となったが、年間順位は過去最高の3位に。その後の長期体制を暗示するかのような、西野体制、最高のスタートとなった。

 03年こそ1stステージ12位、2ndステージ7位、年間10位と交代したがクラブの西野監督への信頼は揺るがず。真価を問われた04年。メンバー的にものちの優勝メンバーになる、日本人の宮本恒靖、遠藤保仁、二川孝広、橋本英郎、家長昭博、松波正信、吉原宏太など、ベテランと若手がバランスよく融合。彼らに経験豊富な外国籍選手が巧く噛み合って、安定した組織を作り上げる。結果、再び息を吹き返したG大阪は1stステージ4位、2ndステージ3位、年間3位に。終盤の勝負弱さは課題とされたが、攻守に安定したチーム作りはJリーグの中でも高い評価を受け、クラブ史上最長となる4年目の西野体制へと繋がっていく。

 そして、05年。質実ともに高い評価を受けながら、G大阪は躍動。アラウージョ、大黒将志らを軸とした『獲られても、獲る』、イケイケの攻撃サッカーはJリーグに衝撃を与えながら、勝利を掴み取っていく。終盤には再び、勝ち切れない試合が続き、ナビスコ決勝では千葉に敗れ、リーグ戦でも最終節を前に同じ関西のC大阪に首位の座を奪われてしまう。だが、最終節となったアウェイでの川崎F戦。プレッシャーから解き放たれるかのように、G大阪は自慢の攻撃サッカーで川崎Fを翻弄。C大阪が最終節をドローで終えた一方で、4-2と快勝で飾り奇跡の逆転優勝。クラブ史上13年目にして、リーグ初制覇を成し遂げた。ちなみに、このシーズン限りで引退を決めていた生え抜き、松波正信は「現役生活で泣いたのは4回。過去3回は全て悔し涙だったけど、ようやくうれし涙を流せた」と人目をはばからずに、涙を流した。G大阪一筋13年。松波正信個人にとっても最高のフィナーレだった。

 あれから3年。G大阪は今年、アジア制覇という野望を実現した。明神智和、播戸竜二らを獲得する中で挑んだ06年は最終節で浦和に敗れリーグタイトルを逃し、初挑戦となったAFCチャンピオンズリーグ(以下ACL)では予選敗退の屈辱を味わった。だがその悔しさをバネに、07年は安田理大が新人王、MVPのダブル受賞の活躍を見せる中で初のナビスコカップ制覇。08年は代表選手不在の中、初の開催となったパンパシフィック2008でディビット・ベッカム率いるロサンゼルス・ギャラクシーを下すなどして初タイトルを手に。経験を積む中で着実に成長を続けて来たチームは、リーグ戦でこそ苦戦を強いられたが、一方で初のACL予選通過を決めた。

 だが、その後も波には乗り切れず。例年なら『得意』とする夏場には、度重なる主力メンバーの移籍、離脱、クラブワーストの公式戦10戦連続勝利なしを味わうなど苦境の時期を過ごすことに。だが、ここでもACL準々決勝で戦ったシリアの強豪、アル・カラマ戦がきっかけとなり息を吹き返すと、準決勝でも昨年のアジア覇者、浦和レッズを倒して決勝進出。アデレード・ユナイテッドとの決勝では、実にノビノビと自慢の攻撃サッカーを披露してチャンピオンの座に上り詰め、『FIFAクラブワールドカップ』という世界への扉をこじ開けた。

 その活躍が評価され、今年のAFCアワードでは、クラブ史上初となる最優秀クラブ賞をはじめ、西野監督が最優秀監督賞、今や唯一無二の大黒柱に成長した遠藤保仁が優秀選手賞を受賞した。歴史を振り返っても分かるように、創設時の低迷を思えば、信じられない快挙だが、過去に支えられて現在があると考えるなら、これはある意味、苦境の歴史で学び、躍進を追い求めてきたことの証拠でもある。とはいえ、これらの栄冠もこれから続くであろう歴史においては、いずれ、いや既に過去のもの。現在も、そして未来も、既に始まっている。

Reported by 高村美砂

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