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【日本代表メンバー発表:特別コラム】アジアカップ、ワールドカップ予選を重視した23人。それぞれの「選考理由となった貢献度」を振り返る(06.05.15)

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 2006FIFAワールドカップドイツに挑むジーコジャパンの23人がついに決まった。久保竜彦(横浜FM)が落選し、代わって巻誠一郎(千葉)が滑り込むというサプライズもあった。が、基本的にはジーコ監督が「4年間に行われた勝ち点3の懸かった試合での貢献度を重視する」と話していた通りの陣容になった。ここで改めて、日本代表最終メンバー「貢献度」を振り返ってみたい。

 まずはGK。正守護神・川口能活(磐田)は何といっても2004年アジアカップ(中国)でのパフォーマンスが大きかった。2004年6月のイングランド戦(マンチェスター)でそれまでレギュラーだった楢崎正剛(名古屋)が負傷。これを機に与えられたチャンスを彼はしっかりとつかんだ。
 特にインパクトが大きかったのは準々決勝・ヨルダン戦(重慶)のPK戦。負け寸前まで行ったチームを救う4連続セーブを見せたのだ。この大会の日本は疲労困憊だった準決勝・バーレーン戦(済南)以外は1点以上失点する試合がなかった。ある意味、手堅い守りで2連覇を達成したわけだが、その原動力となったのが川口だったのだ。

 楢崎正剛(名古屋)はその川口に取って代わられる格好となったが、2002年秋のチーム発足からイングランド戦まではコンスタントにピッチに立った。2003年コンフェデレーションズカップ(フランス)は1次リーグ突破が叶わず、同年東アジア選手権(日本)もあと一歩で優勝を逃したが、彼自身のプレーにはつねに安定感があった。川口にポジションを奪われた後は負傷続きで調子を落とし気味だが、それでも2002年大会の2勝を知る男の経験値はやはり大きい。

 第3の男・土肥洋一(F東京)はジーコジャパン4年間のうち、2004年2月のマレーシア戦(カシマ)、1次予選最終戦のシンガポール戦(埼玉)、2005年8月の東アジア選手権・韓国戦(大邱)、同年10月のラトビア戦(リガ)の4試合しか出ていない。勝負のかかった試合を経験していないのは心配だが、彼にはJリーグでの実績がある。Jを見る限りでは、むしろ川口や楢崎を上回るかもしれない。やはり代表に相応しい存在といえる。

続くDF陣。茂庭照幸(F東京)の落選以外は順当な人選といえる。
 加地亮(G大阪)は2003年10月のチュニジア戦(チュニス)でデビューした。99年ワールドユース(ナイジェリア)準優勝組の1人だが、その後J2だった大分トリニータに出されるなど苦労を重ねてきただけに、自分がA代表に抜擢されるなど思っても見なかったようだ。「自分が代表なんてムリですよ」と当時の彼は冗談まじりにこう話していた。しかし2004年に山田暢久(浦和)がチームを離れると、加地が不動の右サイドに君臨する。1次予選の頃はプレーに波があったが、最終予選の頃は自信もつき、Jと代表の過密日程にも適応できるようになった。彼が最も輝いたのが昨年のコンフェデレーションズカップ(ドイツ)。ブラジル戦(ケルン)では開始早々に決めたシュートがオフサイドと判定される不運もあったが、果敢な攻撃参加が大いに光った。同じドイツの舞台で1年前の再現をしたいところ。

 駒野友一(広島)は加地のバックアップとして地位を確立した。初代表は昨年の東アジア選手権だったが、加地不在の時には堅実な守備とタイミングのいいオーバーラップを披露。昨秋の東欧遠征の頃には「加地に肩を並べた」とまで評価された。今回はまず控えからのスタートになるが、チャンスはゼロではない。チーム最年少の彼が次世代に伝えられる何かをつかむことも重要だ。

 中澤佑二(横浜FM)、宮本恒靖(G大阪)、田中誠(磐田)の3人はやはりアジアカップの活躍が大きかった。
 ジーコジャパン前半の中澤はあくまでサブだった。チャンスがめぐってきたのもレギュラーだった坪井慶介が負傷したからだ。しかし188cmの長身DFはアジア2連覇を目指すチームを何度も救った。特に際立ったのが準決勝・バーレーン戦。2−3でリードされていた試合終了間際、猛烈な勢いでゴール前に上がった彼が起死回生の同点弾をヘッドで叩き込んだのだ。これで延長に突入した日本は粘り勝ちする。中澤の思い切りのよさがなかったら、タイトルはありえなかった。

 宮本もヨルダン戦が忘れられない。中村俊輔(セルティック)と三都主アレサンドロ(浦和)が立て続けにPKを外したのを見て、すぐさま主審に駆け寄り、「使うゴールを変えるべきだ」と英語で主張したあのシーンを思い出す方も多かろう。あの大会までの宮本はチーム内でも絶対的な存在ではなかったが、中田英寿(ボルトン)不在のチームを力強く牽引したこともジーコの心を捉えた。

 田中も3バックの一角として2度目のアジア王者獲得に貢献した。本来の彼のポジションはリベロだが、右ストッパーでもやれるところを十分に見せ付けた。

 そして三都主も慣れない左サイドバックとして奮闘した。アルゼンチンに大敗した直後の2003年6月のパラグアイ戦(埼玉)から4バックの左を任され、攻撃センスが持ち味の彼は苦悩することも多かった。守りに忙殺され、一時的には思い切ったオーバーラップも見せられなくなったが、それでも鉄人ぶりをアピール。アジア予選では累積警告で出場停止となった2005年3月のイラン戦(テヘラン)とドイツ行きを決めた北朝鮮戦(バンコク)以外、全試合に出場した。この強靭さゆえ、ジーコの信頼を勝ち取ったのだろう。

坪井は、2003年の代表選出当初は先発出場の機会がなかったが、2003年6月のキリンカップ・アルゼンチン戦の大敗でジーコ監督が行った最終ライン総入れ替えによって、先発をつかむ。それ以降は抜群のスピードとクリーンなプレーでボールを奪う守備能力の高さをアピールし、指揮官の信頼感を高めていった。しかし2004年7月の負傷でコンスタントだった試合出場が途切れる。復帰まで半年以上かかる重傷だったことも影響し、アジアカップ、ワールドカップアジア最終予選、2005年コンフェデレーションズカップ(ドイツ)のピッチにも立てなかった。しかし本大会を前に徐々に調子を上げ、今季はJ1最小失点の浦和守備陣を力強く支えている。ジーコジャパンでの総出場試合数も30試合を超えており、ジーコからの厚い信頼を勝ち取り、順当に最終メンバー入りした。

 そしてDF枠の最後に入ったのが中田浩二(バーゼル)。彼はもともとボランチだが、2002年大会で3バックの左ストッパーをこなしたように、最終ラインにも入れる。左サイドバックもできるユーティリティ性が評価された。アジアカップでも決勝・中国戦(北京)でゴールしており、その印象も強いのかもしれない。

日本代表の柱ともいうべきMF陣は豪華な顔ぶれだ。
 ボランチ・福西崇史(磐田)はアジアカップと最終予選でのコンスタントな働きが認められた。アジアカップではヘッドで2得点を奪うなど、体を張った守りだけでなく、得点能力の高さも特徴だ。もともとは稲本潤一(ウエストブロミッチ)の控えだったが、イングランド戦で彼が骨折でチームを離脱したのを皮切りに、一気に存在感を高めた。テヘランで中田英に臆することなく自分の考えをぶつけた姿は、まさに中心選手としての自信の表れだった。

 2002年大会で2得点を奪った男・稲本は今回、福西とポジションを争うことになる。もともとジーコは稲本をレギュラーに考えていた。2003年3月のウルグアイ戦(東京・国立)でも得点を挙げるなど、スタートは順調だった。が、全てを狂わせたのがケガだ。代表に復帰してかなりの時間が経過し、所属クラブでも試合に出ているが、ジーコの信頼を回復するまでに至っていない。本番までの1ヶ月が勝負になる。

 中田英は発足時からのキャプテンであり、ジーコが特別視する存在。98年にイタリアへ渡ってからペルージャ、ローマ、パルマ、ボローニャ、フィオレンティーナを渡り歩き、イングランドへ移った男の経験値を指揮官は高く評価する。それでも2004年から丸1年をグロインペイン(両足付け根痛)で棒に振った。中田英本人も心中穏やかではなかっただろうが、その後はボランチとして新境地を開拓。2月のボスニア・ヘルツエェビナ戦(ドルトムント)では得点も奪い、本大会に向け本調子を取り戻しつつある。

 小野伸二(浦和)もこの4年間は紆余曲折を経験してきた。2002年秋のジャマイカ戦(東京・国立)でファーストゴールを挙げ、チームの軸に君臨すると見られたが、その後はケガの繰り返しだった。特に痛かったのが最終予選のあった2005年。右足を骨折し、ほぼ1年間まともにプレーできなかった。ここへきてようやく本来のひらめきと輝きを取り戻しつつあるが、本大会では中田英や小笠原満男(鹿島)とレギュラーを争うことになりそうだ。

 小笠原は最終予選と2005年コンフェデレーションズカップの活躍が利いた。最終予選が始まるまでは「欧州組不在の時のエース」でしかなかったが、2005年6月のバーレーン戦(マナマ)の一撃がジーコの心を動かした。あのゴールによって立場が大きく変わり、今は2列目を担う有力なコマの1人になった。本大会では主力の1人としての出場を狙う。

 そして遠藤保仁(G大阪)は「当落線上の1人」といわれたが、アジアカップでの堅実なプレーなど、どんな時もある一定レベル以上を見せ、「計算できる選手」という印象を指揮官に抱かせた。ここへきてボランチだけでなくトップ下もできることをアピール。こうした地道な努力で代表をつかんだ。

 今や不動のエースナンバー10・中村俊輔もワールドカップは初めてだ。前回はあと一歩のところで落選し、日本中を驚かせた。あれから4年。イタリアやスコットランドでプレーし、心身ともに確実にスケールアップした。その存在感の大きさは2003年、2005年の両コンフェデレーションズカップやアジアカップの活躍ぶりが示している。最もインパクトが強かったのは2005年のコンフェデレーションズカップ、ブラジル戦の25mの芸術的ゴールだろう。世界を震撼させたあの得点をドイツの大舞台で再現してほしい。

 最も激戦といわれたFWは5人が選ばれた。高原直泰(ハンブルガーSV)は肺動脈血栓塞栓症が再発した2004年を除き、ほぼコンスタントに柱として君臨した。その間、決定力不足は目立ったが、最終予選後のラトビア戦、ボスニア戦で得点感覚が戻ってきたことをアピール。ジーコの信頼をがっちりつかんだ。

 大黒将志(グルノーブル)は最終予選の活躍ドイツ行きを射止めた。2002年の時点では代表入りに程遠い存在だったが、2005年に代表入りすると、最終予選初戦・北朝鮮戦(埼玉)で日本を危機から救うロスタイム決勝ゴールをゲット。さらにはアウェーの北朝鮮戦でも試合を決める動きを見せた。コンフェデ杯でも2得点と文句なしの活躍。「大舞台に強い」ところをしっかりと示した。

 柳沢敦(鹿島)も骨折を乗り越えて代表に滑り込んだ。もともとジーコ率いる鹿島の選手というアドバンテージもあったかもしれない。この4年間を振り返ると、イタリアのリーグ戦では無得点に終わったが、代表に戻ってくるたびにキレのあるパフォーマンスを披露。昨年の最終予選・北朝鮮戦とコンフェデのメキシコ戦で連発。イザという時に勝負を決められる選手であることが評価されたゆえんだろう。

 残る2人、玉田圭司(名古屋)と巻は最後の追い込みが実った形だ。
 玉田は2004年に代表デビューし、アジアカップ優勝に貢献した。特にバーレーン戦の2得点は今も語り継がれている。しかしその後、大黒の台頭やケガもあって、ドイツ行きが危ぶまれた。それでもここへきて持ち前のスピードを取り戻した。キリンカップのブルガリア戦では運動量とスピードで相手を圧倒した。それがジーコ監督の心を揺さぶったのだ。

 巻も「泥臭くゴールに詰め寄る」というスタイルが評価された。昨年の東アジア選手権でデビューしてから、たびたび試合の流れを変えた。体を投げ出して走り、勝ちを引き寄せようとする姿勢は今のジーコジャパンに最も必要。指揮官もそれを理解したのだろう。

 こうして選ばれた23人の選手たち。彼らが4年間に見せてくれた素晴らしいプレーを振り返りつつ、ドイツでの熱戦を見たい。

以上

2006.5.15 Reported by 元川悦子
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