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■母体『松下電器サッカー部』は奈良県リーグ2部からスタート。
ガンバ大阪(以下G大阪)が関西唯一のJリーグクラブとして産声をあげたのは1993年のこと。母体となったのは松下電器サッカー部。1980年に創部されたチームだった。
松下電器は古くからバレーボールや野球、バスケットなどスポーツに力を入れており、日本国内では輝かしい成績を残してきた。サッカー部はそれら先陣に続いて社が力を注いだ4つ目のスポーツ部。当時、日本リーグへの参戦には地域リーグからのスタートが義務づけられていたため、松下電器サッカー部は少しでも早い昇格を目指そうと、奈良県リーグ2部に籍を置き、そのスタートを切った。初代監督は元ヤンマーの水口洋次氏。プレーヤーとしては、小柄ながら足元に強さを発揮するFWとして活躍したが現役生活には早々に見切りをつけ、1971年からヤンマーサッカー部のコーチに就任。監督だった鬼武健二氏(現Jリーグチェアマン)と共に、ヤンマーの黄金時代を築いた人物だ。
その水口監督のもと、創部した80年には同2部リーグに優勝し、81年には同1部リーグに優勝。関西リーグに所属後も83年に関西リーグ1位に輝くとともに、全国社会人大会でも優勝して日本サッカーリーグ(以下JSL)2部入りを果たす。そのJSL2部では勝ちあぐねた時期もあったものの、積極的に外国籍選手を招聘するなどして、加盟からわずか6年でJSL1部入りを実現した。当時1部入りに貢献したメンバーは、現G大阪強化部長の山本浩靖氏をはじめ、故・久高友雄氏、当時俊足のドリブラーとしてその名を馳せ、日本代表にも名を連ねた佐々木博和氏、美濃部直彦氏(現ヴォルティス徳島監督)、松永英機氏(現FC岐阜監督)ら。のちにクラブの、日本の顔へと成長する永島昭浩氏は入団3年目ながらサブに甘んじることが多く、未だ頭角を現してはないなかった。
異例のスピード昇格で日本のトップリーグである、JSL1部にのぼりつめた松下電器サッカー部だったが、1部のスピード、レベルについていけず。86年はわずか5勝しか挙げられないまま11位でJSL2部へ降格してしまう。だが87年になり、のちにクラブの顔となっていくGK本並健治をはじめ、DF島田貴裕(現G大阪ユースチームコーチ)、MF和田昌裕(現ヴィッセル神戸強化部長)、ら大卒の即戦力を大幅補強。他にも元タイ代表のビタヤ・ラオハクル氏(現ガイナーレ鳥取監督)をプレーイングコーチとして招聘し、4-4-2システムの確立に着手するなどチーム改革を図りながら1年でJSL1部に復帰を果たす。とはいえ、復帰後も悲願のJSL制覇は実現できず。リーグ戦ではJSL最後のシーズンとなった91-92年シーズンの5位が最高位だったが、カップ戦では90年の天皇杯で初優勝を決める。当時、クラブはJリーグ発足に先駆け91年からは釜本邦茂氏を新監督に招聘。既に水口氏は取締役強化部長として裏方にまわっていただけに、90年の天皇杯制覇が松下電器サッカー部の功労者である水口洋次監督体制最後の年に手にした、タイトルとなった。
■勝てなかったJリーグ創設期。
91年、松下電器サッカー部は日本を代表するストライカーとしてその名を馳せ『世界の釜本』と呼ばれた釜本邦茂氏を新監督として招聘した。現役時代は早稲田大学1年生時に日本代表になり東京五輪に出場。大学卒業後はヤンマーサッカー部でも活躍をみせながら、68年のメキシコ五輪では7得点を挙げて大会得点王に輝くとともに、銅メダル獲得に大きく貢献した、名プレーヤーである。指導者としては選手として活躍する傍ら、78年に選手兼任監督に就任。以降、85年2月まで同立場でチームを牽引し、引退に伴ってヤンマーサッカー部を去る。その後は『釜本FC』を設立し、大阪を中心にサッカー少年の育成に尽力したり、『釜本サッカー教室』を主催するなど、サッカーの普及のために全国を行脚したり。ちなみに、この釜本FCは、のちにJリーグ参戦が決まっていたG大阪の下部組織としてその形を変えていくこととなった。
その釜本監督のもと、松下電器サッカー部を全身として発足した『ガンバ(GAMBA)大阪』。そのチーム名はイタリア語で『脚』を意味する『GAMBA』に、日本語での『頑張る』をかけて一般公募により名付けられた。当時はまだスポンサー名が大々的に掲げられていた時代だったこともあり、正確には、松下電器のAVブランド名だった『パナソニック』を加えた『パナソニックガンバ大阪』としての出発。釜本監督以下、メンバーには先に述べた島田貴裕、美濃部直彦、和田昌裕、永島昭浩、久高友雄らに加え、東海大学を中退して加入した礒貝洋光、高校サッカー界のスーパースターと知られた松波正信らが加わり、ヴェルディ川崎に次ぐ人気チームとして、その名を馳せた。
だが人気とは反して、成績が伴わない。記念すべき93年5月16日のJリーグ開幕戦、サントリーシリーズの第1節は、現ライバルでもある浦和レッズと対戦。記念すべき初ゴールをセットプレーから和田昌裕が挙げ、1-0と勝利したがあとが続かず黒星が先行。6月5日の第7節では永島昭浩がJリーグ開幕以来、日本人初のハットトリックを叩きだしたり、第8節で松波正信がJ通算100ゴール目のメモリアル弾を叩き込んだり。記憶に残るメモリアルシーンこそ多く刻んだものの、サントリーシリーズは10チーム中8位に低迷。続くニコスシリーズでは6位にやや順位を挙げたが、一方で組織力としての評価は低く、苦難のJリーグ元年となった。
■第一の変革期。永島昭浩が去り、礒貝洋光がキャプテンに。
Jリーグ開幕2年目にしてG大阪は最初の変革期を迎える。というのも、永島昭浩や久高友雄らベテランのレギュラークラスの選手を含む13選手を大量解雇。大幅な若返りを図る一方で、旧ソ連代表のDFツベイバやFWプロタソフを獲得するなどして『新生・G大阪』としてスタートを切ったからだ。
そのリーダーに指名されたのが礒貝洋光。前年度は両足首を手術するなどして出遅れたが、この年は開幕からエンジン全開。類い稀なサッカーセンスと求心力で、心身両面での主軸として『新生・G大阪』を牽引する。
だが開幕のジェフ千葉戦に1-5と大敗を喫するなど、スタートダッシュに失敗。波のある試合を続ける中、連敗が目立ちサントリーシリーズは12チーム中10位。ニコスシリーズではチームワーストとなる悪夢の7連敗を喫し、釜本監督の退任が発表される。これがカンフル剤となったのか、以降の6試合で5勝を挙げるなど巻き返しを図るが、序盤の負けが響き、終わってみればサントリーシリーズと同じ10位と低迷した。
G大阪史上初となる外国人監督、ジークフリート・ヘルト氏を新監督に迎えての95年。チームは初の開幕3連勝とスタートダッシュに成功したかに見えたが、15節から22節までワースト記録を塗り替える8連敗を喫してしまう。C大阪がJリーグ入りを果たしたことでこの年初の『大阪ダービー』が実現したが、その初戦も0-1と惜敗。しかもサントリーシリーズではC大阪よりも下位の11位に低迷する。続くニコスシリーズでも坂道を転げ落ちるかのように失速はとまらず、14位中13位に。この結果、年間最下位が決定し、ヘルト監督は1年で日本を去り、後任にはヘルト氏のもとでコーチを務めていたクロアチア人のヨシップ・クゼ氏が就任した。
96年。クラブはチーム名を『パナソニックガンバ大阪』から『ガンバ大阪』に変更。現役クロアチア代表のMFムラデン・ムラデノビッチを獲得する中で、徐々に若手とベテランが噛み合った組織が完成するようになる。この年Jリーグは初の1シーズン制で行われたが、その前半戦を8勝7敗。『天敵』とされたヴェルディ川崎戦でも2点差をひっくり返して3−2と勝利し、連敗を15で止めるなど、明るい話題も見られたが、後半戦に入ると再び、連敗が多く見られ、終わってみれば12位。この年、Jリーグ入りを果たした同じ関西の京都パープルサンガ、前年度には上をいかれたセレッソ大阪よりはかろうじて上の順位を守り関西の雄としての面目を保ったが、観客動員では16チーム中、最下位に低迷するなど、ファン離れが心配された1年でもあった。
Reported by 高村美砂
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