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あーちゃん

今までは全く興味がなかったスポーツの世界。コロナ禍のときに新たな趣味を見つけたいと思い実際にスタジアムに訪れました。目に映る光景が全て幸せなことばかりで…スタジアムの全体から創り出す熱さ、魂がこもった熱い応援…選手、監督スタッフさんの頑張り。
本当にエネルギーをもらえました。
今ではすっかりJリーグファン!これからもずっとずっとサッカーがだいすきです。

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あーちゃん

今までは全く興味がなかったスポーツの世界。コロナ禍のときに新たな趣味を見つけたいと思い実際にスタジアムに訪れました。目に映る光景が全て幸せなことばかりで…スタジアムの全体から創り出す熱さ、魂がこもった熱い応援…選手、監督スタッフさんの頑張り。
本当にエネルギーをもらえました。
今ではすっかりJリーグファン!これからもずっとずっとサッカーがだいすきです。

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domi

2015年J1昇格プレーオフ決勝の長居スタジアムに乗り込んだアビスパサポの中に私もいました、アビスパ福岡対セレッソ大阪のゲームはスタジアムがセレッソのホームでしたが福岡から乗り込んだサポーターの気持ちが乗り移ったのか後半中村北斗選手のゴールで追いつき、ドローで昇格。昇格が決まった瞬間に知らない人同士でハイタッチ、泣いてる人もいました、あれから時間もたちましたがあの最高の瞬間は今でも忘れない幸せな夜でした。ツアーで行くか迷いましたが無理して行って本当に良かったと思います。

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domi

2015年J1昇格プレーオフ決勝の長居スタジアムに乗り込んだアビスパサポの中に私もいました、アビスパ福岡対セレッソ大阪のゲームはスタジアムがセレッソのホームでしたが福岡から乗り込んだサポーターの気持ちが乗り移ったのか後半中村北斗選手のゴールで追いつき、ドローで昇格。昇格が決まった瞬間に知らない人同士でハイタッチ、泣いてる人もいました、あれから時間もたちましたがあの最高の瞬間は今でも忘れない幸せな夜でした。ツアーで行くか迷いましたが無理して行って本当に良かったと思います。

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T.M MYS15

高校時代に、Jリーグが開幕した記憶を鮮明に覚えております。開幕当時の高校3年生のときは、クラス内で、「鹿島アントラーズ」と「横浜Fマリノス」のユニフォームのレプリカを購入し、毎回の昼休みにサッカーの練習試合をして、自分たちもJリーガーになった気分を味わっていたことが懐かしいです。開幕から30年が経ちましたが、Jリーグが開幕当時以上に盛り上がっていることが、感慨深く、明治安田生命がその担い手になっていることを実感できて嬉しいです。

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T.M MYS15

高校時代に、Jリーグが開幕した記憶を鮮明に覚えております。開幕当時の高校3年生のときは、クラス内で、「鹿島アントラーズ」と「横浜Fマリノス」のユニフォームのレプリカを購入し、毎回の昼休みにサッカーの練習試合をして、自分たちもJリーガーになった気分を味わっていたことが懐かしいです。開幕から30年が経ちましたが、Jリーグが開幕当時以上に盛り上がっていることが、感慨深く、明治安田生命がその担い手になっていることを実感できて嬉しいです。

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makoto

私はギラヴァンツ北九州を応援しています。
元々は柏レイソルのサポーターだった両親の影響もあり柏レイソルを応援していました。 2013年に柏レイソルからジェフ千葉に移籍した選手の応援にフクアリに行きました。その時の対戦相手がギラヴァンツ北九州でした。試合結果は6-1でジェフ千葉の圧勝。しかし大差で負けていたにも関わらず最後までひたむきにボールを追い続ける北九州の選手たちの姿にとても惹かれました。
翌月には東京から北九州、当時のホームスタジアム本城陸上競技場へ。北九州には縁もゆかりもありませんでしたが何度も通ううちに少しずつ知り合いも増え、毎週末北九州や全国各地へJリーグを観に行くようになりました。2016年にチームはJ3降格し、私がずっと応援していた選手も他チームに移籍。それでももう1年だけギラヴァンツ北九州を応援しようと迎えた2017年。北九州の新たなホームスタジアムであるミクニワールドスタジアム北九州グランドオープンの日に後の夫となるギラヴァンツ北九州サポーターと出会いました(夫は2010年からのギラヴァンツ北九州サポーター)。共通の友人たちと一緒に応援しているうちに意気投合し、翌2018年に結婚。結婚を機に生まれ育った東京から北九州へ転居し夫婦でゴール裏からギラヴァンツ北九州を応援するようになりました。2019年のJ2昇格の喜びも2021のJ3再降格の悔しさも共にわかち合いました。
サッカー観戦を始めて今年で13年目。Jリーグに出会ったことで今まで行ったことのない街に行き、Jリーグがなければ出会うことのなかったたくさんの人達と出会いました。その中でこれからの人生を共にするパートナーと出会い、今年念願の第1子も誕生しました。今は3人でJリーグを観にスタジアムに行く日を楽しみにしています。
私はこれからもギラヴァンツ北九州を応援していきます。

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makoto

私はギラヴァンツ北九州を応援しています。
元々は柏レイソルのサポーターだった両親の影響もあり柏レイソルを応援していました。 2013年に柏レイソルからジェフ千葉に移籍した選手の応援にフクアリに行きました。その時の対戦相手がギラヴァンツ北九州でした。試合結果は6-1でジェフ千葉の圧勝。しかし大差で負けていたにも関わらず最後までひたむきにボールを追い続ける北九州の選手たちの姿にとても惹かれました。
翌月には東京から北九州、当時のホームスタジアム本城陸上競技場へ。北九州には縁もゆかりもありませんでしたが何度も通ううちに少しずつ知り合いも増え、毎週末北九州や全国各地へJリーグを観に行くようになりました。2016年にチームはJ3降格し、私がずっと応援していた選手も他チームに移籍。それでももう1年だけギラヴァンツ北九州を応援しようと迎えた2017年。北九州の新たなホームスタジアムであるミクニワールドスタジアム北九州グランドオープンの日に後の夫となるギラヴァンツ北九州サポーターと出会いました(夫は2010年からのギラヴァンツ北九州サポーター)。共通の友人たちと一緒に応援しているうちに意気投合し、翌2018年に結婚。結婚を機に生まれ育った東京から北九州へ転居し夫婦でゴール裏からギラヴァンツ北九州を応援するようになりました。2019年のJ2昇格の喜びも2021のJ3再降格の悔しさも共にわかち合いました。
サッカー観戦を始めて今年で13年目。Jリーグに出会ったことで今まで行ったことのない街に行き、Jリーグがなければ出会うことのなかったたくさんの人達と出会いました。その中でこれからの人生を共にするパートナーと出会い、今年念願の第1子も誕生しました。今は3人でJリーグを観にスタジアムに行く日を楽しみにしています。
私はこれからもギラヴァンツ北九州を応援していきます。

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くまくま2023

およそ豊田市駅と豊田スタジアムの中間ぐらいの場所で60年前からホテルを営んでいる38歳男性です。私が小学校2年生の頃にJリーグが誕生しました。名古屋グランパスのファンであった私は当時のホームスタジアム、瑞穂競技場に行くのが楽しみだった。1995年天皇杯で初タイトルを勝ち取ったときうれしいかったです。ベンゲル監督の攻撃的なサッカーが好きでした。
2001年に豊田スタジアム開場は私の運命を変えました。グランパスのホームスタジアムとなり、年々試合数が増えていきました。また、日本代表戦、クラブWカップの開催とイベントが増えていきました。豊田スタジアム開場前、平日はビジネスマンで満室近く。土、日はガラガラでした。しかし豊田スタジアムのおかげで土、日に多くのサポーターにご宿泊していただけるようになりました。ただ、ご宿泊するサポーターの多くはアウェーチームですけどね。豊田スタジアム開場のおかげで高校卒業する前には家業を継ぐことを決断しました。
途中、バブル崩壊、リーマンショック、コロナウィルスと苦しいときはありましたが、経営理念であるホテルスタッフはお客様にとっての「サクセスサポーター」とあり、お客様をサポートすることもサービスの一部です。今後も多くのJリーグサポーターにわざわざ豊田まで来られ、日帰りで帰らずにわざわざ宿泊していくホテルを目指していきます。当ホテルもJリーグと共に地域から必要とされるホテルを目指してがんばります。
今年からグランパスと対戦するJ1クラブのぬいぐるみをフロントに飾っています。各チーム多くサポーターとお越しをお待ちしております。

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くまくま2023

およそ豊田市駅と豊田スタジアムの中間ぐらいの場所で60年前からホテルを営んでいる38歳男性です。私が小学校2年生の頃にJリーグが誕生しました。名古屋グランパスのファンであった私は当時のホームスタジアム、瑞穂競技場に行くのが楽しみだった。1995年天皇杯で初タイトルを勝ち取ったときうれしいかったです。ベンゲル監督の攻撃的なサッカーが好きでした。
2001年に豊田スタジアム開場は私の運命を変えました。グランパスのホームスタジアムとなり、年々試合数が増えていきました。また、日本代表戦、クラブWカップの開催とイベントが増えていきました。豊田スタジアム開場前、平日はビジネスマンで満室近く。土、日はガラガラでした。しかし豊田スタジアムのおかげで土、日に多くのサポーターにご宿泊していただけるようになりました。ただ、ご宿泊するサポーターの多くはアウェーチームですけどね。豊田スタジアム開場のおかげで高校卒業する前には家業を継ぐことを決断しました。
途中、バブル崩壊、リーマンショック、コロナウィルスと苦しいときはありましたが、経営理念であるホテルスタッフはお客様にとっての「サクセスサポーター」とあり、お客様をサポートすることもサービスの一部です。今後も多くのJリーグサポーターにわざわざ豊田まで来られ、日帰りで帰らずにわざわざ宿泊していくホテルを目指していきます。当ホテルもJリーグと共に地域から必要とされるホテルを目指してがんばります。
今年からグランパスと対戦するJ1クラブのぬいぐるみをフロントに飾っています。各チーム多くサポーターとお越しをお待ちしております。

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F.N MYS14

両親の影響で、幼いころから家族で埼スタに足を運んでいました。小学生の時には、姉妹そろってレッズのハートフルクラブでサッカーを習っていました。このように、物心がついた時からレッズとともにあった私は、社会人になった今でも、定期的にスタジアムへ足を運んでいます。離れて暮らす姉とも、Jリーグを見に行くことが会うきっかけとなっており、今やJリーグは、未だに家族4人を繋ぐ、1つのきっかけとなっています。

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F.N MYS14

両親の影響で、幼いころから家族で埼スタに足を運んでいました。小学生の時には、姉妹そろってレッズのハートフルクラブでサッカーを習っていました。このように、物心がついた時からレッズとともにあった私は、社会人になった今でも、定期的にスタジアムへ足を運んでいます。離れて暮らす姉とも、Jリーグを見に行くことが会うきっかけとなっており、今やJリーグは、未だに家族4人を繋ぐ、1つのきっかけとなっています。

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たいが

私は足に障害があります。
うまれてから21年間がんばってこられた,そのパワーの源となってくれたのは,
ヴァンフォーレ甲府の山本英臣選手の存在です。
先天性偽関節症という病気で赤ちゃんの頃から骨が細くなりおれてしまう私の足。
小学4年生,10才の時に大きな手術である脚延長手術をする決断をしました。10時間ほどに及ぶ大手術。手術を終えて病室に戻ってきたときの私の足には,重い鉄のリングが足の周りに付き,そこからつながって骨を貫通する20本以上の針金。目を背けたくなるような自分の足に落ち込んでしまう日々の連続でした。痛さで苦しむ日々。しかし,少しずつでも前へ進まなければ・・・・。リハビリを始めたが,なかなか思うように足は動いてくれない。前へ進むどころか,ますます気持ちは,へこんでしまう。どうなってしまうのだろうかと落ち込む日々の中,ヴァンフォーレ甲府の選手へ一通の手紙を出した。数日すると,選手から「小瀬で待っているから」「いっしょにがんばろう」など応援メッセージが届いた。2ヶ月以上続いていた入院生活であったが,私の目標は,「早く退院できるようにがんばって,ヴァンフォーレ甲府の試合を応援に行くんだ。」というものとなり毎日がんばってリハビリに励んだ。
退院から3日後,小瀬で行われた試合では,選手バスの迎えをさせてもらい,特別招待席で応援させてもらった。選手たちの力いっぱい戦う姿からたくさんのエネルギーをもらった。それから毎日のように車いすを母に押してもらいながら,練習場へ行くことが日課となっていった。
練習を終えた選手は私にたくさん声をかけてくれた。「がんばれ!」「大丈夫か?」一言ではあるが,選手から掛けられる声はいつも温かく,力となって私の心に積もっていった。中でも,一見怖そうで,言葉少ないおみさんが私の元へよってきて掛けてくれる言葉は,温かみいっぱいであり,心にずっしりきた。
シーズンが終わり,移籍が気になる頃となった。今日が最後の練習日。もしかするとおみさんが他のチームへ行ってしまうかもしれない・・・・なんとしてもヴァンフォーレ甲府に残ってももらわないと・・・・なんとか伝えたいこの気持ちを。学校を休んで練習場へ向かった。
ほとんどの選手が練習には来ていなかったが,おみさんの姿があった!!
練習を終えてひき上げてくるときに,おみさんも私の姿を見つけ近くに寄ってきてくれた。
しばらく座って話した。「よそのチームへ行ってしまうのですか?」「分からないな。」(ないとも言い切れない様子)「おみさんがいてくれることで,力をもらってがんばってこれたので,近くにいてもらって応援しつづけたいです。ヴァンフォーレ甲府に残ってほしいです。」と伝えた。しばらくいろいろな話をした。「寒くないか?」と気遣い,私に自分が着ていたジャンバーを掛けてくれた。できる限りの自分の気持ちを伝えた。京都サンガなどのチームからオファーが来ているということが新聞にも載る中で,どうなるのだろうかと心配の日々が続いた。
うれしい知らせが届いた。「おみさん,契約更新!!」よかった!本当に良かった。感謝の気持ちでいっぱいだった。
新しい年が始まった。真っ先に買った2012イヤーブック。おみさんのページを開くと「心は決まった」「少年サポーターと二人で並んで腰を下ろし,時間の許す限り言葉を交わした。」「プロ選手なら条件が第一で,情けだとか恩だとか,ほかのことを考える必要はないのかもしれない。でも,俺はそうじゃない。今日集まってくれたような人たちのことを抜きにして考えることはできない」・・・・・
私のことだろうか?私と同じように,おみさんに何としてもヴァンフォーレ甲府に残ってほしいというファンのことだろうか。最後の練習日のことを思い出し,「ありがとう おみさん」という気持ちでいっぱいになった。
キャンプが始まりしばらく選手たちとは会えなくなった。そんなある日,私は,学校で転倒してしまい,救急車で山梨から東京まで搬送されるという事態になった。松葉杖を使って移動ができるようになってきたのであるが,絶対に気をつけなければならないことが「転倒」であった。イリザロフ法という脚延長をしているのであるが,山梨では,この方法に詳しいお医者様はいないのである。そのため手術を行った東京都立小児医療センターまで救急車で向かった。膝から下の足ががっちりと固定されているため,転倒により大腿骨が折れてしまったのである。大腿骨にも同様のリングをつけ骨の固定をする手術をすることとなった。
手術前日は,ヴァンフォーレ甲府のキックオフパーティーの日であった。もちろん私はキックオフパーティーへ行く予定であったので,チケットを買ってあったが,とても行ける状態でなくなってしまった。母と姉がキックオフパーティーへ行った。母の姿を見つけるなりおみさんは,「大佳は?」と心配して声をかけてくれたそうで,救急車で東京の病院へ運ばれて,明日手術をすることを伝え,母が携帯を渡すと,電話口から手術前の私にエールをくれた。とても心配した表情で,「何かあったら連絡をして」と言って連絡先を教えてくた。2度目の手術でも,おみさんが力になってくれた。このあと,何度も繰り返される手術のたびに,おみさんからの力強いメッセージや電話をいただき乗り越えてくることができた。
10年以上過ぎたが,今でも私の足は折れた状態のままで,装具をつけて足を守り,松葉杖を使いながら生活をしている。足が不自由ということだけでなく,周りからのいじめや冷ややかな目を向けられることも度々あり,何度も何度も挫折しかけてきた。そんな気持ちを吹き飛ばしてくれて前へと進む力となってくれたのは,「ヴァンフォーレ甲府」「山本英臣選手」の存在であり,熱く戦う選手の姿,私にかけてくれる言葉の数々。
自分らしくできることを精一杯がんばって生きていくんだと強く思っている。

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たいが

私は足に障害があります。
うまれてから21年間がんばってこられた,そのパワーの源となってくれたのは,
ヴァンフォーレ甲府の山本英臣選手の存在です。
先天性偽関節症という病気で赤ちゃんの頃から骨が細くなりおれてしまう私の足。
小学4年生,10才の時に大きな手術である脚延長手術をする決断をしました。10時間ほどに及ぶ大手術。手術を終えて病室に戻ってきたときの私の足には,重い鉄のリングが足の周りに付き,そこからつながって骨を貫通する20本以上の針金。目を背けたくなるような自分の足に落ち込んでしまう日々の連続でした。痛さで苦しむ日々。しかし,少しずつでも前へ進まなければ・・・・。リハビリを始めたが,なかなか思うように足は動いてくれない。前へ進むどころか,ますます気持ちは,へこんでしまう。どうなってしまうのだろうかと落ち込む日々の中,ヴァンフォーレ甲府の選手へ一通の手紙を出した。数日すると,選手から「小瀬で待っているから」「いっしょにがんばろう」など応援メッセージが届いた。2ヶ月以上続いていた入院生活であったが,私の目標は,「早く退院できるようにがんばって,ヴァンフォーレ甲府の試合を応援に行くんだ。」というものとなり毎日がんばってリハビリに励んだ。
退院から3日後,小瀬で行われた試合では,選手バスの迎えをさせてもらい,特別招待席で応援させてもらった。選手たちの力いっぱい戦う姿からたくさんのエネルギーをもらった。それから毎日のように車いすを母に押してもらいながら,練習場へ行くことが日課となっていった。
練習を終えた選手は私にたくさん声をかけてくれた。「がんばれ!」「大丈夫か?」一言ではあるが,選手から掛けられる声はいつも温かく,力となって私の心に積もっていった。中でも,一見怖そうで,言葉少ないおみさんが私の元へよってきて掛けてくれる言葉は,温かみいっぱいであり,心にずっしりきた。
シーズンが終わり,移籍が気になる頃となった。今日が最後の練習日。もしかするとおみさんが他のチームへ行ってしまうかもしれない・・・・なんとしてもヴァンフォーレ甲府に残ってももらわないと・・・・なんとか伝えたいこの気持ちを。学校を休んで練習場へ向かった。
ほとんどの選手が練習には来ていなかったが,おみさんの姿があった!!
練習を終えてひき上げてくるときに,おみさんも私の姿を見つけ近くに寄ってきてくれた。
しばらく座って話した。「よそのチームへ行ってしまうのですか?」「分からないな。」(ないとも言い切れない様子)「おみさんがいてくれることで,力をもらってがんばってこれたので,近くにいてもらって応援しつづけたいです。ヴァンフォーレ甲府に残ってほしいです。」と伝えた。しばらくいろいろな話をした。「寒くないか?」と気遣い,私に自分が着ていたジャンバーを掛けてくれた。できる限りの自分の気持ちを伝えた。京都サンガなどのチームからオファーが来ているということが新聞にも載る中で,どうなるのだろうかと心配の日々が続いた。
うれしい知らせが届いた。「おみさん,契約更新!!」よかった!本当に良かった。感謝の気持ちでいっぱいだった。
新しい年が始まった。真っ先に買った2012イヤーブック。おみさんのページを開くと「心は決まった」「少年サポーターと二人で並んで腰を下ろし,時間の許す限り言葉を交わした。」「プロ選手なら条件が第一で,情けだとか恩だとか,ほかのことを考える必要はないのかもしれない。でも,俺はそうじゃない。今日集まってくれたような人たちのことを抜きにして考えることはできない」・・・・・
私のことだろうか?私と同じように,おみさんに何としてもヴァンフォーレ甲府に残ってほしいというファンのことだろうか。最後の練習日のことを思い出し,「ありがとう おみさん」という気持ちでいっぱいになった。
キャンプが始まりしばらく選手たちとは会えなくなった。そんなある日,私は,学校で転倒してしまい,救急車で山梨から東京まで搬送されるという事態になった。松葉杖を使って移動ができるようになってきたのであるが,絶対に気をつけなければならないことが「転倒」であった。イリザロフ法という脚延長をしているのであるが,山梨では,この方法に詳しいお医者様はいないのである。そのため手術を行った東京都立小児医療センターまで救急車で向かった。膝から下の足ががっちりと固定されているため,転倒により大腿骨が折れてしまったのである。大腿骨にも同様のリングをつけ骨の固定をする手術をすることとなった。
手術前日は,ヴァンフォーレ甲府のキックオフパーティーの日であった。もちろん私はキックオフパーティーへ行く予定であったので,チケットを買ってあったが,とても行ける状態でなくなってしまった。母と姉がキックオフパーティーへ行った。母の姿を見つけるなりおみさんは,「大佳は?」と心配して声をかけてくれたそうで,救急車で東京の病院へ運ばれて,明日手術をすることを伝え,母が携帯を渡すと,電話口から手術前の私にエールをくれた。とても心配した表情で,「何かあったら連絡をして」と言って連絡先を教えてくた。2度目の手術でも,おみさんが力になってくれた。このあと,何度も繰り返される手術のたびに,おみさんからの力強いメッセージや電話をいただき乗り越えてくることができた。
10年以上過ぎたが,今でも私の足は折れた状態のままで,装具をつけて足を守り,松葉杖を使いながら生活をしている。足が不自由ということだけでなく,周りからのいじめや冷ややかな目を向けられることも度々あり,何度も何度も挫折しかけてきた。そんな気持ちを吹き飛ばしてくれて前へと進む力となってくれたのは,「ヴァンフォーレ甲府」「山本英臣選手」の存在であり,熱く戦う選手の姿,私にかけてくれる言葉の数々。
自分らしくできることを精一杯がんばって生きていくんだと強く思っている。

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りんまま

Jリーグは小さい頃親と兄弟と一緒に見に行ってましたが、
なかなか習い事などでいけなくなってました。
高校生になりまた興味が出て、
バイトをしたりデートをしたり!
今では旦那と娘と3人でアウェイまで行くようになりました。
美味しいスタグルを食べサッカーを見たあとは観光し最高です。
これからもJリーグに楽しませていただきます!娘といろんなところへ行ってみたいたです。

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りんまま

Jリーグは小さい頃親と兄弟と一緒に見に行ってましたが、
なかなか習い事などでいけなくなってました。
高校生になりまた興味が出て、
バイトをしたりデートをしたり!
今では旦那と娘と3人でアウェイまで行くようになりました。
美味しいスタグルを食べサッカーを見たあとは観光し最高です。
これからもJリーグに楽しませていただきます!娘といろんなところへ行ってみたいたです。

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Y.S MYS13

父が昔から浦和レッズのサポーターで、父や父の友人とともにレッズの年間シートを購入していたことがあります。年間シートは1年ごとの更新制であり、更新し続ける間は前年と同じ座席を確保できるため、必然的に周りのサポーターとも毎年の顔馴染みとなります。名前を知らなくても、点数が入った時にはハイタッチをしたり、ビールをご馳走してもらったり、写真を撮ったり、試合後に祝勝会で集まったり…と、試合そのものの楽しさだけではなく、人との輪が拡がることや大勢で喜びや時に悲しみを分かち合えることがスポーツ観戦の醍醐味と感じております。そのような自身の経験から、茶の間サポーターにもぜひ一度は現地観戦に行くことをおすすめし、布教活動に勤しんでいます。

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Y.S MYS13

父が昔から浦和レッズのサポーターで、父や父の友人とともにレッズの年間シートを購入していたことがあります。年間シートは1年ごとの更新制であり、更新し続ける間は前年と同じ座席を確保できるため、必然的に周りのサポーターとも毎年の顔馴染みとなります。名前を知らなくても、点数が入った時にはハイタッチをしたり、ビールをご馳走してもらったり、写真を撮ったり、試合後に祝勝会で集まったり…と、試合そのものの楽しさだけではなく、人との輪が拡がることや大勢で喜びや時に悲しみを分かち合えることがスポーツ観戦の醍醐味と感じております。そのような自身の経験から、茶の間サポーターにもぜひ一度は現地観戦に行くことをおすすめし、布教活動に勤しんでいます。