あーちゃん
今までは全く興味がなかったスポーツの世界。コロナ禍のときに新たな趣味を見つけたいと思い実際にスタジアムに訪れました。目に映る光景が全て幸せなことばかりで…スタジアムの全体から創り出す熱さ、魂がこもった熱い応援…選手、監督スタッフさんの頑張り。
本当にエネルギーをもらえました。
今ではすっかりJリーグファン!これからもずっとずっとサッカーがだいすきです。
2023/05/30
domi
2015年J1昇格プレーオフ決勝の長居スタジアムに乗り込んだアビスパサポの中に私もいました、アビスパ福岡対セレッソ大阪のゲームはスタジアムがセレッソのホームでしたが福岡から乗り込んだサポーターの気持ちが乗り移ったのか後半中村北斗選手のゴールで追いつき、ドローで昇格。昇格が決まった瞬間に知らない人同士でハイタッチ、泣いてる人もいました、あれから時間もたちましたがあの最高の瞬間は今でも忘れない幸せな夜でした。ツアーで行くか迷いましたが無理して行って本当に良かったと思います。
2023/05/27
T.M MYS15
高校時代に、Jリーグが開幕した記憶を鮮明に覚えております。開幕当時の高校3年生のときは、クラス内で、「鹿島アントラーズ」と「横浜Fマリノス」のユニフォームのレプリカを購入し、毎回の昼休みにサッカーの練習試合をして、自分たちもJリーガーになった気分を味わっていたことが懐かしいです。開幕から30年が経ちましたが、Jリーグが開幕当時以上に盛り上がっていることが、感慨深く、明治安田生命がその担い手になっていることを実感できて嬉しいです。
2023/05/25
makoto
私はギラヴァンツ北九州を応援しています。
元々は柏レイソルのサポーターだった両親の影響もあり柏レイソルを応援していました。
2013年に柏レイソルからジェフ千葉に移籍した選手の応援にフクアリに行きました。その時の対戦相手がギラヴァンツ北九州でした。試合結果は6-1でジェフ千葉の圧勝。しかし大差で負けていたにも関わらず最後までひたむきにボールを追い続ける北九州の選手たちの姿にとても惹かれました。
翌月には東京から北九州、当時のホームスタジアム本城陸上競技場へ。北九州には縁もゆかりもありませんでしたが何度も通ううちに少しずつ知り合いも増え、毎週末北九州や全国各地へJリーグを観に行くようになりました。2016年にチームはJ3降格し、私がずっと応援していた選手も他チームに移籍。それでももう1年だけギラヴァンツ北九州を応援しようと迎えた2017年。北九州の新たなホームスタジアムであるミクニワールドスタジアム北九州グランドオープンの日に後の夫となるギラヴァンツ北九州サポーターと出会いました(夫は2010年からのギラヴァンツ北九州サポーター)。共通の友人たちと一緒に応援しているうちに意気投合し、翌2018年に結婚。結婚を機に生まれ育った東京から北九州へ転居し夫婦でゴール裏からギラヴァンツ北九州を応援するようになりました。2019年のJ2昇格の喜びも2021のJ3再降格の悔しさも共にわかち合いました。
サッカー観戦を始めて今年で13年目。Jリーグに出会ったことで今まで行ったことのない街に行き、Jリーグがなければ出会うことのなかったたくさんの人達と出会いました。その中でこれからの人生を共にするパートナーと出会い、今年念願の第1子も誕生しました。今は3人でJリーグを観にスタジアムに行く日を楽しみにしています。
私はこれからもギラヴァンツ北九州を応援していきます。
2023/05/28
くまくま2023
およそ豊田市駅と豊田スタジアムの中間ぐらいの場所で60年前からホテルを営んでいる38歳男性です。私が小学校2年生の頃にJリーグが誕生しました。名古屋グランパスのファンであった私は当時のホームスタジアム、瑞穂競技場に行くのが楽しみだった。1995年天皇杯で初タイトルを勝ち取ったときうれしいかったです。ベンゲル監督の攻撃的なサッカーが好きでした。
2001年に豊田スタジアム開場は私の運命を変えました。グランパスのホームスタジアムとなり、年々試合数が増えていきました。また、日本代表戦、クラブWカップの開催とイベントが増えていきました。豊田スタジアム開場前、平日はビジネスマンで満室近く。土、日はガラガラでした。しかし豊田スタジアムのおかげで土、日に多くのサポーターにご宿泊していただけるようになりました。ただ、ご宿泊するサポーターの多くはアウェーチームですけどね。豊田スタジアム開場のおかげで高校卒業する前には家業を継ぐことを決断しました。
途中、バブル崩壊、リーマンショック、コロナウィルスと苦しいときはありましたが、経営理念であるホテルスタッフはお客様にとっての「サクセスサポーター」とあり、お客様をサポートすることもサービスの一部です。今後も多くのJリーグサポーターにわざわざ豊田まで来られ、日帰りで帰らずにわざわざ宿泊していくホテルを目指していきます。当ホテルもJリーグと共に地域から必要とされるホテルを目指してがんばります。
今年からグランパスと対戦するJ1クラブのぬいぐるみをフロントに飾っています。各チーム多くサポーターとお越しをお待ちしております。
2023/05/27
F.N MYS14
両親の影響で、幼いころから家族で埼スタに足を運んでいました。小学生の時には、姉妹そろってレッズのハートフルクラブでサッカーを習っていました。このように、物心がついた時からレッズとともにあった私は、社会人になった今でも、定期的にスタジアムへ足を運んでいます。離れて暮らす姉とも、Jリーグを見に行くことが会うきっかけとなっており、今やJリーグは、未だに家族4人を繋ぐ、1つのきっかけとなっています。
2023/05/25
たいが
私は足に障害があります。
うまれてから21年間がんばってこられた,そのパワーの源となってくれたのは,
ヴァンフォーレ甲府の山本英臣選手の存在です。
先天性偽関節症という病気で赤ちゃんの頃から骨が細くなりおれてしまう私の足。
小学4年生,10才の時に大きな手術である脚延長手術をする決断をしました。10時間ほどに及ぶ大手術。手術を終えて病室に戻ってきたときの私の足には,重い鉄のリングが足の周りに付き,そこからつながって骨を貫通する20本以上の針金。目を背けたくなるような自分の足に落ち込んでしまう日々の連続でした。痛さで苦しむ日々。しかし,少しずつでも前へ進まなければ・・・・。リハビリを始めたが,なかなか思うように足は動いてくれない。前へ進むどころか,ますます気持ちは,へこんでしまう。どうなってしまうのだろうかと落ち込む日々の中,ヴァンフォーレ甲府の選手へ一通の手紙を出した。数日すると,選手から「小瀬で待っているから」「いっしょにがんばろう」など応援メッセージが届いた。2ヶ月以上続いていた入院生活であったが,私の目標は,「早く退院できるようにがんばって,ヴァンフォーレ甲府の試合を応援に行くんだ。」というものとなり毎日がんばってリハビリに励んだ。
退院から3日後,小瀬で行われた試合では,選手バスの迎えをさせてもらい,特別招待席で応援させてもらった。選手たちの力いっぱい戦う姿からたくさんのエネルギーをもらった。それから毎日のように車いすを母に押してもらいながら,練習場へ行くことが日課となっていった。
練習を終えた選手は私にたくさん声をかけてくれた。「がんばれ!」「大丈夫か?」一言ではあるが,選手から掛けられる声はいつも温かく,力となって私の心に積もっていった。中でも,一見怖そうで,言葉少ないおみさんが私の元へよってきて掛けてくれる言葉は,温かみいっぱいであり,心にずっしりきた。
シーズンが終わり,移籍が気になる頃となった。今日が最後の練習日。もしかするとおみさんが他のチームへ行ってしまうかもしれない・・・・なんとしてもヴァンフォーレ甲府に残ってももらわないと・・・・なんとか伝えたいこの気持ちを。学校を休んで練習場へ向かった。
ほとんどの選手が練習には来ていなかったが,おみさんの姿があった!!
練習を終えてひき上げてくるときに,おみさんも私の姿を見つけ近くに寄ってきてくれた。
しばらく座って話した。「よそのチームへ行ってしまうのですか?」「分からないな。」(ないとも言い切れない様子)「おみさんがいてくれることで,力をもらってがんばってこれたので,近くにいてもらって応援しつづけたいです。ヴァンフォーレ甲府に残ってほしいです。」と伝えた。しばらくいろいろな話をした。「寒くないか?」と気遣い,私に自分が着ていたジャンバーを掛けてくれた。できる限りの自分の気持ちを伝えた。京都サンガなどのチームからオファーが来ているということが新聞にも載る中で,どうなるのだろうかと心配の日々が続いた。
うれしい知らせが届いた。「おみさん,契約更新!!」よかった!本当に良かった。感謝の気持ちでいっぱいだった。
新しい年が始まった。真っ先に買った2012イヤーブック。おみさんのページを開くと「心は決まった」「少年サポーターと二人で並んで腰を下ろし,時間の許す限り言葉を交わした。」「プロ選手なら条件が第一で,情けだとか恩だとか,ほかのことを考える必要はないのかもしれない。でも,俺はそうじゃない。今日集まってくれたような人たちのことを抜きにして考えることはできない」・・・・・
私のことだろうか?私と同じように,おみさんに何としてもヴァンフォーレ甲府に残ってほしいというファンのことだろうか。最後の練習日のことを思い出し,「ありがとう おみさん」という気持ちでいっぱいになった。
キャンプが始まりしばらく選手たちとは会えなくなった。そんなある日,私は,学校で転倒してしまい,救急車で山梨から東京まで搬送されるという事態になった。松葉杖を使って移動ができるようになってきたのであるが,絶対に気をつけなければならないことが「転倒」であった。イリザロフ法という脚延長をしているのであるが,山梨では,この方法に詳しいお医者様はいないのである。そのため手術を行った東京都立小児医療センターまで救急車で向かった。膝から下の足ががっちりと固定されているため,転倒により大腿骨が折れてしまったのである。大腿骨にも同様のリングをつけ骨の固定をする手術をすることとなった。
手術前日は,ヴァンフォーレ甲府のキックオフパーティーの日であった。もちろん私はキックオフパーティーへ行く予定であったので,チケットを買ってあったが,とても行ける状態でなくなってしまった。母と姉がキックオフパーティーへ行った。母の姿を見つけるなりおみさんは,「大佳は?」と心配して声をかけてくれたそうで,救急車で東京の病院へ運ばれて,明日手術をすることを伝え,母が携帯を渡すと,電話口から手術前の私にエールをくれた。とても心配した表情で,「何かあったら連絡をして」と言って連絡先を教えてくた。2度目の手術でも,おみさんが力になってくれた。このあと,何度も繰り返される手術のたびに,おみさんからの力強いメッセージや電話をいただき乗り越えてくることができた。
10年以上過ぎたが,今でも私の足は折れた状態のままで,装具をつけて足を守り,松葉杖を使いながら生活をしている。足が不自由ということだけでなく,周りからのいじめや冷ややかな目を向けられることも度々あり,何度も何度も挫折しかけてきた。そんな気持ちを吹き飛ばしてくれて前へと進む力となってくれたのは,「ヴァンフォーレ甲府」「山本英臣選手」の存在であり,熱く戦う選手の姿,私にかけてくれる言葉の数々。
自分らしくできることを精一杯がんばって生きていくんだと強く思っている。
2023/05/28
りんまま
Jリーグは小さい頃親と兄弟と一緒に見に行ってましたが、
なかなか習い事などでいけなくなってました。
高校生になりまた興味が出て、
バイトをしたりデートをしたり!
今では旦那と娘と3人でアウェイまで行くようになりました。
美味しいスタグルを食べサッカーを見たあとは観光し最高です。
これからもJリーグに楽しませていただきます!娘といろんなところへ行ってみたいたです。
2023/05/25
Y.S MYS13
父が昔から浦和レッズのサポーターで、父や父の友人とともにレッズの年間シートを購入していたことがあります。年間シートは1年ごとの更新制であり、更新し続ける間は前年と同じ座席を確保できるため、必然的に周りのサポーターとも毎年の顔馴染みとなります。名前を知らなくても、点数が入った時にはハイタッチをしたり、ビールをご馳走してもらったり、写真を撮ったり、試合後に祝勝会で集まったり…と、試合そのものの楽しさだけではなく、人との輪が拡がることや大勢で喜びや時に悲しみを分かち合えることがスポーツ観戦の醍醐味と感じております。そのような自身の経験から、茶の間サポーターにもぜひ一度は現地観戦に行くことをおすすめし、布教活動に勤しんでいます。
2023/05/25
Y.I MYS12
2016年に柏レイソルの観戦に行ったときのエピソードです。熱心なサポーターである同僚から渡されて全員がユニフォーム着用、応援レクチャーも受け万全の体制で応援していたところ、一人で観戦している大学生と知り合いました。ヒッチハイクで一人旅の途中ということで、それならと仲間に入ってもらい一緒に応援、試合終了後この先も気をつけてと別れました。昨年になってあの時の学生が入社しているらしいと噂に聞き、あの日の応援がきっかけだとしたら嬉しいねと話していました。それが、まさかこの4月同じ部署で貼らくことになるとは!まさにJリーグが繋いでくれたご縁です。
2023/05/25
S.T MYS09
学生時代(2016年)にバックパッカーをしながら全国のスタジアムを巡ったことがありました。柏レイソルの観戦に訪れた際、明治安田生命の職員の方に「一緒に見ない?」と優しく声をかけていただきゴール裏で共に声を枯らした経験が忘れられず、「こんな優しい人のいる会社で働いてみたいな」という思いから、2019年に私も明治安田生命に入社を決意し共に働くことになり今に至ります。Jリーグが紡いでくれたご縁に感謝しています。
2023/05/25
T.M MYS06
レノファ山口のホームスタジアム「維新みらいふスタジアム」は、高校サッカー選手権山口県予選の準決勝・決勝の会場になります。全国大会出場をめざして迎えた最後の大会は、残念ながら準決勝で敗退となり、悔しい思い出が詰まったスタジアムですが、高校サッカー生活の最後に大事な仲間とプレーできた最高のスタジアムでもあります。あれから27年が経ち、改修等により少しずつ外観は変わってきていますが、いつまでも残り続けてほしいと思います。
2023/05/25
M.W MYS11
娘の生まれて初めてのJリーグ観戦。広いスタジアムとグリーンのピッチを観てそのスケールに圧倒されているようでした。開放的な空間で味わうフライドポテトとチキンナゲットなどのスタジアムグルメに大満足。娘にとって初めてのJリーグはとても楽しかったようです。
2023/05/25
J.T MYS08
埼玉県出身の私は、小学1年生のときから少年サッカー少年団に所属していました。小学校6年生のときに浦和レッズの本拠地であるさいたまスタジアム2002が完成し、少年団のみんなで完成式典に参加しました。当時日本ではあまり一般的でなかったサッカー専用スタジアムの迫力に強い感銘を受けたことを覚えています。いつかこのピッチに・・・という夢はかないませんでしたが、高校生までは部活動、大学・社会人はサークル活動としてずっとサッカーをつづけることができました。今もJリーグ観戦に行くと、その時の迫力を思い返します。
2023/05/25
T.S MYS05
大分で勤務していた際に大分トリニータを応援しているサポーターとチームの皆さまの一体感は、本当に心に残っています。選手の応援はもちろんなのですが、当時の片野坂監督の声がかすれると「浅田飴」さまがスポンサーにつき、監督の喉もサポートされたことを、選手やサポーターも浅田飴の缶のグッズをつくり、そのグッズを応援席でふりながら感謝されておられました。その甲斐もあり、その年は、J1昇格を果たされたことが本当に嬉しく心に残っています。
2023/05/25
T.T MYS10
川崎フロンターレの鬼木監督は、高校の同級生の弟です。当時、「鬼木の弟って、ホントにスゲエんだよ」と言われていたのを思い出します。選手として大輪を咲かせることはできなかったかもしれませんが、監督としてフロンターレをJ1で何度も優勝させるほどの強豪チームに作り上げた手腕は見事であり、引き続き注目しています。
2023/05/25
M.G MYS07
町田で勤務していた当時町田ゼルビアを応援していましたが、当時はJ2下位に沈んでいました。しかし最寄り駅からスタジアムに向かうバスの中でゼルビアサポーター作成の新聞が配られ、強烈な檄文が。。試合中も下位争いの試合とは思えない熱烈な応援で、選手も気持ちの入ったプレーを後半最後まで続けていました。「俺たちはJ1に行く」と言い続けていたサポーターの熱い応援が忘れられません。5月現在J2の首位を走る町田を密かに応援しています。
2023/05/25
T.K MYS04
新入社員のころ京都サンガF.C.の応援に参加した時の話です。京都サンガF.C.の応援席に、ひと際目立つサポーターの方がいらっしゃいました。その方は応援席の最前列で柵から身を乗り出し、頭を全力で振りながら応援しており、時折り疲れ切って苦しそうに座り込むのですが、すぐに復活して応援に加わるというのを繰り返されていました。こんなに全力でのめり込めんでしまう方がいるということは、Jリーグは魅力的なんだなと思いました。
2023/05/25
I.K MYS03
町田で勤務をしていた当時、FC町田ゼルビアは4年ぶりのJ2復帰を目指していました。J3からJ2への再昇格には観客一人ひとりの力が必要不可欠で、「選手と一緒になって戦うぞ!」という心意気で応援に行きました。最終、入れ替え戦で見事勝利し、J2への再昇格を果たすことができた際には、みんなで喜んだのを覚えています(同僚と焼肉でお祝いしました)。
2023/05/25
れおぽん
天気予報では午後から雷。
そんな予報をそっちのけにして、平塚競技場に向かったのを覚えている。
人生で初めてのサッカー観戦。
晴天の中行うだけでは無いのがサッカーだが、雷が怖くて道中こんな中サッカーするの??と疑問を持ちながら出かけた。
すると、試合前まで凄まじい雨と雷だったのに曇り空に変わって中止にはならなかった。
湘南ベルマーレのスクール生であったために小学生の頃からスタジアムに通った。
幼い頃はサッカーはやる専門で、観るのなんてそっちのけで友達とスタジアムの売店でおやつを買ったり、かけっこをして遊んだ。
今考えれば、親は試合観戦に行ってもこの繰り返しだったために申し訳なく思う。
小学生高学年になるとそれなりに、静かに試合を観れるようになった。
アジエル、ジャーン、リンコンその時期のスケットブラジル人選手がかっこよくて目に焼き付けていたのは記憶に新しい。
当時はJ2にいるのが当たり前だったのに、反町監督になってJ1に昇格した。
一日中友達と喜んだのを覚えている。
J1はレベルがものすごく高い。
そう感じたのは、初めてアウェーの試合を観戦した、対横浜Fマリノス、日産スタジアムで試合観戦をした時だ。
まず、スタジアムの広さに圧倒された。
鳴り止まない歓声、ベルマーレがこんなに大きなスタジアムで試合をしている!!!
と感激した。
結果は0-3で完敗。狩野選手が途中出場から華麗に得点を奪っていたのは忘れられない。
私自身、多くの試合をスタジアムに行って観戦した。
サッカー選手の熱量。体を張ったプレー。デザインされたセットプレー。監督選手全員で作り上げる戦術。
練習で積み上げたものを本番で、観客がいる中で実践している選手達がカッコよくて仕方がなかった。
そんなプロサッカー選手に憧れ、夢を描いた。
が、それは叶わなかった。
憧れた世界への道はかなり険しい。
今現在プロサッカー選手としてJリーグに出場している選手をリスペクトしている。
毎日の練習でどんだけ走って体力をつけているか
監督の戦術に合致できるパフォーマンスをするか
頑張っても試合に出れない時のメンタルケアなど、行わなければならないことが山ほどある。
カッコい!!!
だけの目線で見ていたサッカーは自身が過酷な日々を過ごしたからか、リスペクトへ変わっていった。
私は現在、1ベルマーレファンとして、1サッカーファンとしてサッカーを楽しんでいる。
どの世界にも努力をしている人達はいるけれど、私はプロサッカー選手、Jリーガーの方々に対しては特別な想いを描いている。
そして、敬意を払い1サポーターとして毎日声を出し、選手達に想いを伝えている。
どんなに苦しくても、俺らがついてる!!
前だけを向いて頑張ってくれ!!と。
2023/05/25
リア
両親はコンサドーレのボランティア活動を通じて知り合った仲だったので小さいときから何度も何度も試合を見てきました。
その中でも一番コンサドーレを応援したいと本気で思い始めた試合が2016年第41節のジェフユナイテッド千葉との試合でした。
この試合はコンサドーレがJ1昇格を決めた試合で応援するってこんなに楽しくてワクワクしてドキドキするんだと気づくことができた試合でした。もちろんルヴァンカップも見に行きました!すごく感動したけれどやっぱりジェフとの一戦が忘れられません!!
2023/05/19
T.S MYS02
Jリーグ創設当時、3~4歳でした。朧気ながら、ヴェルディ川崎の緑と鳥のマークにあこがれて、ミロをよく買ってもらっていたのを覚えています。
2023/05/25
ミーハーカメラマン
30年間でとりだめたベストイレブンの新聞記事の並びです
地元大阪の万博や長居でのピッチ写真がメインですがかずさんは長居での代表戦井原さんは年末の東京出張を延長してみた天皇杯準決勝セレッソ戦川口さんは愛知単身赴任中ラッキーにも観れたたらみオールスターゲームよりただ松田さん(名古屋駅の2002W杯報道写真展より)ウッチーさん(テレビでの引退試合より)はリアルピッチがなく別物ですが逆に特別なタイミングでした
Jリーグのおかげでカメラ趣味が続いてます
2023/05/23
KT
『サッカーの神様』ペレと写真を撮った100歳の日本人を知っています。
今年100歳になる私の自慢のおじいちゃんの事です。
祖父は横浜市で1968年に少年サッカークラブを創設(たちばなキッカーズ)。
そのクラブが来日したペレにサッカー指導を受けた事があるのです。(1974年)(写真添付)
そんな祖父に連れられ、開幕年か翌年に鹿島アントラーズvs横浜フリューゲルス、ヴェルディ川崎vs横浜マリノスを観に行ったことを今でも覚えています。
祖父の教え子が2人もJリーガーになっていたからです。
(大場賢治さんが鹿島所属、河本充弘さんV川崎所属)
当時5.6歳の私は「けんちゃん」と「かわもとくん」を応援すればいい事と、自分の好きな選手である『キーちゃん(北澤豪さん)』を見る事を忠実に守った観戦となりました。
(V川崎は1-2でマリノスに負けるも、その1点は北澤豪さんが得点したのを覚えています)
母は日産時代からの生粋のマリサポ。
その日、小さい私をトイレに連れて行き、水沼貴史さんのゴールを見逃した事を未だに言われます。
そんな母は木村和司さんの引退試合のユニフォームが抽選で当たり、2019年にその旨をマリノススタッフに伝えた所、握手会なのに写真まで撮って頂けました。
開幕からの私は母への対抗心からヴェルディ川崎(北澤豪さん)、横浜フリューゲルス(森敦彦さん)を応援していました。
その後、横浜F・マリノスを応援(2003.2004優勝は現地観戦)。
現在はV・ファーレン長崎(ヴィヴィくん)とJFLクリアソン新宿を応援しています。
またマスコットが大好きでJ1からJ3まで観戦しに行きます。
母は今でもマリノスを応援しにスタジアムへ行っています。
30年経った今でも現地観戦に行くのは、間違いなく祖父や母の影響です。
そしてサポーター歴30年はなかなかいいものです。
誰かの引退試合は歴が長いからこそ楽しめたりもします。
最近は、30周年だからこその昔の映像が出てきてとても楽しめています。
また今現在、あの当時の選手達が監督や色々な立場にいるため見ることができるのも面白い所です。
例えば、
あの『アジアの大砲』がヴィヴィくんの為に歌を歌う。
W杯初出場を決めてくれた『野人』から定期的に「野人プロジェクトのお知らせ」と言うDMが届く。
カズさんと都並さんを国立競技場で観ることができた。(クリアソン新宿vs鈴鹿ポイントゲッターズ、クリアソン新宿vsブリオベッカ浦安)
Jリーグが開幕した事により、サッカーがある幸せな生活を親子3代で味わう事ができ、本当に感謝しています。
Jリーグ開幕30周年に心から祝福と感謝を言いたいです。
そしておじいちゃん孝行として、今年の100歳の誕生日付近で、現地観戦に連れて行きたいと思っています。
2023/05/17
T.S MYS01
人生初のJリーグ観戦は、2006年4月29日に家族で行った浦和スタジアムでの浦和対大宮戦(埼玉ダービー)。浦和サポーターで埋め尽くされたスタンドは赤一色で、得点シーンでは地響きの様な歓声とスタンドの揺れに恐怖感すら覚え、かなりのカルチャーショックを受けた記憶があります。この試合、浦和の先発メンバーには闘莉王、鈴木、坪井、長谷部、小野、三都主等が名を連ね、黄金期だったようですが、このうち3名と昨年12月のJリーグウォーキングで一緒に歩いていたことに驚きました。
2023/05/25
バクさん
Jリーグ発足時、私は幼稚園生でした。男の子はサッカーに夢中になり、私も幼稚園のブランコの枠をゴールがわりに友達と毎日サッカーをして遊んでいました。GKをよくやっていた私、それは幼稚園生には当時衝撃すぎた横浜フリューゲルスの森選手のドレッドヘアやバンダナ姿に憧れていたからです。母親のヘアバンドを額に巻いて森選手になりながらゴールを守っていたのが記憶に残っています。そして、その頃の想い出が詰まってるのが『帽子』です。ヴェルディやレッズなど自分の好きなチームの帽子を被って登園して、私も森選手に憧れながらもヴェルディ川崎を応援していたので毎日必ず被っていました。しかし、幼稚園児は周りの友達に負けたくないもの。当時はカップラーメンやカレー、アイス等様々な商品にJリーググッズが付いていて、私はおまけの缶バッジを帽子に付けて他の友達に多分ドヤ顔してました(笑)しかし、真似っ子も幼稚園児。みんな帽子に缶バッジを付け始め、負けずと私も母親におもちゃではなく、ラーメンやカレーをねだってはグッズを集め帽子が埋まる程の缶バッジを付けていました。今、思えばよくこんな被りにくい重い帽子を使ってたなと思います。みんな歩く度にガチャガチャと缶バッジが揺れる音がして、一体どこのチームのファンなんだ?と思うような帽子でした。でも、それだけJリーグというものが子供の頃、一番熱中したものというのが今、帽子と共に思い返すことが出来ます。そんな大切な経験が出来たことを30周年を迎えた今年、改めて嬉しく思います。
ありがとうJリーグ、これからもよろしく!
2023/05/21
KK
1993年からずっと横浜マリノス、Fマリノスを応援してきました。
やはり初めての優勝。1995年のサントリーシリーズの最終節で優勝を決めた時の嬉しさは今でもよく覚えてます。
チケットもどうにかゲット出来てゴール裏の真ん中後方で応援していました。試合が終わり優勝が決まったときはみな狂喜乱舞!!
三ツ沢(マリノスのホーム)の試合だったけ ど、対戦相手の鹿島サポーターから「優勝おめでとう!」横断幕を出していただき、それも感動。お互いのサポーターでコールし合っていました。
当時は年間を2つのシリーズ(サントリー、ニコス)に分けていたのですが、それもなんか懐かしいですね。いろいろ試行錯誤しながら、日本サッカーもすごく強くなってきたんだなー。と感じます。これからもずっと横浜FマリノスとJリーグ、日本サッカーの発展を見守っていきたいです。
2023/05/17
Mamma Kita
Jリーグ30周年おめでとうございます。
30年前の秋、私は父に連れられて国立競技場でサッカーを初めて観戦ました。
試合の内容は覚えていませんが、当時の写真を見ると3歳の私は父の膝の上で楽しそうに旗を振っていました。
父の転勤で横浜に移り住んだ後は三ツ沢に通い、私は自然と横浜フリューゲルスを応援するようになりました。
試合前に会場で貰った選手名が載った紙、顔につけたペイント、スタンドで揺れる旗、サンバのリズム。カタカナのチーム名や選手の名前を必死で覚えた記憶があります。
Jリーグの節目節目に思う事は「私が応援していたフリューゲルスはもうない」ということ。
宝くじで1等が当たれば「F」を買うことができるのかもと考えたり、サッカーミュージアムにいたとび丸くんは元気かなと心配したり。
フリューゲルスの最後の姿が放送される度に涙がでました。
近くにフリューゲルスがあったからサッカーが大好きになりました。
横浜F・マリノスファンの夫と昨年生まれた娘と共に、これからもJリーグを応援していきます。
2023/05/15
べるマニア
『サッカーとの出会い』
ちょうど30年前、20歳だった私は、開腹手術によって熱心に取り組んでいたテニスが一時的にできなくなりました。
運動ができなくてモヤモヤしていたとき、Jリーグ観戦したら「あっ、サッカー観るのは楽しいな」という気持ちになりました。
地元に近いチームも見に行こうと思い、当時JFLだったベルマーレ平塚を観戦しました。
観に行ったその日からサポーターに温かく迎え入れてもらい、ユニフォームとフラッグを購入し、通い続けました。
以来、存続の危機もあったりしましたが、どんな状況であってもチームを温かくサポートし続ける地元のチームが一番好きです。
2023/05/14
ゆうたん
29年前、小学生だった私は初めて横浜マリノスと横浜フリューゲルスの試合を観に行きました。
三ツ沢球技場で雨の中、観戦して、どちらも横浜でどちらを応援して良いか分からなかった思い出があります。
今では良い思い出です。
2023/05/11
赤黒のサポーター
地元のクラブであるコンサドーレの勝利が北海道の元気の源です。ホームスタジアムである札幌ドームに行くとどこよりも熱いサポーターの声が響き渡りいつも試合前はワクワクしっぱなしです。
特に選手入場のチャントである「Go west」と「スティング」の出だしである「行け札幌!」の部分は毎回震えるくらいのワクワクと迫力で一つの楽しみです。また札幌のホームゲームに行きたいです。
2023/05/14
シホ
1994年、親の転勤で、生まれ育った広島から大阪へ引っ越した中学一年生の私。
新しい土地、学校に慣れようと頑張るも広島が恋しく過ごしていた頃、サンフレッチェが前期優勝しました。当時の私にとってそれは広島からのエールのように感じ、とても嬉しく力強かったことを覚えています。それからも苦しいとき、つらいとき、サンフレッチェの選手の頑張る姿にいつも支えられ30年過ごしてきました。サンフレッチェありがとう!
これからもサンフレッチェがあるだけで私は生きていけると思ってます。ずっと応援し続けます!
2023/05/14
じゅに
1993年5月15日、Jリーグが開幕するその日、当時わたしは、ガンバ大阪のホームスタジアムである万博記念公園競技場のすぐ後ろ手にある、中学校に通っていました。
「本日Jリーグ開幕!!」
クラスの後ろの黒板に、Jリーグのロゴと共に、そんな文言がチョークで書かれていました。
「明日、隣の競技場で、いよいよガンバ大阪の試合やなー」
その黒板を前に、サッカー部の男子の会話が聞こえてきます。
それまで、サッカーに全く興味がなかった私が、近くの競技場でプロのサッカーが見れるんだと、ワクワクし、それからは、数えきれないほど、ガンバ大阪の試合を見てきました。今では、子供たちと、新しく建った吹田スタジアムに観戦に行きます。
今でも、忘れられない、初めて、Jリーグと出会ったときの思い出です。
2023/05/10
赤黒トリコロール
2013年7月6日に初めてマリノスの試合を観戦に行きました。その年のMVPに輝いた中村俊輔選手の活躍が今でも脳裏に焼き付いています。あの日初めて観た試合、初めて聞いたチャントに鳥肌が立ちました。今ではマリノスは僕の生活の一部です。
2023/05/14
seigo18
30年前の国立からスタートしたJリーグ応援生活でしたが横浜フリューゲルス消滅という悲しいことがありました。1998年11月7日の三ツ沢での最後の試合の夕焼け、1999年1月1日の国立で見た青空は今でも覚えています。本当にきれいでした。
消滅後何人かの選手に会いに行きました。サインをお願いするとフリューゲルス時代の番号を書いてもらえたのも懐かしい思い出です。
2023/05/13
akko
1997年ジュビロ磐田が初めてチャンピオンシップに出場が決まりチケットを購入しました。
その後脳腫瘍が判明、手術後右半分の顔面麻痺、耳も聞こえなくなると言われました。ホームでの一戦は手術後水さえ口からもれる状態で聞いてました。
鹿島スタジアムでの2戦目は看護師さんに頼み消灯時間過ぎてもみてました。
ゴンちゃんのGKから奪った決勝点は忘れません。いまでもホームチケットは大切に保管してます。
顔面麻痺の改善のために2度目の手術が予定されましたが奇跡的に回復傾向に転じました。麻痺は残り人前には出る事も躊躇いがちの50才、ジュビロのボランティア団体(其の頃はアシストクラブ)で
ジュビロを支える一員になろうと決心
日韓W杯のボランティアもしました。
孫が四才の頃息子と3人でユニホームを来たらお嫁さんが突然写真を撮りました。
その写真に写ってる自分は笑ってましたよ。手術して19年間笑った写真はありません。口がえがんで目は動かないと思ってたからです。
ジュビロ磐田を応援してたから
笑顔で写真が撮れるのを知りました。
人生の中でも脳腫瘍の手術から
笑って写真撮れた日までジュビロがあったから前に進めたと思います。
今現在も顔面麻痺は残ってますが
孫達と3人でゴール裏で声を出して
応援してます。孫達には強いジュビロを見せたいので70代になりますが
頑張るつもりです。
ジュビロは私の絶望と生きるチカラを
くれたクラブです。感謝を込めて~。
2023/05/10
セコ太郎
自分は小さなころからこの105×68メートルのピッチの中で行われるショーが好きでした。
小学生の頃に症状は重くないながらも、不整脈と診断された私。
体を鍛えるために始めたサッカーにこんなにものめりこんでしまいました。
さて、2011.8.5。
この日は何の日かご存じでしょうか。
日韓ワールドカップ フラットスリーの一角として、日本のベスト16進出に貢献した、 DF松田直樹さんの 命日です。
自分はFマリノスサポでも、彼と親交があるわけでもありませんが、 前述の理由から、 彼が深刻な状態になっている、且つ心臓の病気だと知った時には 親の死ですら泣いたことがないのに、号泣しました。
なぜ、自分は無事で、マツに病魔が襲うのか。
代われるものなら代わりたかった。
しかし、その思いはすぐあった、年2回の定期健診で、副院長の言葉によって変わりました。
「松田選手がどのような状態だったかは分からないが、彼の分まで、あなたが頑張って生きるしかない」
もともと文章に興味のあった自分は
ライターとしてサッカー界の発展に微力ながら貢献しています。
今の彼のヘッドでのクリア、右足から放たれる糸を引くようなロングフィードは強烈に目に焼き付いてます。
2023/05/09
ハク
ちょうど10年前に、僕は来日しました。日本語学校のイベントで初めてデンカビックスワンにサッカー試合を観に行きました。なんだこのオレンジ、一目惚れでした。あれから10年、奇跡の残留、降格、それから今年念願のJ1復帰、僕はずっとアルビレックス新潟と戦ってきました。これからも第2の故郷でアルビと共に前に進み、必ずタイトルを取ります!
写真は当時クラスメートと初めて試合観に行った際の記念撮影です。
2023/05/06
けいちゃん
Jリーグも早30年なんですね。私は日本リーグ時代からのサッカーファンで小3の時に新潟市陸上競技場に日産VSヤマの試合があると父にお願いしてチケットを取ってもらいプロのサッカーを観戦したのはその時が初めてでした。その試合では木村和司氏、水沼貴史氏をはじめ多くの日本代表選手が出場していて、それからサッカー選手になりたい!夢を抱きました。ただ私には先天性の脳性麻痺という障害があり、「俺はサッカー選手になって日本代表になって世界に行くんだ!」と豪語していましたが家族や同級生は、当然ながら無理と思っていたと思います。当時は学校にサッカークラブも無ければ今のようなクラブチームも無かったので友達と暗くなるまでグラウンドでボールを蹴っていました。野球に流れる仲間も少なくなかったのですが一人になっても中学、高校になってもボールを追いかけていました。(著書、蒼き戦士参照)
社会に出る前に国立リハビリテーションセンターでCP日本代表の前身となる障がい者サッカーを立ち上げ、修了後に初代Jリーグチェアマンにアポなし突撃し、CP日本代表チーム(監督 田口禎則氏)をこの国に立ち上げました。
2002年W杯で日韓戦(監督 与那城氏)を地元新潟スタジアムで実現させたり、障がい者(カテゴリー分けしない)・健常者がともに活動しているパラボックスの代表兼選手として活動。
富山や千葉でもアミザーデという大会で岡島氏、ラモス氏(元読売)、水沼さんと同じチーム(アミザーデドリームチーム)で活動したり、県サッカー協会やアルビレックス新潟の協力を得て障がい者のサッカー教室や障がい者スポーツへの取り組みを30年続けています。
そんな私にも地元チーム、代表遠征、仕事に子育てと無理が重なり2009年に障がいが原因の頸椎症性脊髄症に二次障がい、三次障がいと脊椎を3回、股関節と4回の大手術を経験。最初の脊椎手術の時は「もうサッカーはもちろん仕事も今まで通りにはいきません。明日から車いすでの生活に慣れる事。」と人生が真っ暗になりましたが、「俺は絶対に自分の脚でピッチに戻り、チームに戻る!」というイメージして、3年間に渡るリハビリに耐えて医療従事者も驚かせるほどの回復。当時(全盛期)までは程遠いですが自分の脚でボールを蹴れるまでになりました。
代表チームはもちろん、Jリーグをずっと観て、勇気をもらっていました。当時、アルビレックスの監督だった黒埼氏、選手会長の内田潤氏ら多くの方が見舞いに来てくれました。
忙しい合間を縫って神奈川から水沼さんがリハビリ病院にサプライズで来てくれた時には涙が止まりませんでした。
現在の活動の一つ、道徳の授業「総合学習」で講演させてもらうことが多々あります。障がいがあっても夢を持って諦めずに生きていれば、いつか必ず報われる!と、いろんな場で講話とフレンドリーマッチをさせていただいています。「継続は力なり」と川淵氏から教わった言葉を胸に終わらないリハビリトレーニングを続けて生きています。
ありがとう!Jリーグ!30年おめでとうございます。
https://palrabox.amebaownd.com/
https://www.facebook.com/kei10palrabox
https://www.instagram.com/kei10palrabox/
2023/05/05
ガンバとセレッソとグランパスも
Jスタートと同時に小学生の子供と地元ガンバのクラブ会員になり数時間も並んで万博に通ってました日韓Wカップ前後の数年間は単身赴任で愛知にいて豊田st瑞穂グラウンド(小生の学生時代の遊び場)トヨタスポーツC練習見物と主にピクシーさんの動きをレンズで追いかけてました大阪に戻って2003年からの10年間は 万博を通るモノレールが通勤ルートになり祭日休日でトップチーム練習が有れば即見に行きファンサービスの楽しみも有りました定年延長も卒業し2013年からオールフリーになったのでコロナになるまで運動がてらチャリで万博まで走り練習見物してました一方孫のガンバアカデミー練習のアッシーも有りの30年間でした生でみたエムボマのあのゴール、ピクシーの華麗な動きは目にもフィルムにも焼き付いてます
2023/05/07
ことり
障害があり現在人工透析をしています。
シーズン中は毎週アルビを応援するのが楽しみのひとつです。
体調が悪い時もいつも見守ってくれるパートナーとの観戦が楽しく幸せです。
いつもありがとう。
2023/05/06
大福餅
ジュビロ磐田サポです
気づいた時にはジュビロを応援していました。これまでにJリーグ優勝、アジア制覇、J2降格、FIFAの制裁と良い時も悪い時も経験してきました
我々ほど、Jリーグの楽しさ難しさを体感しているサポはいないと思います。
また、ジュビロがシャーレを掲げる日まで応援し続けます。
2023/05/05
まさみ
徳島ヴォルティスを応援するようになってから6年目で初めて書いたゲーフラ。仕事の合間を縫って仕上げるまでに2カ月かかり、練習場で岩尾選手にサインしてもらったのが昨日のことのようです。徳島ヴォルティスにとっては余人をもって代えがたい、唯一無二のキャプテンでした。だから、岩尾選手が浦和レッズに行ってしまうことが寂しくて悲しくて、今日まで取り出して見る気にもなれませんでした。今日、ACLで浦和レッズが優勝したことを知り、岩尾選手の喜ぶ姿を記事で見ました。今ならやっと素直に言えます。憲さん良かったね、おめでとう。徳島からいつまでもいつまでも応援しているよ。
2023/05/07
中野グランパス
名古屋グランパスのファンです。でも生まれも育ちも東京で、名古屋に縁もゆかりも有りませんでした。
なぜグランパスのファンになったかというと、30年前にJリーグが始まった頃、大変なJリーグブームで、スタジアムで観戦したくてもチケットの入手が困難でした。
また当時は国立競技場で開催される試合も今よりずっと多く、その殆どは横浜や浦和など東京に近い関東及びその近郊のクラブのホームゲームでした。
そんな中でなぜか名古屋グランパスが国立でホームゲームをする試合が有り、東京から遠いクラブだからでしょうか、観戦チケットが比較的容易に入手できました。
国立でのホームゲームは最初の2~3年だけでしたが、それ以来グランパスのファンとなり、近場のアウェイゲームだけでなく、新幹線に乗って名古屋までホームゲームを観に行くまでになりました。
ここ何年かはちょっと生観戦をしてませんが、今年は二十数年ぶりに名古屋グランパスが国立でホームゲームをするらしいので、久しぶりに応援しに行きたいです。
2023/05/05
ひで
1993年、20才の時にJリーグが開幕しました。
当時大学生で名古屋から上京していた僕が応援するのは当然 名古屋グランパス。
ゴール裏の応援で「名古屋!」と叫び、その結果グランパスが勝利する。 首都圏の試合でもグランパスが勝利するのには名古屋人として誇らしく思えました。
それから時が立ち、40代になっていた2018年。
地元名古屋に戻っていた僕は、ゴール裏からではなく違う形でグランパスを応援ができないか模索していました。
そこに降って湧いたのが『グランパスボランティア』の誕生の話。
さっそく発足1年目から参加し、豊田スタジアムにいらっしゃるグランパスファミリーの皆さんのサポートをさせていただいています。
グランパスボランティアはJリーグでも後発のボランティアで発展途上ですが、豊スタをテーマパークみたいに楽しい場所にしたい、というのが願いです。
また、Jリーグの他クラブで活動するボランティアの皆さんとも連携・協力していきたい、と思っています。
2023/05/05
QVR
2020年後半から2021年にかけて、京都サンガサポーター有志一同でクラウドファウンディング「Paint It Purple」を実施しました。200名以上のサポーターのみなさんから、多くのご支援をいただきました。
エンブレムマット・紫のゴールネット・ロッカールームマットなどを寄贈し、サンガスタジアムbyKYOCERAを紫へ彩ることができました。また最後の寄贈品として、選手が集うミックスゾーンのグラフィック一式を制作させて頂きました。J1というステージで、熱く激しい戦いへ挑む選手達のサポートができる空間になるように願っています。
対戦チームの色も自分たちの紫も越えて、新しい高みへ。
「全ての色を、越えていこう。」
2023/05/05
たなかよ
Jリーグ開幕の日に私たちは結婚式を挙げました。夜、テレビでJリーグキングが立ち上がるのを見ながら、新しいことが始まる大きな高揚感がありました。
夫は、当時住金に勤めていて鹿島ファン。初めて二人で観たサッカーの試合は、Jリーグ開幕前に紀三井寺公園であった住金の試合。土のグラウンドでボールを蹴るジーコを見つめました。1997年のオールスターは、初めて娘を連れて観に行きました。以降も関西で開催される鹿島の試合はできる限り足を運び、娘二人もサッカー好き、鹿島好きに育ちました。
30周年記念スペシャルマッチも国立競技場へ家族4人で観に行きます。これからもずっとJリーグとともに!
2023/05/04
こっしー
小学生の時に学校で無料チケット貰って
観に行ってからヴィッセルが好きになり
そこから毎試合というほど
応援に行きました。
今では仕事よりもヴィッセルの方が大事で
試合がある時は休んだり仕事の場合は早く
切り上げて応援に行くようにしています。
2023/05/03
捷蔵
Jリーグ開幕日がたまたま結婚式でした。ですから、「Jリーグ〇〇年目」と聞くたびに、「結婚〇〇年かあ」とわかりました。ということで、祝・結婚30周年! これからも「Jリーグ〇〇年」の告知、よろしくお願いします(笑)
ちなみに、結婚式の後、当然のことながらヴェルディ対マリノスの試合をテレビ観戦しました。マイヤー選手のゴール、印象深いです。
翌日は、地元グランパスがアントラーズにコテンパンにやっつけられた試合をテレビ観戦しました。その後、ジーコが出てくるたびに、必ずあの日のゴールシーンが出てきて、そのたびごとに打ちのめされ続けています(笑)
ちなみに、初期のころのグランパスは、Jリーグのお荷物というくらい弱く、同じく弱かったガンバ、レッズと三すくみで傷をなめあっていたのは、今となってはよい思い出。いまや3チームとも強くなって、隔世の感がします。ただ、グランパスだけACLで優勝してない! がんばれ、グランパス! 結婚50周年(Jリーグ50年目)までにはぜひ!
そうそう、グランパスが強くなったのは、ベンゲル監督やストイコビッチ選手のいたころから! いまでも選手一人ひとりの名前を挙げて試合中の様子を語れるほど、本当におもしろかったなあ!
2023/05/05
まなぶ
僕の全て、清水エスパルス
2006年11月26日の静岡ダービー。エスパルスのゴール裏で初めてサッカー観戦をした。エスパルスの応援に魅了され、家族を無視して気づいたら周りに合わせて応援していた当時9歳の僕。あの頃から、エスパルスに恋をしていた。
あれから10年経った2016年、自分の好きな選手の後輩になりたい!という理由で志望した大学に合格し、上京してからホーム、アウェイ問わず応援しに行くようになった。社会人になった今でも、愛知からだいたいの試合に行くくらい変わらず応援している。
エスパルスがあったから出会えた数多くの人たち、行けた場所、出来たたくさんの思い出、そして夢。エスパルスがあったから、今の僕がいる。
誇り高く舞え 我らの夢エスパルス
2023/05/04
SATO.Q
Jリーグ元年から浦和レッズを応援し、今もシーズンチケットを更新し続けています。いつも3つ下の弟と二人で観戦してきました。その弟が昨年12月、急性リンパ性白血病を発症し、今年の2月に他界してしまいました。58歳とちょうど2ヶ月でした。
昨年11月のホーム最終戦アビスパ福岡戦では普通にビールを飲んで、普通に話して、普通に自転車でスタジアムに来て、帰り道、「お疲れ、じゃあまた」と別れた、あの弟が今はいないってことが、いまだに信じられないです。
61歳と58歳の兄弟が、こんな歳になっても親密に仲良くできたのも、浦和レッズ、Jリーグがあったからだと思います。
入院したての頃「まだ死なんわ」とLINEしてきた弟。だから当然、今年のシーズンチケットも当たり前のように更新した弟。あいつが見たくて見たくてしょうがなかったであろう浦和レッズを、あいつの分も(僕の心の中で生きているあいつと一緒に)応援したい、と思っているんですが、思い出が多すぎるスタジアムに行くのが、実は今すごく怖いんです。自分の感情を保てない気がして。
「バカ、行けよ」って弟の声は聞こえるんですけどね。
写真はスタジアムで試合前にビールを飲んでる弟。ただの一観客ですけど、J誕生以来、レッズを愛して、スタジアムに通い続けたこんな男がいました。弟が旅立ったのは今年の2月18日。浦和レッズの今季開幕戦の朝でした。
2023/05/03
さんきゅー
93年生まれの私はJリーグと同い年です。2010年W杯からサッカーが好きになった私が初めてJリーグを観に行ったのは2014年のこと。中村憲剛さんのスルーパスに感動したのを覚えています。遠くから観ても分かる猫背の背番号14はまさにスターでした!
そこから、フロンターレに注目しています。昨年のW杯、フロンターレの試合で観た三苫選手、田中碧選手、守田選手、谷口選手が大活躍してたのは感無量でした!
2023/05/04
ミキ
サッカーに興味がなかった数年前…
骨肉腫を克服した塚本氏の講演会に参加し大宮に熱く強い漢がいることを知りました。その頃から手話の勉強をしていた私は初めて「手話応援」を観戦し、障害あるなし関係なく盛り上がり、スタジアムの一体感には胸が熱くなりました…塚本氏と手話のおかげで大宮が大好きになりました!ここ数年は苦しいシーズンではありますが共に闘い、応援していきます。
2023/05/03
たコリ~ナ♪
小学生の時、選手が学校にサッカー教室に来てくれた事がきっかけで興味を持ち、応援を始めたサガン鳥栖。
スタジアムでとあるゲートフラッグに衝撃を受けました。
【人口たった6万のこの街にJリーグチームがある意義に気づけ】
当時のサガン鳥栖はJ2でも下位争い。2003年には年間わずか3勝で経営難に陥り、年末は毎年のように存続問題に揺れました。J1昇格は「夢のまた夢」。
こんなチームに存在意義はあるのか?そんな問いかけも聞こえてきました。
その後幾度の危機を乗り越え、2004年にJリーグからの紹介で松本育夫さんが監督に就任すると徐々にチームは力をつけていきました。豊田陽平選手や金民友選手を中心とした活躍でサガン鳥栖はついに2011年、夢のまた夢であったJ1に昇格しました。昇格した日は奇しくも私の誕生日。このチームとの縁を感じました。
それから10年以上経ち、サガン鳥栖も創立25年を越え、今もJ1の舞台で戦っています。
私も今はスタジアムで出会った妻と結婚し、小学生の娘と3人でスタジアムに通っています。
サガン鳥栖のサポーターが勝利後に歌うチャント「この街の誇りサガン鳥栖」。原曲は鉄道唱歌です。
かつて鉄道の街と言われた鳥栖。鉄道に変わる新たな時代のシンボルとしてサガン鳥栖がこれからもずっと愛されるように、【人口たった6万のこの街にJリーグチームがある意義】を噛みしめながら、家族と仲間と今日もこの唄を歌います。
これが私とJリーグ(サガン鳥栖)のエピソードです。
22023/05/02
こうちゃん
私が本格的にサッカーを見始めたのは2002年
そのときはサッカーワールドカップが日本と韓国で開催されていて日本代表の健闘を見てサッカーが好きになりました
2003年にヴィッセル神戸のホーム試合を見に行って2004年からヴィッセル神戸のサポーターになりました
2005年と2012年に2度のJ2降格があったけど見捨てずに今でも見守っています
天皇杯で優勝してクラブ創設25年目で初タイトルを獲得したときは嬉しかっただけでなく苦しいときこそチーム関係者を信じてよかったと思いました
早いうちに2個目のタイトルを獲得してください
2023/04/29
鹿島アントラーズ大好き!!
鹿島の三連勝したときは本当に嬉しいかったです。浦和戦でアウェーで前半はなかなか決められなくて後半66分内田篤人選手からクロスに興梠選手が合わせってくれてゴールしてくれ本当に嬉しいかったです。2018年にACLを獲得してくれクラブワールドカップに出場してくれ決勝はレアル・マドリードと戦いました柴崎選手2点はすごかったです。今シーズンもサポーター共に優勝しましょう。
2023/04/22
れもん
2006年8月30日、サンフレッチェ広島対ジュビロ磐田戦で、私はエスコートキッズに選ばれ、青山敏弘選手と手を繋いで入場しました。そこからずっと、私は青山選手の大ファン。そして、当時小学生だった私も今は1児の母に。去年生まれた息子の名前には、青山選手のお名前から1字いただきました。今の夢は、この子を連れてスタジアムへ行くことです。
2023/04/21
zonogu
Jリーグ開幕を機に2つ上の兄とハマったサッカーに出会って30年
翌年に生まれた弟と、男3兄弟共通の話題は常にサッカー
アウェイ遠征やW杯にACL、観戦旅行で色んな所へ行った
友人の半分以上は経験者やサッカー好き
Jリーグが無かったら全く違う人生になっていたと思う
ありがとうJリーグ
2023/04/29
かえ
こんにちでは見れなくなりましたが、アウェイのスタジアムでホーム側のスタぐるを食べに行けたのが懐かしいです。
サポ熱の熱い浦和のホームに浦和サポーターのお友達と待ち合わせ。ちなみに私は柏のサポーター。もちろん、浦和の熱いサポーターの方からお声がかかりましたが、美味しいスタぐる食べたくって(ニッコリ)と伝えると
ここのが美味しいよとか教えてくださって試合前の楽しいひと時がありました。
今では敵対しすぎて考えられない光景ですが、本来試合が始まる前はサッカーサポーター仲間として交流が持てたらいいですよね。
2023/04/22
あおあお
自分は清水エスパルスのサポーターです。
初めてスタジアムへ行ったのは5歳ぐらいの時で真田雅則さんの勇姿とチャントに心奪われその時からずっとゴール裏で見続けています。
父と10年以上2人で行き続け、病気などで少しスタジアムへ遠のいてからは1人で行き、そこで仲間と出会い、妻ともスタジアムへ行きました。
そして現在は子どもと2人でスタジアムへ行っています。もちろんゴール裏で仲間とチャントを歌いながらエスパルスを見ています。子どもはまだチャントはうたえませんが見様見真似にジャンプをしクラップをしています。エスパルスがある限り自分はゴール裏でうたい続けます。
2023/04/20
たいころ
車椅子の息子とのサッカー観戦が生きがいです。サッカー用語のビルドアップ、切り替え切り替えと言う言葉が好きです。人生の生き様になぞらえます。日々努力を重ね自分を磨くことの大事さに気づきます。これからも息子と一回一回の観戦を大事にしていきたいです。
2023/04/23
フリューゲルスの欠片
Jリーグ30年のお誕生日おめでとうございます。
いろんなことがあったJリーグ、いろんな波や闇を乗り越え、今があるんだと思います。
今ではJリーグは日本の社会にとっては欠かせないものになり、今では"どんな人でも、どんな場所でも、病気や障がいがあっても"誰にでも優しい、誰にでも使いやすいJリーグになれたんだと思います。
今でもスタジアムに通うことがあります。スタジアムで愛する家族とともに爽やかな笑顔の子どもたちや、気心知れる人らと楽しく食事しながら楽しい1日を過ごす人たち見てて、確かにあの時僕らはJリーグの理念と会社の狭間で泣いたけど、でも、あれがあったから今のJリーグに生きる人らの笑顔があるんだと思えば、そんな犠牲も価値があったんだなんて思えるようになりました。
Jリーグ30年の誕生日、誠におめでとうございます!!
2023/04/22
みきすけ
Jリーグ発足時は中学生。いわゆるJリーグブーム真っ只中の学生時代でしたが、サッカーには興味がありませんでした。しかし、数年前に会社で誘われて横浜FC戦を初観戦。テレビで観る大きなスタジアムと違い、ピッチが近くて選手が近い!目の前のドリブルが速い!そしてなにより、年齢を感じさせない当時の三浦カズ選手と、カズ選手がピッチ外でアップを始めただけで盛り上がる会場にびっくり!Jリーグブームを知らないちびっこも、カズ選手に大きな声で声援を送る様子に感動しました!!
2023/04/20
フルダイ
17年ぐらい前、付き合っていた彼女がガンバ大阪のサポーターであったことがきっかけで初めて万博記念競技場に応援に行きました。僕も当時、日本代表で活躍していた遠藤保仁選手のファンであったので生で遠藤選手のプレーを見てすごく興奮したことを覚えています。
今では、その時の彼女が妻となり2人の子供たちと一緒に家族でガンバ大阪を応援しています。年に5.6試合、岐阜県からパナソニックスタジアムまで応援に行っていますが、家族みんなで楽しめる家族行事になっています。
2023/04/19
ken10
Jリーグを好きになったのは中村俊輔さんがきっかけです。FKやパスといったプレーだけでなく、逆境を努力で乗り越える姿やいつも優しい所が大好きです。
引退してからも俊さんはずっと僕のヒーローです。
2023/04/17
マサト
ノエビアスタジアムの、ヴィッセル神戸ーガンバ大阪戦で、試合に、出ていなかった、フェルナンジーニョ選手と、メインスタンドで、握手をしました。すごく感動したのを覚えています。
2023/04/12
タケシ
もう20年以上前になります。学生であった私と私の母は、出来たばかりの埼玉スタジアムに良く行きました。親子で田んぼ道を自転車漕いで通っていました。母は田中達也選手の大ファンでした。そんな母との観戦の思い出は、リードした終盤、攻め込まれて相手CKになると、母はハラハラと心配で観ていられなくなり、席を立ってコンコースに隠れてしまうのでした。無事にピンチをしのぎきったとわかると出てくる。そんな母でした。母にとって選手は息子のようであったのかもしれません。母は昨年8月に永眠しました。今でもスタジアムに行くと、コンコースに母が隠れているのではと思いたくなります。
「母さん、試合終ったよ。勝ったから出ておいで。一緒に歌おう。」
きっと天国で観ていることでしょう。
2023/04/18
佐野明政
Jリーグスタート当初、学生だった私にとってプラチナチケットは遠い存在。試合見たさにスタジアムで各種アルバイトをしながら、熱狂の中に身を置いていました。当時から、Jリーグが推進する「ホームタウン活動」に感銘を受け、自身の仕事でも地域を大切にし、地元のコミュニティを育むことを使命にしてきました。その活動の中、ご縁があって2019年から名古屋グランパス主催「鯱の大祭典」のユニフォームをデザインさせて頂いています。また、Jリーグ30周年の今季、全60クラブとのコラボTシャツ企画などを主導しています。身につけるものを通じスポーツや街の話題、クラブや選手を応援する気持ちで繋がり、全国で活発な交流が生まれることを期待しています。Jリーグからもらった感動を胸に、今後も様々な取組みで日本のサッカー文化を盛り上げる一助でありたいと思います。https://www.beams.co.jp/news/3472/
2023/04/15
今木岳彦
1993年5月15日、Jリーグ誕生の日に我が家にも待望の長男が誕生しました。
野球が全盛期であった時代に、小学校2年生から高校3年生までサッカーをしていた私は、妻と相談し名前を嵩士(しゅうと)に決めました。
小さいころからサッカーに触れ、姉とともにスタジアムにセレッソ大阪の応援に何度も行った嵩士は、高校生になると元名古屋グランパスの楢崎選手出身の奈良育英高校へサッカー推薦で入学しました。
高校3年生で選手権出場を決め、旧国立競技場での最後の入場行進が瞼に残っています。
その後、多くのサッカー少年と同じように高校サッカーで燃え尽きた嵩士は、現在社会人サッカーを続けながら司法書士として法律家の道を歩んでいます。
社会はルールの中で動いていることと、法律家として人の支えになることは、サッカーを通じて教わってきたものに違いありません。
これからのJリーグと嵩士の成長が楽しみです。
2023/04/12
スヌーピー二郎
最初の10チームの中に入れず、2年後に昇格したのが懐かしい。タイトルも沢山取ったので、また常勝軍団になって欲しい。
2023/04/11
田中先生
エピソードをnoteに投稿しました。
よろしければ読んでほしいです。
https://note.com/beleam/n/nfb7251568a03
2023/04/07
たかひこ
30年前の5月15日は当時の勤務地であった名古屋にいました。当日は土曜日でしたが、昼過ぎにはホテルで行われた後輩の結婚式の司会を頼まれていました。以前よりサッカーファンで、特にヤンマー・釜本選手がお気に入りだった私にとっては、Jリーグが始まったことはとても感慨深く、嬉しいものでした。そんなこともあり、結婚式の司会ではサッカーネタを使ってやろう!と考え、新郎新婦の友人・親戚からのお祝いコメントを紹介する際に、「それでは、ご両名の強力なサポーターからお祝いのコメントいただきたいと思います」と話したところ、会場からは失笑が漏れました。
当時はサポーターの言葉が浸透されておらず、筋肉等を保護する布製の包帯を思われていたんだと、少しガッカリした思い出があります。
あれから30年が経ち、私は千葉に在住、当時の新郎新婦は全国でいくつか異動先を経て名古屋に住んでいます。当時勤務していた会社はお互い卒業しましたが、第二の職場は偶然にも同じ会社に勤務することとなり、引続きの交流が続いています。
2023/03/19
ナショナルダービー復活へ
1997年のチャンピオンシップを、鹿島サポ席で観戦してました。残念ながら鹿島は負けてしまいましたが、素晴らしい試合でした。試合後インファイトの輩がピッチに乱入し、ジュビロのメンバーに詰め寄るという前代未聞の騒動がありました。その時鹿島サポ(インファイト以外)は乱入したサポに大ブーイング、どこからともなく大きな「ジュビロ磐田」コールが起こりました。みんな鹿島を愛してるけど、サッカーも愛してるんだなって感じる瞬間でした。余談ですが、インファイトが鹿島サポなんじゃない、インファイトは鹿島サポの1部なんだよ。よくレッズサポが叩かれるけど、あれも一部の人間。レッズサポ、素晴らしいじゃないですか。互いにサポ同士もリスペクトし合って、Jリーグを更なる高みに上げていきましょう!!
2023/04/11
ぷち
平成5年5月15日、開幕戦が行われJリーグが産声を上げたまさにその日に、私達夫婦は結婚式を挙げました。Jリーグと同じく30周年です。夫は当時からサッカーファンでしたが親の都合でその日になり…式の内容はかなり忘れてしまいましたが、式の最中夫が「あー、早く帰って試合が見たい!」と呟いていたのはいまだに忘れていません(笑)そんな夫の影響で三人の息子たちも全員サッカーを始め、ずいぶん楽しませてもらいました。今は家族でアルビの試合に出かけるのが楽しみになっています。夫は現在病気と闘っている最中ですが、代表やアルビの活躍がとても励みになっているようです。これからもJリーグと共に…益々のご発展をお祈り致します。
2023/04/06
こうちゃん
Jリーグが始まったとき、私は興味がなくプロ野球を応援していました。地元にJリーグ(セレッソ大阪)ができると知ったとき地元愛だと思いますが絶対に応援したいと思いました。できてすぐ、会員に入り今に至っています。
私の一番の思い出は、2000年勝てば優勝するときに負けてできなかった時です。座席に座ったまま30分全く何も考えられなかったことです。今でもそのときのことを考えると時が止まったように思います。もう一つは2017年、ルヴァンカップ(埼玉スタジアム)で優勝したことです。前日から、息子と埼玉に入り、ゴール裏の真ん中で見ており、優勝したときは周りの人と喜び合い、こんな幸せなことはないとしばらくの間、大阪に帰ってもうれしさがこみ上げてきていました。
六九歳になる今もずっとセレッソ大阪を応援しています。後はJリーグの優勝を願っています。
2023/03/19
カルロス正彦
観客100人という日本リーグか試合を観戦して満員のJリーグ開幕。試合の間、涙が止まりませんでした。横を見ると一緒に見ていた友達もずっと泣いていました。忘れられない思いでです。
2023/04/08
18のままさ
Jリーグがその歴史の扉を開いた1993年。
世の中は老若男女国内初のプロサッカーリーグに熱狂し、一大ブームを巻き起こした。
当時高校3年生だった私は、地元福岡で開催されるヴェルディ川崎とガンバ大阪の試合のプラチナチケットを手に、小学校からの幼なじみ3人と共に博多の森陸上競技場へと向かった。
当時のヴェルディはカズやラモス、武田、ビスマルク、柱谷と言った圧倒的な人気と実力を兼ね揃えた言わばドリームチームで、対するガンバもJリーグ1のイケメンFWと謳われた永島を筆頭に、松波や磯貝と言ったリーグを代表する選手がスタメンに顔を揃えた。
そんなスター選手のプレーを生で観戦できる喜びと熱気で、3万人近くを収容した超満員のスタジアムは異様な空気を醸し出していた。
携帯電話もまだ普及していない時代に、その一瞬一瞬を記憶に刻もうと血眼になって選手達のプレーを追った。
1993年の夏。
僕たちは間違いなくその熱狂の渦の中にいた。
それから30年。
その時の4人はそれ以降も一切連絡が途切れる事はなく、今も毎年のように会っては共に酒を酌み交わす仲が続いている。
外見は随分と歳をとったが、あの時の熱狂を引きずったまま、まだ青春は続いている。
2023/03/20
こう
2001年に急死した仲間
お前が空から見てると思うと応援に手抜けないな!って22年たった今でも時々思うよ。安心しろ!サポーターは浦和レッズを裏切らないから!一緒にJ リーグ30周年お祝いしような
2023/03/19
すといこたまだ
1994年9月17日、小学2年生だった私のJリーグ初観戦の日。
大雨の長良川競技場で、ストイコビッチ選手のリフティングドリブルに心を打ち抜かれました。
その日からサッカーに熱中し、大学4年生まで思う存分プレーしました。
大学を卒業後、広島県で働き始めました。
4年間が過ぎた2013年8月17日。
半年後に海外転勤が決まっていた私は、「最後にストイコビッチ監督を生で見たい」と思い、広島のホームで行われる広島対名古屋の試合を見に行くことにしました。
お盆休みのため、友だちと予定が合わず、初めて1人で観戦。
「1人だし」「最後だし」ということで、初めて試合後のバスを出待ちしてみました。
「最後にストイコビッチ監督を一目見たい!」
そう思いながら、バス出口で立っていると、後ろから肩を叩かれました。
知らない女性、同世代くらいでした。
「玉田選手がどこに座るかわかりますか?」
「初めての出待ちなのでわかりません、、、」
広島に住みながら、当時名古屋に所属していた玉田選手の大ファンという女性でした。
3年後
海外赴任を終えて日本に戻った私は、この女性と結婚しました。
ピクシーが運んでくれた偶然の出会いから、グランパスの話題で意気投合した私達は、無事に遠距離恋愛を乗り越え、予想もしていなかったゴールに辿り着きました。
いつかもし、ピクシーに会うことができたら、「私の人生を素晴らしいものにして下さり、本当にありがとうございます!!!」と伝えたいです。
当然、全てはJリーグのおかげ。
全ての関係者の方に、猛烈に個人的な感謝を捧げます。
2023/03/18
鹿島と私
私がホームタウンに移住することになったきっかけは、2015年8月6日。鹿島仙台戦。
幼い頃から家族で週末は群馬からカシマサッカースタジアムに足を運んでいましたが、歳を重ねるにつれ興味が他のものに移り、スタジアムにも家族と出掛けるのも段々と少なくなっていきました。
そんな夜なのにまだまだ蒸し暑い夏のある日、母から「アントラーズの試合やってるよ」
この何気ない一言に、私はテレビに目を向け、紅いユニフォーム、見慣れたスタジアムに響く応援、あの頃応援していた選手の名前に懐かしさを覚えながら、スコアは前半0-2。
ここからのアントラーズの逆転劇に、非現実のことが現実に起きているような、目の前の映像が信じられないくらい感動をしました。
そこからは、週末は再びスタジアムへ片道3時間。
あの頃は父の運転でしたが、今度は私の運転。
そして今、希望していた鹿嶋の企業に就職することができ、スタジアムへは片道20分になり、現在はホームタウンに家を建てている真っ最中です。
両親をこちらへ呼んで、また家族みんなでスタジアムへ応援に行こうと今から話し合っています。
帰省したときは、あの日の鹿島仙台戦を家族で見るのがお決まりになっているのですが、あの感動をくれた土居聖真選手を家族みんなでずっと応援しています。
あの逆転劇がなかったら、あの試合を見ていなかったら、今の私はいません。家族ともこんなに仲良くなれなかったかもしれません。
鹿島一筋の土居選手、私もこれから文字通り鹿島(鹿嶋)一筋で、アントラーズを応援していきます!
2023/03/12
高野正一
昨年の最終戦ホームゲーム
この日はある選手の引退試合でしたが、当初は妻と二人で行くつもりでしたが、息子たちを誘ってみたら行くということで初めて家族で観戦することができました。特に次男はサッカーに興味はなかったのですが、最後まで雨の中、観戦しました。試合にも勝ち、わたし達には忘れられない一日になりました。
2023/03/07
mary chan & みつばち メルシー
何年かサッカーを応援し、去年からGKを応援するようになって視点がとても変わりました。
雨の日は、ボールが来ないときは体が冷えないようにしないといけないし、味方が得点したときは離れたところで喜ぶ。
だれかが得点しないと勝たないし、また、失点したときはGKに目が注がれることが多い。
だから、チームメイトを大切にするのではないかと思いながら応援したりします。
それに応援している自分は、無失点のときにヒーローに選ばれてほしいけれど、得点した選手になります。
それだからこそナイスセーブがあった試合で勝利のあとに、みんなと喜んであるのをみると こちらもとても嬉しくなり、チームメイトもチームもますます応援したくなるのです。
#アビスパ福岡
#Jリーグと私
2023/03/14
高橋幹
#jリーグと私
私は、高校生くらいに、初めてニッパツ三ツ沢球技場に行きました。その時に横浜FCに、出会い、ホームゲーム観に行きました。今年は、ゴール裏で、声出し応援が初めての経験をしました。一体感がすごく、共に戦っているだと思いました。横浜FCは、2018年から声出し応援をしていて、私が観に行き初めた頃は、コロナ禍でした。声出し応援が初めて、経験したのは、今年の開幕戦名古屋グランパス戦から声出し応援を経験することができました。
ニッパツ三ツ沢球技場は、キッカーターゲットができたます。
2023/03/08
しろねこ1982
2018年8月11日
アルビレックス新潟は長年守ってきたJ1の座から陥落し、この年も苦戦を強いられていました。
前節で監督が交代し、いても立ってもいられなくなった私は10年ぶりくらいにスタジアムに足を運びましたが、この日も惨敗。
試合途中からは席を立つサポーターばかりで最後はスタンドがガラガラになりました。
あまりのふがいなさに私は泣いてしまいました。
誰もチームを悪いようにしたいとは思っていないのに、なぜただ負けるだけで、これほど見放されてしまうのだろうか?
幸いにもアルビは再び強くなり、またJ1で戦えるようになりました。ただあの日のスタンドの寂しさを覚えてる身としては、ただ「勝った負けた」だけがJリーグ観戦の楽しみではないと思いたいです。
2023/03/05
ゆりべー
初めて招待券をいただき新潟市陸上競技場に
アルビレックス新潟の試合を見に行った
みんなが掲げてるフラッグが欲しくて売店に買いに行ったら
アヒルの柄しかなくて買わなかった
私が欲しいのはリスの柄なの
もうお気づきだろう
アヒルは白鳥で新潟のフラッグ
リスは大宮のフラッグだった
あの頃ホームチームかアウェイチームかもわからなかった私
あれから二十数年
私は今では何処にでも駆けつける
立派な新潟サポーターになりました
とさ
今年5年ぶりのJ1で戦います
精一杯応援させていただきます
頑張れアルビレックス新潟
2023/03/14
.TANAKA
自分がアルビサポになったのは多分小学校入る前ぐらいだったような気がしますが、毎試合行くのが楽しみで仕方がありませんでした。
話が変わり、2017年11月18日対甲府戦。あの試合でアルビのJ2降格が決まってしまいました。あの冷たい雨の中のNスタンドの最前列で目の当たりにしました。まさかアルビが、という感情、そしてスタジアムが暗い雰囲気で選手が挨拶しにきたのを鮮明に覚えています。そこからの長いJ2の戦い、予定が被らなければ、毎週のようにホームゲームを見に行きました。コロナ禍になって声が出せなくなっても手拍子で後押しができ、毎試合のようにたくさんのお客さんが入っていくのを見てなんだか嬉しくなってきました。2022年10月8日対仙台戦、超満員のビックスワンを久しぶりに見て、鳥肌がたち やっぱビックスワンってこれだよな という感情。結果3-0で勝利。最高でした。その年優勝も果たして最高の時間を過ごしました。シャーレアップをし、アイシテルニイガタを歌った時には涙が出そうになりました。5年間の苦しい期間を過ごし、ようやく辿り着いたJ1の切符をつかみ、今年、新潟旋風を巻き起こしてほしいです!アイシテルニイガタ!!
2023/03/08
hide
大学生時代に鹿島スタジアムでのアルバイトの思い出。ジーコ最後のホーム戦、ジーコがスタジアム一周するセレモニーで、ボディガードをしました。当時のカシマサポーターはエキサイティングだったので、とても緊張しましたが、役得で、ジーコの肩に触れたのは、僕の自慢です!
2023/03/04
クオンキャッツ
2011年の時に国立競技場で浦和戦の試合がありました。私は前ヴァンフォーレでFWと活躍していたパウリニーニョ選手と手を繫いで国立競技場のピッチまで歩いて選手入場をしました。パウリニーニョ選手が2点入れてくれてハーフナーマイク選手が1っ点入れてくれました。
2023/03/04
こーちゃん
FC今治の応援を初めて8年目のシーズンになりました。
(FC今治公式テーマソング:栄光の航海(sailing)より)夢だった場所が今日 夢じゃない場所になる
まさにそれを体現してくれるのがFC今治です。
私が応援を始めた時(2016年)、FC今治はまだ地域リーグにいました。今治にはサッカー専用のスタジアムもなく、芝生にレジャーシートを敷いて観戦していたこともありました。しかし大きなスタジアムもでき、2度の昇格を経て現在J3の舞台にいます。
苦しいことも嬉しいことも分かち合ってきたからこそ見れた景色がたくさんあります。
たくさんの人の夢や希望を乗せて、FC今治はJ3 4シーズン目の航海に出ます。
これからも私の生まれ育った大好きな街今治で、FC今治と共に『J2昇格→J1昇格』とい目標が達成できる日が来ることを夢見て、スタジアムへ足を運び、毎試合全力で応援していきたいと思います!!
2023/02/27
健太
自分の生まれた日と名前
私の名前の由来は名古屋グランパスの監督である長谷川健太監督が由来で健太です。
私の生まれた日は1996年9月25日で、長谷川健太監督と同じ誕生日であること、そしてその日は1996年のナビスコカップ決勝が国立競技場で行われていた日です。
その試合で長谷川健太はバースデーゴールを決めて、清水エスパルスの初タイトルに貢献しています。
私の両親はサッカーが好きで、私の名前の候補には、和良や雅史や正巳と当時の有名Jリーガーがたくさんあったそうです。もちろん健太も入ってたそうですw
私が生まれて数時間後にナビスコカップの試合を病室で見てた際に、長谷川健太がゴールを決めて誕生日も一緒であること、そして清水エスパルスが優勝したことが決め手となり名前が健太になったそうです。
Jリーグなしに自分の名前は無かったと思います。
2023/02/26
Ring
初めてスタジアム観戦したのは2012年。
サッカーは全然詳しくないけど、
お友達に誘われ、観戦したのがはじまり。
ゴール裏のチャントや、声援や、旗などのサポーター達の熱い応援に、
愛されてるチームなんだなぁと知り
そこから試合結果をチェックするようになりました。昇格争いに勝った時の興奮は忘れられません。
観戦はいまだに、ホームしか行った事ありませんが
ゴールした時のスタジアムの歓声や
勝った時にゴール裏で歌うチャントの時間が味わいたくて、現地に行ってしまうのかもしれません。
最近では、選手やスタッフ達のSNSをチェックするのも日課になりました。
いつまでも地元に愛されるチームであって欲しいです。
2023/03/02
こう
1995年、5月3日!私が初めて浦和レッズの試合を観に行ったあの日!
当時10歳だった私の記憶には今でも輝いた選手達が目に焼き付いています。
初めて買ったあのユニフォーム!プリントも剥がれそうになるまで着ていたんだなぁ・・・
今も私にとって大切なユニフォームの1つです!
中学生の自由研究の宿題で浦和レッズの試合を日記にして提出した。
「これからも、僕はレッズサポーターであり続ける」
25年前に誓ったあの言葉!今も変わらぬレッズサポーターです!
それだけ浦和レッズは魅力があるチームなんだろうなぁ。
30周年おめでとう!そしてこれからも共に闘おう!共に・・・
2023/02/27
カタリナ
Jリーグ30周年記念おめでとうございます。私は忘れもしないJリーグでの思い出を話します。
当時、私は横浜Fマリノスに所属していた中村俊輔選手のファンで生のフリーキックを見てゴールした時は嬉しいかったし凄い選手だなぁって思いました。日産スタジアムで横浜Fマリノス戦を初めて観戦して、選手入場や試合観戦などの歓声が凄かったし選手達が生で観られたのが嬉しいかったです。生で観戦すると新鮮で良かったです。観戦することが出来ませんが、選手の皆さん怪我などに注意して体調には気をつけてくださいね。
2023/02/26
いるちゅー
当時3歳になったばかりの息子。たまたまテレビで浦和レッズの試合を観て、「かっこいい!!」と大ファンになりました。
選手の名前を知りたくてひらがな・カタカナを覚え、jリーグ の順位表を見るために足し算・引き算ができるように…。レッズのユニフォームを着て、近所の公園でひたすらボールを蹴っていました。レッズの練習場やスタジアムにもたくさん通いました。
そんな息子は今13歳。部活が忙しくてスタジアムにもなかなか行けませんが、今年はもうちょっと家族でレッズの試合を観に行きたいです!
2023/03/01
ピクシーミノ
リーグ元年のグランパスのホーム開幕戦、雨の中でのマリノスとのゲームに、小学生の娘2人を連れて応援に行きました。
延長後のPK戦(当時はありました)でのグランパスのGK伊藤裕二さんは凄かったです。
2023/02/27
ノリ
初めてのスタジアム観戦は、1993年11月27日、浦和レッズー清水エスパルス戦(国立競技場)。
赤と黄色に二分されたスタジアムの素晴らしい雰囲気。
澤登正朗選手のフリーキックからの得点が印象的で、清水が2-0で勝利。
最後まで諦めずに応援し続ける浦和サポーター。
あの日の赤いゴール裏に魅了されました。
1994年シーズンからは、チケット販売初日に電話をかけまくり、チケット争奪戦に参戦するように。
そして、1998年シーズンから浦和のシーズンチケットホルダーに。
もう25年目。
一生懸命に電話をかけ、初めてのチケットをゲットしてくれた当時の彼女に感謝です。
あの日、赤いゴール裏を見てなければ、今の自分はありません。
スタジアム観戦に行くたびに、初めてのスタジアム観戦の全ての記憶が蘇ります。
2023/02/25
cloud
1993年5月15日、今は無き国立競技場のスタジアム、夕暮れの寒さの中、熱気と感動で身体が熱くなりました。日本のサッカーもここまできたんだと思い胸が熱くなりました。30年前、あそこにいたんです。今でも忘れられない1日です。
2023/02/24
2児mama
ガンバ大阪を好きになって5シーズン目になります
初めてパナソニックスタジアム吹田でガンバの試合を観たのが2019年の大阪ダービー
当時は代表でいた遠藤選手と今野選手しか知らなかった私が、倉田選手の華麗なゴールでガンバが勝利し、スタジアムのガンバサポーターのチャントや応援、一体感に一気にハマっていきました
2020シーズンからコロナ禍になり、人数制限があったのでなかなか試合にも行けず、声出し応援もできなかったですが、ガンバサポーターの手拍子での応援の一体感に鳥肌が立ったのを覚えています
小学生だった息子が中学生になり、家族で出かける事も少なくなりましたが、ガンバの試合は毎回家族みんなで応援に行っているので、家族で楽しめる素敵な時間を過ごさせてもらっています
なかなか勝てない苦しい時期もありましたが、声出し応援解禁になり、負けた試合はないので引き続きガンバ大阪を応援したいと思います
去年のガンバ大阪のイベントで選手によるレジ接客とサイン会がありました
6歳の娘が初めて好きな選手と対面し、照れと緊張で恥ずかしがっていましたが、選手の皆さんが優しく接して下さりとても喜んでおり、私も嬉しく思いました
公開練習なども少しずつ再開しているので、それも楽しみです
コロナ禍でもサッカー観戦が出来たのは、対策をしながら運営してくれたスタッフさん達のおかげでもあります
また以前のように観戦出来る日も近いのかなと楽しみにしています
2023/02/21
高橋久美子 (氣紀)
サッカーをやらない私ですが(個人的な話ですみません)
5/15は子供のバースディーです。そして私はメッシ選手と同じです。 あと30年応援していきます。
2023/02/20
新潟サイコー
大好きな叔母を病気で亡くし、家族がどん底だった2016年に、自分も切ないけど大好きな姉を亡くした母は更に切ないだろうな…なんとかしてあげたい!出身地のアルビの試合誘ってみようと思い、失意のどん底で何も意欲の湧かなかった母を無理やり誘い浦和レッズとのアウェイ試合のスタジアムでに2人で行って数日後「ありがと、こんな素晴らしい世界があったんだね!まだ切ないけどまた行きたい」と元気をもらい、それからずっと親子で札幌や大阪そして高知キャンプに行くほど生きがいになりました!
今年は子供も産まれたので3世代でアルビサポーターします!
アルビ!そしてアルビが縁で出会った友達達!本当にありがとう!!感謝してもしきれません!
アイシテルニイガタ
2023/02/22
るか
もともとサッカーが大嫌いでした。W杯で日本中が盛り上がっていても、翌日のニュースでスーパープレーだけ観れば充分じゃん?って思っていました。
2016年5月、ある雑誌の企画で親友とグランパスの試合を観に行くことになったのが初めてのサッカー観戦。親友はわたしよりもサッカーに詳しく、わたしはかろうじて楢崎選手がわかるくらいのレベル。
その試合で、田口泰士選手のミドルシュートがゴールネットに突き刺さると同時にわたしの心にも突き刺さりました。(2016シーズンベストゴールに選ばれたプレー)
そこから少しずつ観戦回数が増えていき、FC、シーズンチケット、アウェイ遠征…
練習場に行ったり…
推しの選手が移籍した際に一緒について移籍したり…
いろんなチームとの試合を観ていくうちに推しクラブがグランパスとマリノスになりサポを兼務したり…
ひとりで福岡まで遠征したり…
仕事のスケジュール調整は試合日程に合わせたり…
もはや人生の中心にJリーグがあると言っても過言ではありません!
彼氏に振られたり仕事がしんどかったりしたときも、サッカーがあったからわくわくやときめきを感じてこれました。
平凡なエピソードかもしれませんが、サッカーに出会えてよかった!これからも応援し続けます!
2023/02/21
gissy_hiro
2005年のJリーグ最終節です。
どこか一つのクラブを推していた訳じゃないですが、分ごとに優勝クラブが入れ替わる混戦。
その後何度も登場する事になる、NHKの「このままいくと・・・」が初めて登場した年だったと思います。
そしてセレッソがロスタイムに入った瞬間に今野が決め、その直後にワイプでガンバが追加点、サッカーの悲喜双方での感情の爆発に「すごいスポーツだな」と感じました。
その後もJリーグは優勝争い、昇格・降格争いで大混戦となるシーズンが多く、当事者はたまったものではないと思いますが、どのクラブのサポーターも最終節まで目が離せない、面白いリーグだと思います。
今後はACL関連の改革[3層大会への変更]、ルヴァンカップのトーナメント化、分配金の振分見直しによる10位というラインの追加と、更に優勝以外でも目が離せないリーグとなることを期待しています。
2023/02/19
こばたく
はじめてサッカーを観戦したのは2000年のことでした。
父親に手を引かれ、地元の名古屋グランパスとジュビロ磐田の試合を観戦に瑞穂公園陸上競技場へ。
テレビでもサッカーを見る機会は少なく、初めての観戦は右も左もわかりませんでしたが、地元のチームが懸命にピッチを走り、戦う姿は子供ながら胸を熱くするものがありました。
試合は終了間際に福西選手のゴールでジュビロ磐田が勝利したものの、地元のチームが負けたことへの悔しさが込み上げ、気づけばサッカー観戦の虜になっていました。
その後はサポーターとしてホームゲームはもちろん、東京の大学進学をきっかけにアウェイのスタジアムにもたくさん訪れました。
平日につらいことがあっても週末に好きなチームが勝てば気分が晴れやかになって、また一週間頑張れる。
そんな気持ちがとても心地よく、同じ思いを一人でも多くの人に知ってほしいと考えるようになり、いつしかサッカーチームで働くことが自分の夢になっていました。
大学卒業後は新宿にある広告代理店に勤めながら、週末はサッカー観戦の日々。
何度かサッカーチームの求人に応募してはお祈りされるのを繰り返していましたが、2018年に地域リーグではあるものの念願のサッカーチームへと転職することができました。
チーム規模はまだまだ小さいため、営業、広報、運営担当、主務を兼務するハードな仕事でしたが、自身のやりたいことができることに喜びを感じ、幸いにもチームのJFL昇格にも携わることができました。
JFL昇格後には通訳にも少し関わり、2019年の6月にはご縁があって当時J3のブラウブリッツ秋田へと転職しました。
転職した翌シーズンの2020年にはチケットやファンクラブなどの担当をして集客やチームを好きになってもらう仕事を担当しました。
直接ファンの方やお客様を増やすお仕事ということでまさに自分がやりたい仕事に携わることができました。
そのシーズンはコロナ禍でリモートマッチが行われたり、声を出しての応援ができなかったりと難しいシーズンとなりましたが、チームは史上初となる無敗でJ3優勝を果たすことができました。
今は傘下にできたNPO法人の立ち上げに携わり、ブラウブリッツ秋田のスクール部門の事務局として、秋田の子どもたちのためにサッカーが好きになってもらうことはもちろん、チームを好きになってもらえるように毎日仕事に取り組んでいます。
スポーツを通じて、少しでも秋田が元気で笑顔のあふれる都市になれるよう、これからもチームと共に歩んでいきたいと思います。
2023/02/21
立花 美樹
初めて平塚に行ったのは小学5年の時でした。
広島戦の何故か広島側のゴール裏
その試合は、PKまでもつれる試合で、平塚が勝利。
それから、今に至るまで決して強いとは言えない、でも愛すべき平塚・湘南を応援し続けて、気付けばおじさんになっていました。
幾度となく味わった降格も、水戸・町田・平塚で流した歓喜の涙も
ルヴァンで優勝した瞬間も、浦和で絶叫した山根選手のサヨナラ勝ちも
神奈川県の6クラブ、いや、フリューゲルスも含めて7クラブで切磋琢磨して行きたいですね
2023/02/21
ママ
小学3年でサッカーを始めた息子。
お友達家族に地元のチームの試合に連れて行ってもらったのがわが家とJリーグの出会いです。
しばらくは息子だけが夢中になっていたサッカー観戦でしたが、私と娘も観戦するようになり、3人でホームはもちろんアウェイにも行き、サッカーを通してたくさんの方々と知り合うことができました。
私たちにとって地元のチーム、そしてJリーグはなくてはならない生活の一部です。
今は娘と2人、ホームとアウェイの試合を楽しく観戦しています。
そして息子は今、小学生の頃から応援してきた大好きなチームのフロントスタッフとして働いています。私たちにJリーグを知るきっかけをくれた息子のお友達もJリーガーになりました。
Jリーグが息子の夢、そして私たち家族の夢を作り、叶えてくれました。Jリーグは人々に夢をあたえ、その夢を叶えるきっかけになります。これからも私たち家族はJリーグとともに生きていきます。
2023/02/18
イナバの白うなぎ
2018年に東京に引っ越しをした日に、近くの味の素スタジアムで試合があったので観に行きました。選手の迫力、スタジアムの雰囲気、すぐに好きになり、休日の楽しみになりました。久保建英選手がボールを持つと観客が期待してワッと沸くのを感じました。
FC東京が優勝するのを本当に楽しみに応援しています。
2023/02/18
史果
父が浦和レッズが好きで私も幼い頃から好きになりました。幼い頃は家族4人、少し大きくなったら父と2人でスタジアム観戦。そんな父が亡くなって10年。父が応援していたユース出身の若い選手はベテランになりました。私も成人して立派な浦和レッズサポーターに。父が応援していた選手たちはほとんどいなくなったけれど空の上で父は今でも浦和レッズを応援していると思います。
2023/02/18
アイシテルニイガタ
「Jリーグと私」
私が初めてアルビレックスの試合に行った日です。
私が初めてアルビレックスの試合に行ったのは2005年5月5日の川崎フロンターレ戦でした。
サッカーのルールを全く知らないど素人の私が、当時新潟で大ブームだったのもあやかり、右も左も分からないままビッグスワンで試合を観戦し周りの人達の応援風景を見て立ち上がったりしていました。
後半ロスタイムに逆転のチャンスが巡り、そのチャンスの時だけに投入された「アンデルソン•リマ」選手が逆転フリーキックを直接決め逆転し、その試合内容に興奮し今でもビッグスワンに全試合観戦してます。
当時は1人でしたが声がデカイとの理由で今ではゴール裏の最前列から観戦してます。
コロナ禍前は北は仙台、南は福岡までアウェーも観戦してましたがコロナが怖くて、なかなか行けません。
早くコロナが完全に終わって、またアウェーに気軽に行きたいです。
アウェーの一番の楽しみは、その土地の名物をスタジアム内で食べられる事です(笑)
2023/02/17
ジニー
初めて子供を大好きなサッカーチーム、スタジアムへ連れてこれました。
2023/02/18
まも
「私もいつか自転車でスタジアムへ行きたい」
遡ること約30年、家族と国立競技場へJリーグを見に行ったとき、ユニフォームのまま自転車にまたがり帰路へ着くサポーターを見て、小学生の私はそう心に描いた。
あれから十数年、"最初の"夢を叶えた私は、今ピッチを見上げている。
1994年だろうか、家族と生まれて初めてJリーグを見に行った。舞台は国立競技場、ヴェルディ川崎vs浦和レッドダイヤモンズ。満員のスタンドに熱狂するサポーター。スコアは全く覚えていないが、行き帰りも含めて「夢に見たJリーグ」だった。その後、好きな選手やチームもでき、Jリーグチップを買い漁っては友達とカード交換、弟とサッカー選手のイラストを描いて交換したり、もちろん校庭でサッカーをしたり。ありきたりだが、卒業文集には「サッカー選手になる」と書いた。
2000年に高校生になった私は、同年J1へ昇格してきたFC東京へ惚れた。生まれて初めてファンクラブへ入り、「大人になったらビックフレームス(年額1万円の個人会員)になる」と決めた。自宅のある埼玉から東京スタジアムは決して近くはなかったが、父や友達に同伴をお願いするなどしてなんとか足を運んだ。
そして2007年、社会人になると同時に調布市での一人暮らしを始めた。数年後、収入が安定したのを見計らってビックフレームスに入った。黄金色の会員証がとても眩しかった。
その地でのフットサルで出会った男性とゆくゆく結婚。夫となった彼の勤務先がスポンサードするクラブのお膝元へ転居した。それが川崎市であり川崎フロンターレ。サッカーはサッカーでも私が好きなチームじゃないじゃないか、と最初は転居したことすら不満に思っていた。
2019年、会社を辞めたのを機にスタジアムでバイトを始めた。2021年、気がつけば運営本部での業務を任され、初めてピッチを見上げるポジションにいた。
あの日、自転車でスタジアムへ行くんだと決めた私は、点と点を結び続けて、ピッチに立っていた。あのとき見たクラブとも違えば、スタジアムも違う、住んでいる場所も違う。ただ、Jリーグの灯火が変わらずにあったからこそ、点が打たれて線で繋がった。
Jリーグよ、ありがとう。
Jリーグよ、おめでとう。
2023/02/18
マエム
Jリーグと同い年の私。
物心ついた頃には、6歳上の兄と4歳上の兄はサッカーに夢中で、週末といえば、一緒にヴァンフォーレ甲府の応援に行っていました。
昨シーズン天皇杯優勝に輝いたヴァンフォーレ甲府ですが、チーム存続の危機に陥り街頭で募金活動が行われたこともあり、6歳上の兄はヴァンフォーレ甲府のジュニアユースに所属していたため、募金活動にも参加していました。
昔も今も地域に根付いたチームです。
4歳上の兄とは、ファン感謝デーに一緒に行き、選手と借り物競走をしたり、サイン入りTシャツをもらったり、サッカーのルールなんて全くわからなかったけど、ヴァンフォーレ甲府は兄妹の思い出に欠かせない存在です。
また、両親も共働きでしたが、週末は一緒にスタジアムに来てくれたり、イベントには送り迎えをしてくれました。
今では、4歳上の兄はヴァンフォーレ甲府のフロントスタッフで、私はスタジアムDJを担当。幼い頃の思い出になくてはならなかった存在のチームに、兄妹一緒に関われている。スタンドを見れば、両親が応援に来ている。こんな幸せなことはないなと、JITリサイクルインスタスタジアムで顔を合わせる度に感じています。
アウェイに応援に行くのが、最近では家族旅行にもなっています。
6歳上の兄も、ジュニアユースで教わったことを糧に、今は指導者として、子供たちにサッカーを教えています。
私たち家族にとってヴァンフォーレ甲府は、昔も今もこれからも、なくてはならない存在です。
2023/02/16
カラオケ大好き!
僕は、J3で、FC今治の試合を、昨シーズン、ホーム戦で、ありがとうスタジアムへ、行つて、初めて、応援を、した事です!
そして、J3で、FC今治が、昨シーズンまでは、ホーム戦の、ありがとうスタジアムから、今シーズンからは、里山スタジアムに、なりますが、これからも、僕は、J3で、FC今治の、ホーム戦を、見に行きます。
2023/02/18
コパ
群馬県出身の私は、地元のザスパクサツ群馬を応援しています。
子どもの頃、家族に連れられてスタジアムを訪れたのが初めてでした。
同時はゴール裏のスタンドがなく、バックスタンドを多くのサポーターが埋めていました。サポーターの歌う草津節の響きが耳に残っており、草津節は現在の私も大好きなチャントの一つです。
時は流れ、大学で東京に進学し、そのまま東京で就職して4年、今に至ります。
今の自分にとって、ザスパは地元群馬と自分を繋いでくれる架け橋のようなものです。
地元を離れたからこそ分かる魅力もあり、私は群馬が大好きです。
東京で暮らす自分にとって、毎週末のザスパの試合、そしてザスパクサツ群馬というクラブの存在そのものが心の拠り所になっています。
Jリーグの魅力は、やはり地元に根付いた各クラブの存在だと思います。
クラブのエンブレムを背負って戦う選手たちは地元の誇りです。
ザスパはまだ規模の小さいクラブですが、クラブが変革期に入る予感は感じています。
まだ見たことのない多くの景色を目指して、いつまでもザスパを応援していきたいと思っています!
2023/02/18
蜂めんたい子
Jリーグが開幕した頃、私は中学生でした。学校でいじめにあい、同級生の友人との付き合いが億劫でした。
そんな私の気持ちを晴れやかにしてくれたのはJリーグでした。TVの前で応援したり、地方開催の試合ではスタジアム観戦に行きましたが、地元福岡にJクラブがありませんでした。
1994年、福岡にブルックスが移転し、Jリーグ昇格を目指すクラブが誕生することが決まり、私も早速手書きの横断幕を作製してスタジアムへ向かいました。
初めての地元チームの応援は楽しくて何度もスタジアムに足を運んでいるうちに、サポーター団体の方々に声を掛けてもらって一緒に応援しました。
当時中学生だった自分より大人の方々、年上の学生の皆さんと同じ気持ちでチームを応援することで、年齢差や立場の垣根を乗り越えた一体感があり、良いプレーや勝敗に一喜一憂し皆で分かち合える、ここが自分の居場所だと思ったら、学校でのいじめも全く気にならなくなりました。
Jリーグを通じて学校以外の新たなコミュニティが生まれたことで、救われたし自分に自信が持てました。
あれから29年、今も仲間とアビスパ福岡を応援しています。
2023/02/12
ベガ太郎
ベガルタ仙台のサポーターです。
現社長である佐々木知廣さんは、全身のブランメル時代にインタビュー受けたくらいの熱烈な仙台サポーターです。
KHBは当時の映像を持っています。
仙台は来年でクラブ30周年なので、1サポーターが社長になってクラブと共に成長して支えている事は良いストーリーになると思います。
仙台の債務超過を解消して大幅な黒字転換にした事、クラブを挙げての地域活動、ベガルタハウスの建設、数々のネーミングライツなどの活動も現社長は積極的です。
ベガサポから勧められたと話して社長に取材をすれば良い話を聞けると思います。
参考になれば幸いです。
宜しくお願いします。
2023/02/11
ko
長崎にはJリーグチームがなかった。
仕方なく佐賀まで試合を見に行っていた。
それが、2005年の春、突然の報道でJリーグを目指すチームが出来たと知った。
その日から私の人生の熱情はこのチームへと向けられた。
プロ選手が1人しかいないそのチームの夜の練習を、それも土のグラウンドで行われる練習を見に行くようになった。仕事を終えて練習に来る選手たちを羨望の目で見ていた。
そして8年後。
遂にJリーグ初の開幕戦の為に、岡山県まで車を走らせてその試合を見に行った。
掲揚台にJリーグと長崎の旗が並んで揚がったのを、嬉しくてうれしくて何枚も写真を撮った。
その試合、先制点は長崎だった。
この一点。
試合は一対一の引き分けだったが、これでこの一点で長崎もJリーグでやって行けるんだと思い、ハラハラと涙がこぼれた岡山の試合だった。
大人になって、一つのゴールで涙することができる。
そんな幸せな人生をくれた、Jリーグ。
感謝しかない。
2023/02/08
京都の人
2015年から、京都サンガFCを中心に関西のチームの現地観戦を何度かさせて頂いております。
試合の楽しさは勿論、同じスタジアムに観戦に来ている
小さな子供・中高生が試合を楽しむ姿を見るのも楽しいと感じております。
Jリーグが50年・100年末永く続いていくことを願っております。
2023/02/04
サッカー小僧
七歳になった息子が突然『サッカー観に行きたい!』と言い出しました。きっかけは、レノファ山口が小学生を無料でスタジアムに招待して下さる企画でした。初めてのスタジアム観戦で息子はおおはしゃぎでした。1試合通して観戦できた息子の成長に感動しました!グッズも何も持っていませんでしたが、これを機に一気にサッカーに夢中になり、今シーズンも観戦予定を立てては一緒に盛り上がっています!地元にJリーグのチームがあることの有り難さに感謝してます。30周年の記念すべき年を満喫しつつ、これからもサッカーと共に成長していきたいです!
2023/02/10
辺境VORTISTA
娘が生まれてしばらくの間、スタジアムから足が遠のいていました。
小さいこどもに2時間の観戦は、無理だと思ったから。
でも、私の愛する徳島ヴォルティスが、初の昇格プレーオフに挑戦した2013年、もう我慢ならないと、娘を連れて観戦することにしました。
娘にとって、初めてのスタジアム。
座席にちょこんと腰掛けた娘は、うれしそうにスタグルを頬張りながら、出場するかもわからないベンチの選手に、「ガンバレー!」と声をかけていました。
あれから10年、娘が熱狂的なサポーターになることはありませんでしたが、今でも時々、スタジアムには着いてきてくれます。
私の隣で、お気に入りのケバブバーガーを頬張りながら、あの日より少し低くなった声で控え目に歓声をあげる娘に、変わらないあの日の面影を見つけることが、私のスタジアム観戦の密かな楽しみです。
ありがとう、徳島ヴォルティス。
ありがとう、Jリーグ。
2023/02/07
あおばのパパ
2003年、結婚して住み始めた社宅の近くにあったJリーグクラブの練習グラウンド。
娘が生まれ散歩をしながら練習あがりの選手と触れあうなかでフロンターレのサポーターになるのは自然なことだった。その後も等々力で試合を観戦したり麻生グラウンドに行ったりと、フロンターレは私たち家族の一部となっていった。
娘が中学に進学し念願だったサッカー部に入部を決めて、一緒にスパイクやウエアを買いに行った日のことを昨日ことのように思い出す。しかしながら希望を抱いた娘に訪れたのは、思春期でのメンタル不調。学校に通うこともできず、日に日に自宅でふさぎ込む日々が増えていった。娘と父の会話も日に日に少なくなり、心配して私が娘を気にかけた言葉すら、娘の繊細な心を傷つける刃となった。
かける言葉すらない辛い状況、難しい娘との関係だったが、小さい頃から好きだった「川崎フロンターレ」の話題だけには笑顔を見せてくれた。
「今期は、調子いいよ!試合に行ってみる?」
「麻生グランドのイベントに行ってみようよ!」
外出した時の喧騒が辛く感じる状況だったが、フロンターレの試合やイベントを楽しみに、体調を整え、試合を楽しめるようになるにつれて、娘の日常にも笑顔が増えていった。
投稿した一枚は、麻生グラウンドのイベントでの田中碧選手との記念写真。
辛かった時期だけに、娘が久しぶりに見せてくれた満面の笑みが脳裏に焼き付いている。
そして今回の「Jリーグと私」の企画。何となく見たウェブサイトで、見たことある一枚の写真を見つけた。
よちよち歩きの小さな女の子が、入団したばかりの中村憲剛選手と一緒に映った写真。
2022/12/03/ 9:15の投稿者の「あおば」は私の最愛の娘です。
娘の投稿では、苦しかった日々を過去の出来事としてとらえており、前を向いて語る娘の心の成長を見て、涙が止まりません。
我が家の思い出の写真集には、いつも水色のユニフォームが登場します。
これからも思い出の写真を積み上げていこうと思います。
娘の心をサポートしてくれてありがとう。
親子の絆をつないでくれてありがとう。
川崎フロンターレ・Jリーグ
これからもよろしくお願いします。
2023/02/02
さわやか
家族で行った地元の夏祭り。そこで配られていた地元チームの試合のチラシをもらいピクニック気分で観戦に。その面白さにどっぷりはまり、特に長女はその日からサポーターになり、学生時代には試合運営のアルバイトに、そして今はそのチームでともに働きたいと必死で勉強し、就職活動中です。私たち家族の絆を間違いなく深めてくれたJリーグに感謝しかありません。
2023/02/09
旧国立競技場
私は小学2年生の頃に両親が離婚し、それ以来父親に会っていません。
日頃から父は家におらず、旅行や出かけた思い出も数えるほどしか覚えていません。
そんな父親との一番の思い出がJリーグ観戦です。
父と2人で観戦したのは1994年9月7日(水)国立競技場で開催された「ベルマーレ平塚vs横浜フリューゲルス」だったと思います。当時、Jリーグのチケットはなかなか入手できず、父に何度もお願いをしてやっと入手することができたチケットだったと思います。(本当はヴェルディ川崎の試合が見たかった)
当時のJリーグ熱はものすごく、その影響で私も幼稚園の頃からサッカーをして遊んでいました。地元のサッカーチームに入団したかったが、当時の私は華奢で母の許可がおりず、入団させてもらえませんでした。
そんな中でJリーグ観戦はまさにスーパースターのプレーが見れる夢の場所でした。
観戦した場所はおそらく南側ゴール裏スタンドの上段だったと思います。米粒くらいの大きさしか選手を見ることができなかったですが、とても嬉しく、楽しかったのを覚えています。またたくさんの人がいて、明るい照明が点いた中でサッカーを見たことは幼いながらもとても衝撃的でした。
これが父との一番の思い出です。
それから国立競技場の近くを通ると父のことを思い出し、寂しくなります。とても楽しい思い出でもあり、寂しくなる複雑なスタジアムです。
そして時が経ち、私は今、Jクラブで働いています。
サッカー選手にはなれなかったが、スーパースター達を支える仕事に就くことができました。幼いころに見ていた選手がコーチやスタッフとなり、最初一緒に働くことは緊張の連続でした。
Jクラブで働くと国立競技場でサッカーができることはとても名誉なことになりました。国立競技場が複雑なスタジアムからまた憧れのスタジアムとなりました。
Jリーグにはたくさんの子どもやサッカー少年・少女が来場します。お子様連れの家族を見ると父とJリーグ観戦した思い出が蘇ります。私が味わった楽しかった経験を次世代の子どもたちにも体験してもらいたいと思い、何か良い思い出になることができないかと模索しながら日々、業務に励んでいます。
また私も父となり、Jクラブで働いているとなかなかサッカー観戦ができませんが、いつか息子と2人でサッカー観戦するのが私の夢です。
これからもJリーグとともに。
2023/02/06
アルおじ
94年5月4日。清水エスパルスVS鹿島アントラーズ
私が初めてスタジアムで観たJリーグの試合です
3つ上の兄に付き添ってもらい国立霞ヶ丘競技場へ観に行きました
試合は両チームの外国籍選手を中心に3-3の点の取り合いでとても面白かったです
前年のJリーグ開幕からサッカーを習い始めた私、サッカー自体はうまくなりませんでしたが今でもJリーグとサッカーを好きでいるのは間違いなくこの試合のおかげです!
兄はサッカーには興味がなくカタールW杯を一試合も観ていないそうですが、もしかしたらこの試合は覚えているかもしれません
2023/01/31
なこじん
私が初めにスタジアムに訪れたのはまだ小学校に入学する前でした。たまたま近くで試合をしていただけでしたが、せっかくならということで当日券を買い、メインスタンドで観戦しました。
すると、ハイレベルな試合が目の前で繰り広げられており、気づけば夢中になっていました。
そこから約10年の月日が流れ、今ではサッカー部に入り、サッカーをする一方で、スタジアムではゴール裏で応援をするようになりました。そんな中で、Jリーグに携わりたいと思うようになり、レフェリングの勉強をしています。いつかは愛するJリーグでお仕事をしたいと思っています。
2023/01/31
ゆゆ
気づいたら、清水エスパルスが私の生活にあった。
生まれた日が2002年の日韓W杯日本vsトルコ戦の日。20歳の誕生日にはホームIAIスタジアムで2022年度リーグ戦ホーム初勝利。
思い返すと人生のターニングポイントにはいつもサッカーがあった。
父が清水エスパルス創立時からのサポーターであり、その影響で私たち一家は清水エスパルスサポーターだ。オレンジ色に溢れた家で育ち、幼い頃から机の上に乗ってテレビの前で「グリコ」や「マーチ」を口ずさんでいた。
スタジアムデビューは2004年3月27日市原臨海競技場でのジェフ戦。1歳9ヶ月だった。
当然記憶にもない。
幼稚園、小学校、中学校。週末家族と出かけると言えばスタジアムとアウェイの時にはついでの観光。それが私たち家族だ。幼い頃憧れていた岡崎慎司やマルキーニョス、チョジェジン。2007年のジェジンの決勝点で勝った静岡ダービーは忘れられない。
高校に入って強豪で知られていた吹奏楽部に入りなかなかエスパルスの試合を見られなくなった。3年生の時コロナが始まって声出し応援ができなくなった。
専門学校に入学し、環境が変わったストレスに加え友達がなかなかできず病んで鬱を発症した。体重も20キロ落ちた。
そんな中、ジュビロが2021シーズン昇格したため静岡ダービーが行われた。久しぶりにエスパルスの試合をDAZNで観た。知らない選手だらけ。声のないエスパルスのチャントがもどかしい。
試合の均衡を破った唯人の突き刺すようなゴール。決勝点になった中山のカットインからのシュート。鳥肌が立った。目が離せなかった。
そこからエスパルスの試合が私のモチベーションになった。専門学校でずっと馴染めなかったけれどサッカーという共通の話題ができた。
声出し応援検証試合で思いきり「リバイブ」を歌った。エスパルスが私の心を明るくしてくれた。
春から地元静岡を離れるが私にとって清水エスパルスはいつだって宝物。
2023/01/29
Gunners
我が家は妻と男の子2人(高校生、中学生)の4人家族です。そんな我が家において、Jリーグは、私と子どもたちを繋ぐ絆です。
子どもたちがまだ小さい頃は、試合を見ずにスタジアムで遊んだりコンコースで走り回るので、妻と交互で子どものケアをしながら試合を見ていました。
小学校に入ると、プレーを見られるようになって、一緒にはしゃいだり喜んだり。好きな選手やチームも出来ました。寝かしつけの話は、マリノスと海外クラブの架空の試合の実況中継が定番でした。
中学に入ると一緒に試合を見に行く機会は減りましたが、同じサッカー部の友達たちを連れて年に何回か試合を見に行くことが私の楽しみでした。
高校に入ると、そもそも一緒に出掛ける機会が減りました。それでもサッカーだけはしぶしぶ一緒に来てくれます。この夏におこなわれるかもしれないワールドチャレンジをとても楽しみにしています。
2023/01/28
ちょた
プレーオフ磐田戦をPV会場で見てて山田拓巳アシストのディエゴソウザ決めてロスタイムに松浦に決められて万事休すだと思ったら山岸範宏決めて磐田に勝った試合
去年の最終節徳島戦モンテ勝たないとシーズン終了だと思ったら3-0快勝した試合
天皇杯川崎戦てま勝った試合
2023/01/31
ひよ
物心つく前から観戦に行ってて、Jリーグは私の日常生活では、当たり前のような存在でした。スタジアムで躍動する選手。そんな躍動感溢れる選手を応援するサポーター。あの熱い一体感がどんどんサッカーにハマらせてくれたんだと思います。コロナウイルスが流行し、声出し応援が出来なくなってしまった中、2022シーズンから解禁された声出し応援であの時感じた熱のようなものが戻ってきた気がしました。そして、普段、日常的に見てた選手や対戦相手で厄介だった選手が、カタールワールドカップで国を背負って戦ってる姿。そんな姿にも感動しました。心からサッカーを愛している選手、サポーターが私は大好きです。やっぱりサッカーっておもしろい。
2023/01/28
はせ
今の旦那さんとの付き合いはじめ、引っ越し、結婚生活にF・マリノスが共にありました。
元々大阪出身の私は、出身高校が甲子園常連校ということもあり野球派。
正直、サッカーのルールもわからない状態でした。
そんな私と付き合いたての今の主人との付き合って最初のデートはサッカー好きの彼との2017年最終節 横浜Fマリノスと、浦和レッズの埼スタでの試合。
埼玉出身の彼のエスコートでスタジアムで初観戦。
まずはスタグルでチーズナンがあり、豪華な屋台にサッカーを知らない私は興奮。笑
いざ、試合が始まると埼スタの雰囲気や、アウェイながらのマリノスの応援の気迫に自然とチャントを口ずさみ、こんなに2階席でもよく見えるし、色々教えてくれる彼の新たな一面も垣間見れて、大満足の結果。
それを気に、マリノスが私の中で、大きなものとなり、翌年2018年は開幕戦から二人で観戦にいきました。
その中で、毎回観戦を一緒にいく人たちが出来、デートの定番に試合観戦がなっていきました。
そうしたなか、2018年夏に彼が転職で、かつ大阪に転勤になり、付き合って半年でしたが、結婚して大阪に着いていくことを決意しました。
サッカー観戦を通じて、遠征や、行き帰りなど多くの時間をともにしていたので、深い話や、将来の話が出来ていたのも決断できた大きな要因です。
新婚旅行もスペインにサッカー観戦にいってきました笑
その後、慣れない新生活と、お互い仕事があるなか、マリノスの遠征で近畿圏や広島、九州など、東京に住んでいた時はなかなか足を伸ばしにくい場所にも、関西だから行くことが出来、ホーム以外にいく、ハードルが下がりました。
また、いつも一緒に試合を見てた方たちとも、遠征先で会えることが嬉しくて、大阪から北海道や、長崎まで色々と足を伸ばしていました。
関西圏で仕事をお互いにしたことがなく、土地柄に慣れていない中、自分たちの近くの地域で大好きなマリノスや、仲間たちに会えることが当時のの私の支えでした。
そして、2020年から再度主人が東京に転勤になり、年パスを二人で購入、選手の移籍や、戦術など、平日も話が絶えません。関東に戻ってからは年パスを買ったこともあり
昨年は、天皇杯、ルヴァン、アウェイ、ホーム合わせて30試合以上の観戦が出来ました。自分がこんなにハマるなんてびっくりです。
今年は夫婦でACLもいけたらいいねと話しています。
よく、友人に夫婦で同じ趣味をもって仲良くて羨ましいと言われますが、もともと違う趣味を持った、性格も結構、違う私達が色々な話を出来るのは、共通の趣味になったマリノスや、jリーグが全国にチームがあるからだなと日々感じています。
今年で結婚6年目になりますが、マリノスがあったことで上手くいっている面は大きいです。
応援したいチームに出会え、応援させてくれてありがとうございます!
写真は大阪から松本に遠征したときの写真です。
2023/01/28
ドゥン吉
「ただツラいだけでちっとも楽しくない!サッカーなんて大っキライ!」
Jリーグと出会うまで、私はサッカーに対しそんな思いを持っていました。
地元は寒冷地で冬の気温は普通に氷点下、学校にある土のグラウンドは凍ってボコボコ。
寒さが少し緩んだ日は表面が溶けてドロドロのグチャグチャ。
そして小学校でも中学校でも、体育の授業でサッカーが行われるのは冬。
まだJリーグが発足する前の田舎町で、私や先生を含めクラスのほぼ全員がサッカーの素人。
なのでやる事は不規則に跳ねるボールに群がって闇雲に蹴るだけ。
寒さと冷たさで耳は痛いし、鼻水は出るし、手の指は次の授業で文字が書けないほどにかじかむ。
さらに服や靴、頭には泥がベッタリ。
子供の私がサッカーを嫌いになるには充分でした。
転機はJリーグ発足後、高校時代にTVで偶然見かけた試合。
キレイに整備された芝生、格好いいユニフォーム、リズムの良い太鼓とチャント。
そして何より、私が経験してきた素人サッカーとはまるで違うプレーの数々。
「なんだコレ...全くの別物だけど...なんか、楽しそう...」
試しにTVで見たプレーを体育の授業で真似たところ、パスが通る!相手をかわせる!ゴールが決まる!
もう嬉しくて楽しくて、気が付くと授業終了のチャイムが鳴っていました。
「サッカーって、こんなにも面白いものだったんだ!」
今ではオフサイドもわかるようになり、地元にJクラブもできました。
週末はドキドキ、ハラハラ、ヒヤヒヤしながらの応援。
天を仰いでガッカリしたり、飛び上がって喜んだり。
Jリーグに出会ってから、すっかりサッカーが大好きになりました。
ありがとう、Jリーグ。
2023/01/30
j30カズキ
1993年5月15日、Jリーグ開幕の日に生まれました。
小さい頃からサッカーを始め、Jリーグと共に大きくなってきました。クラスには私を含めて「カズ」が付く名前が多かったのも世代の特徴です。
今年で30歳。立派な大人と言われる年齢になりましたが、まだまだこれからもJリーグと共に成長していきたいと思います。
Jリーグ最高!!これからも感動を!!
2023/01/28
エスパルス23
僕が応援している清水エスパルスが、史上初めて降格した2015年のホームのベガルタ仙台戦の後の話です。
試合前からこの試合負けたら降格がほぼ決まるという独特の緊張感の中行われた試合でした。結果は奇しくも敗戦。初のJ2降格がほぼ現実となったスタジアムの空気は、なんとも言い難いものでした。
一連のセレモニーも終わり父親とバスに乗ろうと歩いていたら、ある1人の男性サポーターがゲートにさしかかると、振り返ってスタジアムに一礼している姿を見ました。
名前も知らない方でしたが、負けてやり場のない怒りを抱えていながらも戦った選手を始め、Jリーグに関わる全ての人へのリスペクトが籠った一礼に当時小学生ながら同じエスパルスサポーターとしての誇りを感じた出来事でした。
今でもあの男性の後ろ姿は脳裏に焼き付いていますし、僕もどんな時でもリスペクトの気持ちを忘れず、チームを応援し続けるサポーターでありたいです。
2023/01/27
はち
私が初めて好きになったサッカー選手は三浦知良選手。部屋中にポスターを貼るほど大好きで、カズさんと同じように私もサッカーをしたい!と小学生からサッカーを始めました。当時は女子サッカーはメジャーではなく、変わってるとよく言われましたが、カズさんと同じことをしている自分が大好きで、とても楽しい学校生活でした。中学の時にJリーグが開幕し、私は女だからJリーガーになれないと泣いたのは良い思い出です(笑)
あれから数十年が経ち、現在はとあるクラブのサポーターとして観戦を楽しんでいます。私にサッカーの楽しさを教えてくれたカズさんは今年また海外に挑戦されるとのこと。すごい!永遠に、私の尊敬する人です。
2023/01/27
A.N
私は兵庫県出身で、今は仕事で盛岡市で教員をしています。地元のチームであるヴィッセル神戸を現在も全力で応援しています。盛岡に来て2年になる頃に新型コロナの流行が始まり、県外への移動の自粛などでヴィッセルの応援にほとんど行けなくなりました。その時に、いわてグルージャ盛岡の監督に秋田豊さんが就任され、グルージャの試合を見に行くようになりました。地元ではないけど、岩手のチーム。小さいけど、ピッチとの距離も近く、臨場感のあるスタジアム。一度行くとはまってしまい、休日だと観戦しに行くようになりました。チームのスタッフの方も兵庫県出身の方もいて、親切丁寧に対応やお話していただき、とても感謝しています。これからはヴィッセルの応援とともに、グルージャの応援も続けたいと思います。そして、地元にプロのスポーツチームがある幸せを、生徒たちにも伝えていきたいです。
2023/01/26
はっとりゆ
キャプテン翼の影響を受けながらも小学生の時は身体の問題でサッカー部には入れなかったけど、中学校入学と同時に担任教諭がサッカー部の顧問だったこともあり入部できた。その中学3年の時、ケバケバしいユニフォームのヴェルディ川崎と横浜マリノスの試合でJリーグは開幕した。
高校に入り、友達と名古屋グランパスエイトの試合を観に行ったが、ホームチームはお世辞にも強くなく、応援スタイルも「お祭り(浮世離れした)感」しかなかった苦い思い出とともに封印され、豊田スタジアムができても、ベンゲルにもストイコヴィッチにも期間限定でしかお世話にされなかったおかげで、名古屋の街は未だにサッカー熱にほだされてはいない。
そんな僕の代わりに嫁と娘はサッカー観戦の楽しさを覚え、代表戦を観ている中で中村憲剛選手の大ファンになり、かれこれもう7年くらいは川崎フロンターレの虜になっている。川崎フロンターレの「地域密着感」は川崎市だけに留まっていないのが素晴らしい。
そんなこんなで駆け抜けた30年。雑だった戦術は明確化され勝敗を左右するようになり、様々なサッカー漫画も少年たちのイメージを膨らませる手助けをして、今や「サッカー=ちゃんとした人」と見られるようにもなってきた。
僕は中学生から大人になり、サッカーからフットサルに転向はしたが「フットボール愛」は増すばかり。いつかはフットボールクラブを経営したいと思いながら、名古屋の片隅で会社経営をしながらフットサルチームで素人から玄人に育っていく大人たちを数少なく輩出している。Jリーグの発展こそが、日本の明るい未来をつくることにもつながるものだと信じている。スポーツは人を育て、地域はJリーグで育つ。そんな未来を夢見ています。日本にプロサッカーリーグができて良かった。
2023/01/26
クオンキャッツ
2011年の時に小学2年の夏の時に古い国立競技場で甲府対浦和の試合を家族で見に行きました。応援バスで行きました。僕はエスコートキッズをしました。そして元甲府のFWのパウリニーニョと一緒に選手入場をしました。その時は3ー2で甲府が勝ちました。とても嬉しかったです。
2023/01/26
サッカー大好き
小学生の時に『キャプテン翼』を見てサッカーをやってみたくなった!しかし、能力も機会もなく中学へ。中学2年生の時にJリーグ開幕!好きなマスコットのチームを応援したりグッズを集めた。毎回テレビでサッカー観戦する日々!黄金時代も観れた!社会人になり会場へ何度か行って観戦!生で観る選手やプレーに興奮した!
小学~高校までサッカーの上手い男子が居て、サッカーがプロ化して目指す方向が決まり、彼らの未来が広がった!そのお陰で女子もリーグができ、男女ともに夢を持つことができた事を大変に良かったと心底思う!
2023/01/26
谷明彦
Jリーグ発足時にガンバ大阪のファンとしてレプリカユニホームを購入して観戦に行った事思い出しますし、そのユニホームはミズノのメーカーで今も家に残っています。そしてファンクラブに入って小型のドラムバックを特典として貰いました。その当時は嫁さんと観戦してましたが今は息子と観戦しています。(年間に1.2回程しか行ってないが)おかげで息子との会話も弾んでいます私は第1回オールスター戦が神戸のスタジアムで行われて観戦。オープンニングでは鳥肌が立って凄く感動した事今でも覚えているし息子に自慢していますこれからもガンバ大阪を応援します。
2023/01/26
ライムスカッシュ
現本拠地・サンガスタジアムのこけら落としの試合。
西京極時分からスタジアムには通っていましたが、客席からの見え方、熱量が全く違って…。
完成の際の内覧会には参加していて、スタジアムの一部はすでに見てはいたものの、やはり
スタジアムはお客さんが入ってなんぼ、だと実感したら、感極まって泣きそうになりました。
ほんと、あの天皇杯優勝から長かったなぁ…。
2023/01/26
田邉将也
今から23年前、万博記念競技場でプレーさせていただきました。大好きなガンバ大阪の前座試合でした。
当時小学生だった私にとって憧れの舞台。
スタンドの拍手や声援がピッチまでしっかり届くことに驚き、感動したことを覚えています。
この写真は父親が撮ってくれた宝物です。
当時同じチームでプレーした(近石)哲平は、現在J3のヴァンラーレ八戸でプレーしています。
同郷の誇り、応援しています。
2023/01/25
Twin
初めての大宮公園サッカー場(まだNACK5スタジアムじゃなかった頃)チケットを切ってもらい、メインスタンドを上がった時に目にしたバックスタンドの桜の木...忘れることはできません。
2023/01/25
BOA SORTE(kenypan2)
私がサッカーをはじめたきっかけが『Jリーグ』でした。父が日産に勤めていたこともあり、小学生の時にマリノスとヴェルディのあの煌びやかな開幕戦をみて地元のサッカークラブに入りました。
父は野球で育ったひとだったので、Jリーグがなかったらサッカーではなく野球チームへ入っていたんだろうなって思います。
そして大人になった今も仕事としてサッカーへ携わらせてもらっております。
#私とJリーグ
2023/01/26
りっしゅ
私が小学生の頃、父と弟がサッカーをしていたこともあり、週末に家族で父や弟の試合の応援に行ったり、自宅でJリーグ中継を見たりして、サッカーを観ることが身近な生活をしていました。ただ、四国に住んでいて、当時のJ1やJ2のチームが近くになかったので、年に1~2回、家族旅行で大阪や神戸にJリーグを観に行くのが楽しみでした。
その旅行の中で一度だけ、父が自家用車を片道7時間以上運転してくれて、当時、黄金期だったジュビロ磐田のホームゲームを観に行ったことがあります。テレビで応援していて、大好きになったジュビロ磐田のパスサッカーを、サッカー専用スタジアムで、間近で観れたことが、とても嬉しかったのを大人になった今でも覚えています。また、その時に覚えたジュビロ磐田のチャントは今でも歌えます。
今では四国でもJリーグチームが増えたので、地元チームの練習見学に行ったり、週末に家族や友達を気軽に誘ってスタジアムに行っています。Jリーグが身近にあることが、私の元気の源です!
2023/01/25
ピロ
私は2002年から横浜F・マリノスを応援しているサポーターです。
1番印象に残っている出来事は2019年J1第33節の等々力陸上競技場での川崎フロンターレ戦です。前節の勝利で今季初めて首位に立ったFマリノスがリーグ連覇中のフロンターレのホームで闘う神奈川ダービー。開門前の待機列で待っている時間や試合前に選手がアップで登場してくるまでの時間の緊張感は今でも忘れられません。
試合結果は4vs1の快勝。最終節でも勝利を収めたFマリノスは15年ぶりのリーグ優勝を果たしました。かれこれ20年近くFマリノスを応援し続けていますがあのときの緊張感を超える試合はありません。
これからもFマリノスを、そしてJリーグを全力でサポートしていきたいです!
2023/01/25
ワルンタ推し
約2年前、結婚と同時に大阪から川崎市に引っ越してきました。友達もいない、親も近くにいない、土日に買い物に出ても知らない土地で疲れる。そんな日々でした。
そんな時ふと、引っ越してきた家の周りの至る所に、フロンターレのタペストリーやポスターがあることに気づき、元々スポーツを見るのは好きだったこともあり、夫と試合を見に行くことに。
2022年の富士フイルムスーパーカップが初めての現地観戦でした。
あの迫力、ドキドキ、高揚感、今でも忘れられません。
そこから2022シーズン、毎試合のように等々力に足を運びました。ユニフォームを買い、タオルマフラーを買い、気づけば家に溢れるフロンターレブルーのグッズ。
今日のスタメンは…と夫と話しながら等々力に向かい、勝った日は嬉しくて、そのまま外食でご褒美。負けた日には会話もせず、トボトボ帰りました。
気付けば土日も試合やグッズを買いに行く予定でぎっしり。フロンターレのことが、川崎のことが、大好きになっていました。
フロンターレはよそ者だった私を川崎市民にしてくれました。
まだまだサポーター歴は短いですが、これからもずっと応援し続けます。ありがとう。
2023/01/25
なつ
両親は私が生まれる前からFC東京(東京ガス)の試合を観戦していました。
小さいころから、味の素スタジアムや練習場に家族で行きました。
味スタに行けば、ジュースやお菓子を買ってくれる。それがすごく嬉しかったことを覚えています。
私は23歳になりました。
今では年パスを買い、全国各地へ応援に行くことを楽しみに過ごしています。
今年の夢は、国家試験合格とFC東京の初優勝!!!
2023/01/25
ud
Jリーグ開幕の1993年に生まれ、当たり前のように家族にスタジアムに連れられ当たり前のようにサッカーが好きになりました。
Jリーグが生活の一部にある中でごく自然にJリーガーになることが夢になりました。
しかし夢を叶えることができず社会人に。
それでも夢を諦めきれず昨年、
大好きなチームの求人を見つけ最後の挑戦。
今年の春から職員として採用されました。
30周年の節目となる年、
遅ればせながら私の第二の人生をスタートさせます。
2023/01/25
マイネームパルちゃん
初めてJリ-グのスタジアムに入った緊張感とワクワクが混じりあった時の日々は忘れ無い
2023/01/25
K-Hfoot
1993年Jリーグ開幕試合
国立競技場が満員になった試合、日本リーグ時代のリーグ戦、天皇杯決勝、高校サッカーなどで、何度も足を運び観客が少ないあのスタジアムが、超満員になった。チケットは取れず観戦出来なかったけど、その気持ちの高ぶりは今でも覚えています。あれから30年Jリーグは発展し世界一難しいリーグとまで言われるようになり、海外へと活躍の場を移す選手もかなり増えました。
今後日本がワールドカップ優勝を目指すにあたり、絶対に欠かせない存在が「Jリーグ」これからも応援しサッカーを盛り上げていきたいです。
2023/01/11
ひびき
友達にこの選手かっこいいよね?と言われ見た目から入ったサッカー観戦。
初めての試合観戦はFC東京サポーターとして臨んだはずが手違いでジュビロ磐田側に座るというデビューながらまんまとサッカー、そして応援の楽しさにハマりました。
忘れられないのが2004年のナビスコ杯。
私と友達は学生の為、文化祭があり試合観戦には参加出来ずモヤモヤした気持ちの中結果を待っていました。友達のお父さんからFC東京優勝したよ!と連絡が来た瞬間、友達と抱き合ってクラスの教室で泣いた事は今でも忘れられません。
2009年のナビスコ杯は現地での観戦、頑張る選手達の姿を生で見てまた当時の友達と抱き合って泣きました。こんなに心を揺さぶられる出来事を学生のうちに経験できた事は私の中で宝物です。
今は子育て等なかなか観戦に行く機会がないのですが、いつか息子を連れて国立競技場に行ける日を楽しみにしています。
2022/12/26
ホーリー
こんばんは。 いつもお世話になっています。 Jリーグにおける忘れられない体験は、小学2年生の時、秋の運動会の練習をしていて、ダンスがもう仕上がってきている、というときに、藤原 猛先生が、Jリーグが大好きすぎて、急遽、仕上がってる運動会のダンスをJリーグに変えられた、というエピソードがあります。
当時は、ラモスさんがサッカー選手では有名だったと思います。 Jリーグの音楽とダンスもとても楽しかったですが、運動会のダンスが仕上がっている時に急遽ダンスを変えられる、藤原先生の大胆な行動には驚きました。
2023/01/16
グラッデン
1998年4月、北海道から大学進学のため神奈川に引っ越した。初めての一人暮らし、何とか暮らしていたが、都会と地元とのギャップに苦しみ、地元の良さを改めて感じる日々でもあった。
その年、初めてJリーグに昇格したのが、コンサドーレ札幌。高校時代から、地元で気にはしていたものの、試合は観戦したことがなかった。自分の進学とともに、Jに昇格したコンサドーレには勝手に親近感を覚えていた。
そして、迎えた7月、横浜三ツ沢公園球技場。コンサドーレ対横浜フリューゲルスの試合を、雨の中1人で観戦に行った。初めて買ったチケットは、一番安いアウェイ側ゴール裏席。そこは、札幌サポーターの熱気であふれていた。横浜にもこんなにも札幌愛、北海道愛を持っている人がいるのだ、と心強く感じた。
試合は、後半終了直前にウーゴマラドーナの直接FKが決まり、同点に追いつく劇的な展開。人生でこんなに叫んだことはない、というくらい叫んだ。最後PK戦で敗れてしまったが、選手たちには本当に心から労いの拍手を送った。自分も、アウェイの生活だけど、地元愛を忘れず頑張って暮らしていこう。そう誓った夜になった。
大学4年間を終え、就職で北海道に戻ってからも、コンサドーレを応援することが自分の生活の一部となった。そして、おそらくそれはこれからも変わらない。心揺さぶられる試合がいつあるかわからないから、毎試合声援を送り続ける。
2023/01/08
くま
子供の頃からベガルタ仙台が好きで子供の頃から何回か親に連れていってもらっていました。大学生になり、社会人になり自分で自由に使えるお金ができ、時間ができたことで年チケを購入するようになり毎試合ユアスタに行っていました。自分は俗に言う「ガチ勢」だったので職場や友達のなかで一緒に試合に行く人がいなかったのでひとりで行くことがほとんどでした。そんなある日いつものようにスタジアムの席に座っていると「いつもひとりで観に来てるよね、よかったらお菓子食べる?」と声をかけてお菓子をお裾分けしてくれたグループの方がいました。そのときはちょっと話しただけでした。次のホームの試合でも自分はいつもどおり(自由)席を確保しようとしたらそこはすでに埋まっていたので諦めて他の席を探そうとしたら「席取ってあるよ」と前回の試合で声をかけてくれたグループの人が言ってくれました。「ひとりくらいなら毎試合席確保してあげるよ」と言っていただきいつしかグループに入れさせてもらい一緒に試合を観るようになりました。これまではひとりでアウェイの試合も行っていましたがそのときからアウェイにも一緒に行き、ベガルタでの違う楽しみがたくさん増えました。そんなグループの中にあるひとりの女性がいました。最初はグループのイチメンバーだったのですがいつしかその人のことが気になり気付いたときには好きになっていました。そしてその人に告白をして付き合うことになり、さらには結婚することができました。大好きなベガルタで出会い、お互いベガルタが好き同士ということもあり幸せがたくさんです。そんなベガルタ大好きな夫婦の結婚式には何とベガルタ仙台の「ベガッ太」が出席してくれました。こんな大好きなものに囲まれた結婚式は我々だけしかしてない、最高の思いでです。Jリーグが、ベガルタ仙台が繋いでくれたベガルタ仲間とは今でも毎試合一緒に試合を見て遠征に行き、そしてベガルタが好きな嫁とも出会うことができました。この幸せな日々をを大切に今後も一生ベガルタを応援していきたいと思います。
2022/12/25
よーすけ
はじめてスタジアムを訪れたのは1996年3月20日、博多の森球技場。
福岡ブルックスからアビスパ福岡に名前を変えてJリーグに参戦して初めてのリーグホーム戦。
当時7歳だった私は、家族と共にたくさんのお客さんで埋まったスタジアムでアビスパの試合を初めて観ました。
まだ選手の名前も全く知らず、兄から「あれがヴェルディから来た都並」「あれがアルゼンチンのマラドーナの弟」と説明されても特に興味はなく観ていた記憶があります。
あれから25年以上が経ちました。
あんなに興味がなかったのに
いつしか一人でも観戦に行くようになり、
大人になった今でも、
毎試合、スタジアムでアビスパの試合を観戦続けています。
ここでたくさんの友人と出会いました。
ここでの出会いがきっかけで転職することもありました。
アビスパがあったから今の自分がいるといっても過言ではありません。
これからも自分の人生と共に、アビスパを応援し続けると思います。
2023/01/11
fcts2_natsu
弟がサッカーを始めたことをきっかけに我が家は野球からサッカー一色に。
最初は興味がなかった私も初のスタジアム観戦を気にどっぷりハマってしまい、今ではFC東京サポ歴約20年。
2004年のナビスコ杯決勝をテレビの前で正座をして観戦し、優勝時は涙を流したことは今でも強く記憶に残っています。
大好きだった父が約15年ほど前に難病になり私たち家族の生活が一変してしまった時もFC東京の存在が私たち家族を繋いでくれました。
塞ぎ込み外出を拒否気味だった父もスタジアム観戦に行くことは楽しみにしていました。杖や車椅子での移動となってしまいなかなか移動が大変になってしまった時もスタッフの方々のおかげでスタジアム観戦することができました。
今では症状が進行してしまい一緒にスタジアム観戦することは難しいですが一緒に観戦したことは今でも楽しい思い出として残っています。
私自身も大学時代に挫折し、辛くなった時がありました。そんな時はFC東京の試合を見て頑張ろう!と勇気をもらう日々でした。SHISHAMOの"明日も"は私のサッカーソングです∩^ω^∩
私の人生の一部と言ってもいいぐらいそばにあるFC東京、あなたたちの存在が私達の誇りです。初のJリーグ優勝期待してます!
自宅はDF森重選手のグッズがいっぱいです(笑)
2022/12/26
シンプー
気づけばJリーグが発足して30年。職場の同僚からチケットを譲ってもらい、国立競技場でのヴェルディ川崎vs浦和レッズ戦を観戦し、その場で浦和レッズのファンになり、足しげくサッカー場に通うようになりました。シーズンチケットを取得して28年。いろいろな思い出があります。
浦和レッズは、Jリーグのお荷物と言われていたクラブでしたが、サポーターの数ではどこのクラブにも負けない規模でした。チケットの発売は、初日は電話予約のみで、なかなか入手できませんでした。友人らと手分けしてチケットを交換して観戦していました。
電話予約は東京、神奈川、埼玉あたりからではなかなかつながらず、地方からだと比較的繋がりやすいことが分かり、発売日に実家のある九州に帰り、実家の電話機がダイヤル式だったため、公衆電話からかけ続けました。電話がつながってチケットが確保できた時は、ガッツポーズを何度もするくらいの嬉しさがありましたが、つながっても予定枚数終了のアナウンスを聞いた時の哀しさは、大げさに聞こえるかもしれませんが、サッカー場に行けない絶望感を感じるほどでした。
アウェイの試合は、プレイガイドの窓口での販売があり、徹夜で並んだこともありました。柏サッカー場や三ツ沢球技場での試合のチケットは入手しづらく、カシマスタジアムのチケットは全く入手できませんでした。
ネットが発達し、電話をかけることも窓口に並ぶこともなくなりました。シーズンチケットも入手できて、チケット争奪戦に関わることはなくなり、今では懐かしい思い出の一つになっています。
2022/12/25
めしめしめっし
今から20年ほど前。
その時私は中学生だった。
その日も国立競技場に愛するクラブFC東京の応援に行っていた。
試合後、近くで観戦していた美しいブラジル人女性に、私が持っていたFC東京のタオルマフラーを欲しいと身振り手振りで言われた。そこまで欲しいならとプレゼントした。その直後、女性が私の頬にキスをした。
FC東京が、スタジアムが、Jリーグが、サッカーが、世界を拡げてくれた。
2022/12/24
ドロンパくん
#Jリーグと私
世田谷生まれ世田谷育ちの私が初めて見に行った試合は、当時所属していた小学校サッカークラブが招待され、チケットを貰ったFC東京vs鹿島の試合だった。
当時はまだ出来たばかりの東京スタジアム。
ドキドキしながらも入場し、人で溢れるコンコースを父の手を頼りに歩いていったその先で、青く生い茂るピッチと燦然と輝く照明が見えた時、小学生ながらに大変感動したのを覚えている。試合はケリーの2点でFC東京の勝利。将軍ケリーの天を仰ぐゴールパフォーマンスを小学校のサッカークラブでも真似して怒られたのを今でも思い出す。
その後も何度か東京の試合に連れて行ってもらっていたが、中学生にあがるとそれもなくなっていった。
親と出かける機会が減ったことと、家から離れた私立中学校に入学したことで学校の友人を誘い辛かったことが背景にあると思う。
父に買ってもらった東京エンブレムが刺繍されたマフラーも、衣替え用のタンスから出てくることはなくなっていった。
時は流れ、社会人。
新卒で入社した会社の配属先は縁もゆかりもない兵庫県。新しい人間関係や初めての仕事を覚えるのに日々苦労するも、相談にのってくれる友人は皆東京。初めて住む地元以外の地域の中で、えも言われない孤独感を感じていた。
当時の休日は孤独を感じないよう、人の多いところにいようと思い、毎週末大阪をぶらついていた。
ある週末、なんばグランド花月の横のたこ焼き屋で1人飲んでいるとFC東京のユニフォームを着たサポーターの方が目に入った。
後から知ったのだが、FC東京のサポーターは蝗と呼ばれるくらい食に貪欲であり、アウェイの試合があると現地の名物を食べ歩く。おそらく彼もそんな蝗の1人で美味しそうにたこ焼きを頬張っていた。
そんなたこ焼きを食べるFC東京サポーターを横目に、手元の携帯でFC東京の試合を調べると、ガンバ大阪との試合が今日あると知った。
特に予定もなかったので何の気もなく行ってみることにした。
初めて訪れた万博記念公演陸上競技場。チケット売り場で当日チケット購入の列に並ぶ。
どちらも特にファンなわけではないが、昔行ったことがあるFC東京側の席を買うことにした。
それも、ゴールネット裏席。ゴールネット裏はサポーターがチャントと呼ばれる応援歌を歌い、飛び跳ねる1番盛り上がる席であり、当時の私は孤独感を忘れるにはちょうどいいと、昔は行ったことのなかったゴール裏席で観戦することにした。
ゴール裏にいくと、既に東京から来たであろうサポーターたちが大勢いた。各々が試合の予想や選手の話をしているが全くわからなかった。
こんなので大丈夫だろうかと不安に思っていると、選手入場が始まった。FC東京のサポーターは選手入場時にタオルを掲げ、Youll never walk aloneを歌う。海外の名門、リヴァプールFCのサポーターがやっていたことをFC東京の応援リーダーが日本に輸入してきた文化だ。
それまで試合の内容にしか興味がなく、そうした文化を知らずにゴールネット裏に来てしまった私は、恥ずかしい気持ちを抑えながらも急遽調達した東京のタオルを掲げ、見様見真似で歌った。
選手の入場が終わると、東京サポーターは選手の名前をコールする。選手がこちらにお辞儀をする。それを見てサポーターが拍手する。
勝手は分かったので自分を同じようにコールし、拍手する。
そしてキックオフと同時にチャントが始まった。
知らないチャントだ。自分が行っていたころよりも後に出来たチャントだろう。分からないがアップテンポで歌いやすいメロディ。気付けば恥ずかしさを忘れて応援していた。
その時のチャントの歌詞に「俺たちの東京」
という部分がある。"俺"でも"おまえ"でもなく"俺たち"の、である。
知らない土地で孤独を感じていた私には、同じFC東京サポーターという仲間になれた気がして気づいたら涙を流してた。小学生だった時に感じた感動とはまた違う感動をこの時は味わうことができた。
現在は勤務地も東京となり、家族もできた。
住所も迷ったが実家から近い世田谷にした。
試合のある週末は家族と一緒に味の素スタジアムに行っている。FC東京は試合日に子供向けのイベントも多く開催してくれるので、子供にも大好評だ。
試合に行く日は妻や子供、私も揃ってFC東京のグッズを身につける。ユニフォームの他にもマスコットキャラクターのドロンパくんをあしらったリュックサックやシュシュなどありとあらゆる東京グッズを身につけて格好から応援を楽しむ。ただそんな東京グッズの中でもひとつだけ古いグッズがある。
それは父に昔買ってもらったFC東京のエンブレムが入ったマフラーだ。
そんな思いのこもったマフラーを掲げてYou'll Never Walk Aloneを歌う。
家族と共に、熱い気持ちを持つサポーターと共に。
2022/12/20
たくなる
娘が4年生の頃、大宮アルディージャに入団したての小野選手とランチを一緒に食べられるという企画をチームが立ててくれました。算数が苦手だと小野選手に相談する娘に100点とったらユニフォームあげるから頑張ってね!と。そこからは人が変わったように算数を頑張った娘は見事に100点をとりました。そこからコロナが世界をディスタンスと言うサポーターと選手を引き離す事態になりました。それから2年経ち、チームスタッフの方から小野選手のサイン入りのユニフォームを渡されました。小学生の小さな女の子との約束を2年経っても忘れずに果たしてくれた小野選手のサポーターを想う気持ちが嬉しかったです。来年からはモンテディオ山形の選手になってしまいますが、大好きな気持ちは違うユニフォームになっても変わらないと思います。
2022/12/14
つーかー
初めて味の素スタジアムに行ったあの試合…川崎フロンターレに0-7で大敗したのですよ。悔しくてその年は二度と行かなかったのですが…何故未だにFC東京を応援しているのでしょうか?
2022/12/24
Jリーグお兄さん⚽️
僕の一番の応援団長おじいちゃんとJリーグに行った話です。
僕は小学生の時から大好きなサッカーをずっとやっています。今日までサッカーをやってこられたのは、両親の支えはもちろん、祖父母の支えがあったからです。
祖父母の家は、自分の家から近く、小さい頃から両親が仕事の時は祖父母に面倒を見てもらっていました。
祖父母はずっと僕のことを気にかけてくれ、スパイクや部活の服、サッカーに必要な用具を沢山揃えてくれました。また、試合にも沢山見にきてくれて、祖父母の前でゴールを決めれた時は本当に少しだけですど、恩返しができたのかなって思えました。
僕は今、大学生になりましたが、祖父母には色々な面で沢山お世話になっています。
ですので、日頃のお礼に
Jリーグ観戦に連れて行く事にしました!
僕らはサッカー王国静岡県民なので、
2022シーズンJ1 第33節
清水エスパルスvs鹿島アントラーズの試合を見にIAIスタジアム日本平へ。
祖母は行けなかったので祖父と二人で行きました。車の運転は僕がしました。小さい頃から免許を取るまでは、ずっと祖父の運転で色々な所へ連れて行ってもらいました。ですのでこれからは自分が色々な所へ連れて行ってあげたいと思い、初めて連れて行けた場所がIAIスタジアム日本平でした。
祖父は生でプロサッカーの観戦をしたことがないと言っていたので、かなり緊張していました。スタジアムに着いたら、周りはオレンジ色の人だらけ。最初は遠慮していましたが、すんなりエスパルスのTシャツを着てくれました(笑)祖父は、コロナ禍の影響でここ数年外出を控えていたので、スタグルやイベント、グッズ販売、bgmなどお祭り感覚はとても久しぶりでワクワクしていました。また静岡ビールを飲み試合前なのにかなり満足していました。僕らはメインスタンドのど真ん中で試合を見ました。目の前に広がる青々とした芝、電光掲示板、清水のサンバ隊、鹿島の強さ。祖父は、テレビで見るのとは訳が違うなとずっと頷いていました。また、日本代表の権田選手も見れてとても喜んでくれました。
ホーム最終戦の清水は負けてしまいました。
残留のために絶対に落とせない試合で、とても悔しかったですが、祖父との良い思い出ができて本当によかったです。祖父もまた行きたいと言ってくれました。まだまだですが、本当に少しだけ少しだけおじいちゃん孝行ができたかなと思いました。
Jリーグには、人と人を繋げる大きな力があります。僕もJリーグを通し沢山の友達や仲間、そして良き対戦相手の仲間を作ることができました。週末のJリーグが生き甲斐です。実は、自分はサッカー王国静岡で日韓の年2002年、Jリーグと同じ5月15日生まれました。Jリーグと同じ誕生日です。運命レベルで日本サッカーにかなり縁を感じます。また蹴球都市藤枝の藤枝MYFCでもボールボーイやボランティアとして色々な経験もさせてもらいました。今、藤枝MYFCJ2初昇格のイベントのお手伝いをさせていただいてます。
またTikTokで、「Jリーグお兄さん⚽️」と言う名前で、サッカーやJリーグに興味を持ってもらえるような投稿を沢山しています。Jリーグで沢山の経験をし、沢山の事を学びました。僕は僕なりにTikTokで清水藤枝を始めJリーグ、日本サッカーを盛り上げ、日本サッカーに貢献したいです。自分の全てにおいて縁のあるJリーグ。これからもよろしくお願いします。改めて、Jリーグ開幕30周年本当におめでとうございます。
2022/12/20
りつき
息子の初めてのスポーツ観戦!お腹にいる時から鹿児島ユナイテッドFCの応援に行っていて、応援の太鼓の音に合わせてドンドコお腹を蹴ってました!そして、生後100日ちょうどの日に初めてのホーム戦を観戦。ボールを目で追いかけてました!息子もいつかJリーガーになってくれたらなぁなんて思いながら母は観戦してました!鹿児島ユナイテッドFC、こんどこそJ2昇格!応援してます!!
2022/12/14
アロハNo5
声出し応援再開の10月1日のホーム戦、ウェルカムサポーターに選ばれてピッチに立たせていただきました。響き渡るチャントが染み込んで来て涙が流れました。ガンバ大阪の選手達は、この押し寄せてくる様な迫力ある応援を感じてプレーしてるのですね。素晴らしい経験をさせていただきました。
2022/12/23
Jリーグお兄さん⚽️
僕は「Jリーグお兄さん⚽️」と言う名前で
TikTokで活動しています。
自分はJリーグやサッカーに関わるために生まれて来たと思っています。
その理由を3つお話ししたいです。
1つ目。自分は日韓の年2002年のJリーグと同じ誕生日、5月15日に生まれました。
年は違いますが、Jリーグや日本のW杯に関わる日に生まれてきてとても運命を感じています。
2つ目。私はサッカー王国静岡生まれです。小学校1,2年生の時に初めて友達の家族に清水エスパルスの観戦に連れて行ってもらいました。テレビでしかサッカーを見たことがなく、目の前に広がる綺麗なピッチ、スタジアムに鳴り響く、清水のサンバと歓声。選手紹介や入場のBGM。今でもIAIスタジアムに行くと武者震いがします。清水の街並みは本当に言葉では表せませんが、オレンジの魂が染み込んでいます。どこへ行ってもエスパルスの旗やユニフォーム、ポスターが貼ってありさすが王国だと思います。クラブ設立30周年で2度目の降格。ですので、Jリーグ開幕30周年のこの年に、しっかりJ2優勝しJ1昇格して欲しいです。
3つ目。地元蹴球都市藤枝でもサッカー関係で活動させていただいてます。藤枝といえば、ゴンさん長谷部選手始め、多くのプロサッカー選手を輩出しています。また、藤枝東高校や順心高校、そして藤枝MYFC。
今年は藤枝MYFCが悲願のJ2初昇格。前代未聞のJ2静岡勢3チーム。とても楽しみにしています。藤枝MYFCではスタッフボランティアとして少しだけ関わらせていただく機会があります。地元として、地域密着、100年構想のJリーグにカテゴリー関係なくお手伝いできることが本当に嬉しいです。
生まれの日にちや生まれた土地、全てにおいてJリーグとの縁を感じます。清水や藤枝だけでなく、他のチームももちろん大好きで、週末のJリーグが本当に生き甲斐です。もちろんサポとして、ボランティアとして、私たちがJリーグを楽しめるのは選手をはじめ裏で沢山の方達が頑張ってくれているのだと改めて感じさせられました。
改めて、Jリーグ30週年本当におめでとうございます。そしていつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
2022/12/20
ここの
息子の初めてのスポーツ観戦!お腹にいる時から鹿児島ユナイテッドFCの応援に行っていて、応援の太鼓の音に合わせてドンドコお腹を蹴ってました!そして、生後100日ちょうどの日に初めてのホーム戦を観戦。ボールを目で追いかけてました!息子もいつかJリーガーになってくれたらなぁなんて思いながら母は観戦してました!鹿児島ユナイテッドFC、こんどこそJ2昇格!応援してます!!
2022/12/13
cerezo36
2005年最終節
我がセレッソは勝てば優勝のFC東京戦
確か後半44分44秒、今野選手に同点弾を決められ優勝を逃したそのとき、アウェイゴール裏に突如現れたのが、ガンバのマスコットがセレッソのマスコットを鎖で繋いたビッグフラッグ、、、
この屈辱的な出来事から、私の中でのダービーはより一層「絶対に負けられない戦い」となっています。
2022/12/13
ko
子どもが小さい時に連れていった九州リーグ。
そこから始まった長崎の旅。JFL,J2.そしてJ1へと続いた中で、喜びと悲しみを何度も繰り返し、味わい。
乾いていた日常に、次の試合を待つ潤いをもたらしてくれたサッカー、Jリーグ。
人生の潤いそのもの。
22022/12/13
かひ
中学校の時、コンサドーレの試合を見に行ってサッカーにハマりサッカー部に入ろうとしたけれど女の子が居なく諦めてしまい高二の現在まで何となくバドミントンをして来ました。こないだのサッカーワールドカップを見て改めてサッカーってすごくかっこいいなと思い今からじゃ遅いかもしれないけれどサッカーをしたいと言ってくれる友達と一緒に女子サッカー部を作りたいなと思っています。今までこれと言った夢はなかったのですがいつか選手達のようなかっこいいサッカー選手になるのが今の夢です✨
2022/12/13
たけまり
Jリーグ開幕の年、まだ私は高校生、弟が小学生でした。大好きな地元静岡県の清水エスパルスのサポーターとしていつかスタジアムへ応援に行きたいと願っていました。ある日、清水エスパルスの試合のチケットが2枚だけ手に入り、しかも試合会場が私が住んでいる静岡県ではなく、東京国立競技場での試合でした。2枚だけなので、家族全員では行けず、誰が試合を観に行くのか話し合いとなりました。結果、小学生の弟と私の2人だけで行くことに。子供だけで静岡県から電車で東京へ行くことはもちろん初めてですし、国立競技場なんて行ったこともありません。当時携帯電話もインターネットも無い時代。母親が調べてくれた電車の乗り換えを書いたメモと私が当時購読していたサッカー雑誌に載っていた国立競技場の最寄り駅を頼りに兄弟2人だけで観に行った思い出があります。静岡県から千駄ヶ谷駅までの道中はとても不安でしたが弟を不安にさせないようにと、めちゃくちゃ平然を装って電車を乗り継いで行った記憶があります。今では日本全国のスタジアム、スマホで検索すればナビでも何でも行ける時代。当時の事は私にとってはJリーグを語る上では一生忘れられない思い出です。
22022/12/13
グランママ
サッカー好きの彼氏と付き合ってからグランパスのサポーターになりました。お付き合いして1年目、J2時代のグランパスVS横浜FCアウェイに乗り込んで応援して、泊まり禁止だった私と彼氏は別々の新幹線に乗って帰路へ。(彼は名古屋駅なのでのぞみ、私は豊橋駅なのでひかり)新横浜で2人で買ったシューマイ弁当を1人で食べて帰ったのも今ではいい思い出です。今はその彼と結婚して3人目の子どもがお腹にいます。
2022/12/13
よこ
私は、現在引退している川口能活さんが大好きです。
川口能活さんが、最後に所属していたSC相模原の試合を、何度も観戦しに行きました。
それまでは、J1リーグしか知らなかった
けれどJ3リーグを知り、今まで以上に多くの選手を知る事ができました。
川口能活さんが引退した時は、とても悲しかったですが、翌年からは“たくさんのスタジアムへJ1リーグを久しぶりに観に行こう!”と目標に決め、月に1度色々なスタジアムへ行きました。
2022年、W杯。
J3での試合や月に1度、観戦した時に活躍していた選手達が、世界の舞台でも多く活躍していて、胸が熱くなりました。
J3リーグからJ1リーグまで、どのカテゴリーでも、サッカー選手達をリスペクトして応援していきたい。
これからも、沢山の選手を知っていきたい。
Jリーグと私は、これからも続いていきます。
2022/12/13
てるっち
主人とヴァンフォーレで出会い結婚し10年が経ちました。娘が生まれ2年連続フェアプレー宣言をしました!
10年目の大切な年に天皇杯優勝してくれました!素晴らしいヴァンフォーレ甲府。これからもヴァンフォーレ甲府を愛し続けます!
22022/12/13
ともち
4月に季節はずれの雪が降り、試合の日程が変わった日が2013年5月15日でした。その日はちょうどJリーグ誕生20周年!と同時に、私の誕生日でもありました(歳は違いますが(^_^;))。大勢のサポーターがJリーグへのハッピーバースデーの歌をうたって、私まで一緒にお祝いしてもらってる気持ちになりました。
2022/12/13
key
サッカーのパスワークが好き。
緩急を織り交ぜたボールを蹴って繋いで相手陣地へ入り込み、得点を狙う。
成功だけじゃなく失敗することもあるボールの行く末を追いかけていると、いろんな人と出会って関係人口を作ってゆく人生を俯瞰しているようにも見えてくる。一期一会や縁を感じる再会、長く続く関係などの繋がりを応援されているみたいに思える時もある。
うまくいってもいかなくても、誰かと会うことは生きていくうえで切り離せない。
観戦当初と比べて今ではスタジアムで声をかけてくれる人が増えた。それって嬉しい。
応援するクラブ、ガンバ大阪のホームスタジアムの車椅子席で応援しながら心の中で、「つながれー!」と叫んでいる。
パスワークが冴えて快勝した日には、未来の展望に明るさまで感じて元気になる!
これからも、なるべく多くの勝利を目にできたらいいな。
2022/12/13
AKIRA
サッカーのパスワークが好き。
緩急を織り交ぜたボールを蹴って繋いで相手陣地へ入り込み、得点を狙う。
成功だけじゃなく失敗することもあるボールの行く末を追いかけていると、いろんな人と出会って関係人口を作ってゆく人生を俯瞰しているようにも見えてくる。一期一会や縁を感じる再会、長く続く関係などの繋がりを応援されているみたいに思える時もある。
うまくいってもいかなくても、誰かと会うことは生きていくうえで切り離せない。
観戦当初と比べて今ではスタジアムで声をかけてくれる人が増えた。それって嬉しい。
応援するクラブ、ガンバ大阪のホームスタジアムの車椅子席で応援しながら心の中で、「つながれー!」と叫んでいる。
パスワークが冴えて快勝した日には、未来の展望に明るさまで感じて元気になる!
これからも、なるべく多くの勝利を目にできたらいいな。
2022/12/13
リンリン
"2歳の息子のスタジアムデビュー!
コロナ禍でなかなかお出かけが出来なかった中で、パパママのスポーツ好きと息子のボール好きが相まってチャレンジしたサッカー観戦!
スタジアムの近くは広場も多く、動き回れたこともあり、息子のテンションもハイに!楽しくサッカー観戦デビューができました。
その後も何度か観戦するうちに、ひとりで座って観戦できるようにもなり、息子の成長も感じることができました。
いつか息子が国立競技場でサッカーすることを夢見て。"
2022/12/12
わいきー
「はじめての試合は伝説の日だった…のに!?」
2003年アルビレックス新潟はJ1に初昇格しました。中学生だった私が初めて訪れた2005年もスタジアムには4万人のサポーターが集まるほど人気でした。
この日は川崎フロンターレ戦。選手もルールもわからず試合を観ていましたが、サポーターの応援をマネして声を出すのが楽しかったです。後に調べたデータから、1-1で迎えた後半41分にFKを獲得、これを蹴るためアンデルソンリマ選手が交代で入りました。
そこからリマ選手のコールがずーっと続きました。サッカー観戦初心者だった私は「まだ蹴らない?長いなー」と集中力が一瞬途切れてしまい下を向いてうつむきました。その瞬間「わぁあああー!!!」とものすごいサポーターの歓声が響きました。ハっと顔を上げFKが決まったことをすぐ理解し家族と大喜びました。
アルビは逆転勝利しました。この試合はアルビレックス新潟にとって今でも語り継がれる伝説の試合になりました。
けど、ゴール見てない!見逃した!!
でも、あの時の4万人のサポーターの歓声、盛り上がりが今でも体に染み付いています。歓喜の瞬間の虜になりそれから17年間サポーターです。
そして私ごとですが今年の夏第一子出産しました。そのためアルビのJ1昇格もスタジアムで見届けられず!でも家で精一杯応援してました。来シーズン子どもと一緒にスタジアムに行きたいです。
2022/12/09
けーにぃさん
会社が買収され一番しんどい時に愛する父が他界。
「ダメだ、壊れる」
そう感じた時に目にしたのは日本代表で躍動を続ける遠藤保仁の存在。
「気分転換に見に行ってみるか…」そう思い観戦しに行ったのが2009年のガンバ大阪VS浦和レッズ。
当時「ナショナルダービー」と言われたライバル同士の息詰まる一戦。
勝負を決めたのは雨中のアディショナルタイム、播戸竜二が執念でねじ込んだゴール。
日常では感じたことの無い、体中の血が沸騰するような興奮。
気がつけば立ち上がり、腕を突き上げていた。
それから13年、今は日本全国を駆け巡るほどに、「非日常」が興奮のある「日常」へと、「人生の一部」へと変わっていきました。
つらいことがあっても、最高の週末が待っているからガンバれる。
それが「Jリーグと私」なのです。
22022/12/13
ドラゴンエンペラー
アビスパ福岡サポーター歴2.5年です。
私は2021年シーズンに期限付き移籍加入した奈良竜樹選手の個サポです。彼の個サポになったお話をしたいと思います。私自身、アビサポ歴が短く、初めてのJ1での現地応援をしました。普段は試合中に動画を撮ることはないのですが、唯一、一度だけCKでスマホのカメラを回したことがありました。その時にヘディングゴールを決めたのが奈良選手でした。また、その次の節のリーグ戦の試合前にベススタのモニュメント広場で選手のアイテムガチャを引きました。すると、奈良選手のキーホルダーが当たり、これは奈良選手を応援するしかない‼︎と思いました。それからというものの、奈良選手のプレースタイル、チームを鼓舞する言動の素晴らしさに心惹かれていきました。しかし、奈良選手は期限付き移籍加入でした。当時、私は期限付き移籍というものを知らず、奈良選手が1年間だけで元のクラブに復帰する可能性があることを知りました。それは嫌だ‼︎と思い、どうにかサポーターの想いが伝わらないか考えたところ、Twitterで奈良選手に関するツイートをする時は『#奈良竜樹完全移籍の会』というタグをつけるようになりました。すると、それに共感してくれたアビサポの方がそれを広めてくださり、このタグがアビサポ界隈では注目してもらえるようになりました。さらには、地元のローカル番組ではそのタグの存在を奈良選手自身にお伝えしてくださるシーンや、シーズン終わりにはYouTube LIVEで尋ねてくれるシーンまで生まれました。極め付けは、アビスパ福岡【公式】さんが奈良選手の完全移籍が確定した時に、そのタグを使ってくださったことです。奈良選手の完全移籍に向けて、クラブ、サポーター一体となって達成できたという最高の瞬間を迎えることができました‼︎今シーズン2年連続でクラブは残留することができましたし、2023シーズンも奈良選手のプレーをJ1で観ることができます。これからも奈良選手を応援していきたいと思います‼︎
2022/12/12
ヒデ
2000年に結婚して川崎市に住むようになりました。
2000年5月3日、サッカーの好きな僕に妻から「川崎にフロンターレってJリーグのチームが有るらしいわよ。観に行ってみる?」との誘いを受け「ん?川崎のチームってヴェルディじゃないの?」と、思いつつ初めて等々力陸上競技場に足を運んだこの日。
対戦相手は当時最強とうたわれたジュビロ磐田。
結果は1対5。しかも相手チームはPKでのハットトリックというおまけつき。
「うわ…何だこのチーム。弱すぎる…応援してぇ!」
それが僕とフロンターレとの出会いでした。
この年のナビスコ杯(当時)リーグ戦で全く勝てなかったフロンターレは、あれよあれよという間に決勝まで勝ち進み迎えた決勝戦。対戦相手はこちらも当時最強の呼び声が高かった鹿島アントラーズ。結果は0対2。得点差以上の差を感じた試合でした。
その後、J2降格、J1昇格に勝ち点1差足りなかった2003年シーズン、圧倒的強さで昇格を勝ち取った2004年シーズン、初めてのACLなど様々な経験をし、時には嬉し涙を流し、時には悔しさを味わうこともありました。負けた試合の後はあからさまに機嫌が悪くなり、周囲に当たり散らすこともしばしば…家族には本当に嫌な思いをさせたと思います。
時は過ぎ、2017年10月23日。
季節外れの台風が過ぎ去ったこの日。
妻が脳梗塞で倒れました。
幸いなことに発症してすぐに病院に行ったので
ほぼほぼ後遺症もありませんでした。
入院してから1週間後にはリハビリを始めましたが
そのペースはちょっと無理しすぎじゃないかと思ったので「そんなに無理しなくていいよ。ゆっくり治せばいいじゃない」と言ったら、「だってルヴァンカップの決勝には間に合わせたいじゃない」とのこと。「この人は真のサポーターだな」と思わされました。
そんなこんなで迎えた決勝戦当日、懸命のリハビリも手伝って、妻と一緒に観戦できることになりましたが、手違いから相手チーム側のチケットを取ってしまい、相手チームサボの中で心の中で二人で大声で応援しましたが、願いは届かず0対2の敗戦…
埼玉スタジアムのスロープを下っているとき、色々な感情が混ざり合って自然に涙がこぼれ落ちていました。
「試合に負けて泣くなんて…ああ…僕は今日やっと妻と同じように心の底からフロンターレのサポーターになれたのかもしれない」と、そう思いました。
しかし、同じ年の12月2日最も待ち望んでいた瞬間はふいに訪れました。J1リーグ初優勝。家族そろってテレビの前で観戦していましたが、その瞬間うずくまって号泣してしまいました(中村憲剛と全く同じポーズで)。
結婚してから今までの間、喜びも悲しみも家族みんなで
フロンターレと共に味わいました。Jリーグそしてフロンターレには今こう言いたいです。
「ありがとう、そしてこれからもずっとよろしくね。」
2022/12/08
鯱うさぎ
なんとなくコンビニで買った豊田スタジアムでの名古屋グランパス対初昇格の松本山雅FCの開幕戦チケット。名古屋グランパスを応援するつもりが松本サポが真横にいるバックスタンド南側の席をとってしまった。一緒に観た幼い娘は『赤チームがんばれ~』と大声で叫んでた。私は周りの松本山雅サポの視線が気になったが娘はお構いなしに叫んでた。試合は最後勝ち越しのPKを外しドローだった。それでも初めて見る綺麗な芝生のピッチやゴールシーンに感動を覚え、充分楽しい時間を過ごせた。私はその後、ユニフォームを買い、ファンクラブに入会し、シーズンチケットを購入するまでになった。今現在、名古屋グランパスは私の心の拠り所。その原点があの松本山雅戦だった。
2022/12/08
ゆーた
年少から始めたサッカー。
中村俊輔選手に憧れ、栃木から横浜へ通いマリノスの練習見学するのが楽しみだった!
イタリア、スコットランド、スペインへ試合観戦へ行ったのは特別な思い出です。
今季で引退をされましたが、この先も私のHEROは「中村俊輔」選手です。
2022/12/07 9:33
ジュビヤマ
はじめてジュビロ磐田スタジアム(現ヤマハスタジアム)を訪れたのが2002年4月20日の横浜FM戦。当時横浜FMに在籍した中村俊輔選手、中澤佑二選手の活躍で、ジュビロは1-3で敗戦。
でも、その試合で観たジュビロのサッカーに取り憑かれ、この年から車で往復8時間(信州⇄磐田)かけての磐田通いが始まりました。
2002年のジュビロは言わずと知れた最強の年、年間3敗しかせずJリーグではじめての完全制覇をしましたが、この年ジュビロ磐田スタジアムに行った4回のうち、この横浜FM戦を含め、9月14日浦和レッズ戦、10月12日ジェフ市原戦と最初の3回は全て負け試合を観戦しました。
そしてこの年最後のジュビロ磐田スタジアムは11月23日の東京ヴェルディ1969戦、現地観戦初勝利は延長後半14分、福西崇史選手のVゴールで劇的な2ndステージ優勝を決めた試合となり、最高の瞬間をスタジアムで迎える事が出来ました。
年間3敗しかしていない最強ジュビロの負け試合を3試合全て観て、初勝利が完全制覇を決めた試合、そんな信じられないような巡り合わせからジュビロを応援しはじめて20年、今ではホームゲームに限らずアウェイも含めほぼ全ての試合を現地観戦するまでの熱狂的なジュビロサポーターになりました。
2022/12/06 23:25
じぷしーあっきー
なんと言っても、一番の思い出は2017年、水戸ホーリーホックで大ブレークした前田大然選手を、茨城大学のフットボールカフェというイベントにお招きして、トークをしていただいたことです。彼がまだ、高校でのサッカーキャリアが恵まれなかった時の辛かったことや、そこから多くの人のおかげで、プロの世界に入れたことを、訥々と、しかしはっきりとした口調で話してくれたことは、彼がビッグになった今でも、変わらぬ私の宝物です。水戸から松本に戻り、やがて、J1、さらに世界の舞台に羽ばたいて、今や日本のエースストライカーとなった姿を見ると、誇らしく感じると同時に、J2、Jリーグは、日本のフットボーラーが世界レベルへの成長に直結する、文字通り登竜門であることを、強く感じます。水戸ホーリーホックのマスコットは、竜(ホーリーくん)ですしね。
2022/12/07 12:32
ankatsumagic
#レノファ山口
#Jリーグと私
自分も結構なアウェイに行かせてもらいましたが、あの試合は不思議な経験でした。
J2に降格してきたあの名古屋グランパス。予算規模、選手層、圧倒的サポーターの数。その名古屋にレノファ山口として対戦できるという「闘う前に敗けること考えるバカがいるか」とアントニオ猪木さんの名言をぶつけられてしまいますが、瑞穂陸上競技場に思い出になるぐらいのスタンスで行きました。普段よりゴール裏のレノファサポーターの数がいましたが、相手側(名古屋ホームのゴール裏)は赤でびっしり。圧倒的アウェイ。天皇杯のアマチュアがJクラブに挑むような感覚がこれかと思うほどの差。
そして驚くことにサポーターグループはこの場に諸事情で来てないということ。太鼓は1人分だけ。コールリーダー・サブも不在。なんと自信がある人をその場で募集し、挙手された方が急造のコールリーダーに。太鼓はいつも叩いてる方の息子さん(中学生だったはず)
こちらは凄く手作りレベルの応援。ミスは当然なのでもう来られてるレノファサポーター全員で手拍子、チャント熱唱、コールでフォロー。まさに「全員応援」
向こう側は飛び跳ね、声の一体感で凄い圧。この違いでは~と思ったが、なんと・・・試合は0-2でレノファ山口が勝ってしまいました。とてつもない「ジャイアントキリング」感。凄い不思議な体験をさせていただきました。
2022/12/07 0:42
n.kato0423
2016年9月10日 ジュビロ磐田vsヴィッセル神戸 @ヤマハスタジアム
この日は休日のはずでしたが前日に同僚が病欠することが確定したため穴埋めとして休日出勤することになりました。
ジュビロの試合をとても楽しみにしていたんですけど仕事になってしまったのでがっかりしました。
気持ちを切り替えて仕事に打ち込んだところ夕方には落ち着きました。
上司に相談したところ帰宅の許可が出たので、そのままスタジアムへ直行。
丁度選手たちのウォーミングアップのタイミングで入場出来ました。
その時です。
ジェイ選手がスタンドに投げ入れたサインボールが私のところに向かってきたんです。
見事にキャッチできました。
ジェイ選手のユニフォームを着て応援していたのでとてもうれしかったです。
休日出勤のもやもやが一気に吹っ飛びました。
サインボールをもらえたのは後にも先にもこの1件だけでとても鮮明に覚えています。
2022/12/06 22:49
めめ
2002年の日韓W杯のあと、家族で訪れたヤンマースタジアム長居。
テレビで見ていた「モリシ」が目の前でスタジアムを駆け回る姿に感動して、それから今までずっとセレッソ一筋です。
あれから20年、モリシは社長になったけれど、モリシイズムは今のセレッソの選手たちにもしっかり受け継がれているなと感じます。
2023年こそは桜満開!となることを信じて、来季も全力でセレッソを応援します!!
2022/12/07 9:33
まゆ
今の旦那が元々サッカーを好きでサッカーはどんなものなのかなと観戦に行ったのがきっかけ。
たまたま栃木SCが女性無料となっていたのでグリスタに行きました。初めてだったのでとてもワクワク。細い通路を抜けてピッチを見た時の感動は今でも忘れません。ルールも選手もわからないまま。勝ったのかも覚えていませんがそれから、栃木SCのサポーターに。
今では、栃木SCのファン・大好き度は私のほうがすごいです。生で観戦は、テレビとは違いなんとも言えないです。
近くに栃木SCがあり、たくさんのサポーターの仲間もでき。色々な良いキッカケをくれた栃木SCにとても感謝です。今では生活の一部。負けた時は、いけないけどとても不機嫌。勝った時は、ずっとルンルン。栃木SCに出会えて本当によかったです。私の人生を変えてくれました。
2022/12/07 0:33
n.kato0423
1996年の年明けぐらいに今は無き松菱百貨店でジュビログッズを購入すると抽選でアトランタオリンピック候補選手のサイン色紙が当たるというイベントがありました。
抽選でサイン色紙が見事に当たりまして、服部年宏さんのサイン色紙を頂きました。
鈴木秀人さんと服部年宏さんがその場に来場しており、サイン色紙をもらうときに両名に握手をしてもらいました。
その時、弟も一緒にいたので弟も握手をしてもらいました。
弟が当時被っていたキャップが清水エスパルスの物で、司会者と鈴木さんと服部さんが苦笑いしていたのはいい思い出です。
サイン色紙はまだ家に飾ってあります。
2022/12/06 22:28
オカピー
夫婦で栃木SCを応援しています。
妻とは共通の趣味、サッカー観戦を通して出会いました。初デートは栃木SCの試合でした。栃木SCを一緒に応援する機会が増えていき、アウェイ遠征もするようになりました。デートという名のサッカー観戦がほとんどでした(笑)
スタジアムでプロポーズをして無事に妻と婚約でき、栃木SCのホームタウン、宇都宮で婚姻届を出すことができました。
出身地はそれぞれ栃木県ではなく栃木SC、栃木県が好き過ぎて宇都宮で婚姻届を出すことにしました。結婚式は宇都宮でおこない、栃木SCと結婚式でお世話になったスポンサーの協力のもとで栃木SCの試合前にスタジアム人前式を実施しました。素晴らしく、感動する式にすることができました。人生最大の思い出にはJリーグ、栃木SCが共にあります。ありがとうと言いたいです!
2022/12/06 22:24
ワガママボディー
スタジアムで子供のお仕事体験を申し込みをして初めて家族でサッカー観戦に行った事が良い思い出です。
夏場で暑かったけど子供の眼が輝いてました。
コロナ以降にイベントが軒並み中止になり、いまだにイベントも縮小されている事は、
子供の夢や希望も失っています。
2022/12/06 21:22
ロックス
2020年9月コロナによる上限5000人が緩和された時、はじめて埼スタに行きました。その年の3月に浦和美園に引っ越しをし、ずっと行きたいなと思いながらチケットが取れなかった中でやっと行けるなという感じでした。当時年長の子供を連れていったのですが、南ゴール裏でFC東京を応援すると言う暴挙に出た息子を周りの方々が優しく微笑んでくれて安心したのを覚えています。
Jリーグ元年から浦和レッズのファンであったもののスタジアムに行ったことはなく、また2008年頃から少しずつ興味が薄まっていきました。
2020年9月もどんな選手が居るのかいまいちわからず、「浦和美園に引っ越した以上はスタジアムに行ってみたいな」そのくらいの動機でした。
そこで見た浦和レッズのサッカーはあまり魅力的なものと言えず少しがっかりした記憶があります。
2021年リカルド監督就任と共にどんどん面白いサッカーになり、スタジアムに行ける回数も増えていき浦和レッズに対する熱が上がっていきました。そして昨年の天皇杯での感動、熱狂を味わい、今年はシーズンチケットを購入しホームは全て、アウェイも行ける限りは行くという形で応援をさせて頂いております。
天皇杯で国立中に置かれたビラ、サポートを鼓舞する横断幕、学生運動などを彷彿させる60年代のノスタルジーがあり過激なノリそれらが、浦和レッズのコンテンツであり、ファン・サポーターを引き付けているのだなと感じています。
コロナでリアルの熱狂を忘れていた自分には十分すぎる刺激でした。毎週試合を待ち望みその都度喜怒哀楽を味わえるこのコンテンツは、救いそのものでした。
古き良き時代を知っている方々、それを受け継ごうとしている若い方が、浦和レッズのゴール裏発信の熱狂的な応援というコンテンツを支えている。
時代が大きく変わる中で、今まで作り上げた来た方々の思いを紡ぎながら新しい時代へ向かう正にタイミングなのだなと感じます。
コロナで集客が難しい中で、また6万人が熱狂するスタジアムを作る
これまでの、良きものを包含しつつ新しい時代のスタジアムを作る時なのではと考えています。なにものも排除しない、みんなが熱くなれるスタジアムとは何かをみんなで考えられたらと思います。
2022/12/06 18:12
hito
#Jリーグと私
サッカーオールスター戦が広島であり、ジーコを、観て感動したの思い出す。
あれから何年も経ち、今や地元のサッカーチームと推しのチームを応援する日々
2022/12/06 21:46
usami
FC東京とベガルタ仙台の試合を見に行った時のお話。
ベガルタ仙台サポーターで当時小学生だった僕は最寄りの駅にいたFC東京サポーターのおばさんに思わず声を掛けました。おばさんは優しく僕とサッカーの話をしてくださりました。僕自身大学生になりましたが今でも町中で会えばサッカー談義をするほど仲良しです。
また、アルビレックス新潟vsベガルタ仙台の試合を見に行った際、一人新潟駅を散策していると、地元の方々と仲良くなり、「一緒に昇格しよう!」(新潟はこの日J1昇格を決めていた)などと暖かく声をかけてくださり、今でも連絡先を交換し、交流が続いています。
Jリーグを通して、人と人とのつながりを感じました。
2022/12/06 21:07
しぃさぁ
サンフレッチェ広島サポーターです!
僕の1番のエピソードは2022年のルヴァンカップ優勝です。これには色々な思いがありました。
僕がはじめてサンフレッチェ広島を現地観戦したのが2016年の富士ゼロックススーパーカップで、当時僕は中学生で佐藤寿人選手を尊敬していてゴールパフォーマンスも佐藤寿人選手をまねるほど大好きな選手でした!
そんな思いを胸に富士ゼロックススーパーカップに望んだら佐藤寿人選手が先制点を決めてくれました、、まさかサンフレッチェ広島の現地観戦初ゴールが佐藤寿人選手!!本当に嬉しかったです!
その後も立て続けに他の選手もゴールを決め、3-1でガンバ大阪に勝ち、当時キャプテンの青山敏弘選手が優勝トロフィーを掲げていてサンフレッチェ広島好きになったところから6年後の2022年、しばらくサンフレッチェ広島の試合を見ていなかったのですがこの年にサンフレッチェ広島をしっかり応援しはじめて、様々な場所に現地観戦に行き、迎えたルヴァンカップ決勝。6年前大好きだった佐藤寿人選手はルヴァンカップのアンバサダーに、、そして相手は6年前はじめてサンフレッチェ広島を見た時の対戦相手ガンバ大阪のライバルチームセレッソ大阪でした。
試合はとても厳しい試合でなかなか結果がでず先制されて厳しい中のアディショナルタイム、PKで同点さらにはコーナキックからの追加点で逆転勝利、、、。本当に嬉しかったです!
アディショナルタイムでは涙が止まらず、試合後は無意識に2012年サンフレッチェ広島が初優勝した時の佐藤寿人選手と同じような形で地面に頭をつけて倒れ込んでいました。優勝セレモニーでは6年前広島に入ったばかりの佐々木翔選手が6年の時を経てチームのキャプテンとしてトロフィーを掲げていました。さらに6年前トロフィーを掲げていた青山敏弘選手もトロフィーを手にしていた時は6年前のことを思い出して感極まりました。本当に幸せでした。
さらに僕は6年前、勝利を家族と喜んでいました気づけば今や彼女(大阪府民)に優勝報告!!と色々な思いがあった試合でした!(ある意味大阪にはとてもご縁がありますね笑)でもやっぱりこれからもサンフレッチェ広島をずっと応援します!この思い出は一生忘れません。
2022/12/06 15:24
いずみん
栃木SCのホーム戦では
サポータが集まり集合写真を撮ってます。
サポーターが一丸となり選手を支えています
2022/12/06 21:24
まる
当時付き合っていた彼が好きだったフロンターレの試合を観に行ったのがきっかけで、私もサポーターになり、行ける試合は毎試合観に行くほど応援していました。
お互い後援会の個人会員になり、数年ほど経ったときにいつものように後援会の継続案内が届き、それを見ていた彼にもう家族会員になる?と言われそれが実質のプロポーズになり入籍しました。
まさかこのタイミングでとは思いましたが、私達らしいなとも思います。
もちろん家族会員に変更して今でもずっとフロンターレを応援しています。
2022/12/06 19:54
サックスブルーのおひさま
私が初めてジュビロ磐田の「サポーター」になったのは小学6年生のときの2013年リーグ戦ホームベガルタ仙台戦でした。
自分の家族は熱心なサポーターとはいえませんでしたが、その日は天気が悪かったからかたまたま屋根付きのゴール裏スタンドで観戦しました。
見よう見まねで飛び跳ねチャントを歌ううちにゴール裏の一体感だけでなくサポーターの温かさを感じました。
それ以来私はJリーグのサポーター文化の虜になり今やゴール裏民です。
世界には殺伐とした雰囲気のリーグが少なくないなか、老若男女問わず愛するクラブのため声をからすこれほど優しい雰囲気の国内トップリーグは希少だと思います。
ワールドカップが終わって新規ファンに安心して気軽にスタジアムに来てほしいし、これから日本サッカーが強くなってもこのサポーターの温かさは守っていきたいと思います。
2022/12/06 14:01
ぱぴこ
何年か前のW杯で今野選手(今ちゃん)を見てから絶対Jリーグでも活躍している今ちゃんを見に行く!と夢に見てきました。
大学生になり、群馬に来てからJ2リーグでジュビロ磐田vsザスパクサツ群馬の試合を見に行くことができました!
ジュビロ磐田のJ2優勝・J1昇格の瞬間を見れたこと、そして今ちゃんが関東リーグに行く前最初で最後のJリーグの今ちゃんを見れたこと、本当に忘れられない思い出です!
初めてのスタジアム観戦で不安もあったけど、周りのサポーターの熱気が凄くて、生でしかも近くで大好きな選手を見れることはスタジアムで観戦する醍醐味なのだと直接肌で感じることができました。
これからも他のチームとの試合や様々なスタジアムでの観戦をしていきたいと思います!
2022/12/06 10:44
Vamos
私が初めてスタジアムを訪れたのは、2014j1の鳴門で行われた徳島vs広島でした。
ルールも知らない、ヴォルティスという名前しか知らない子供時代に、父に連れられ観戦しました。
0ー1で敗れたものの、両チームの熱い応援に魅了され、その時からサポーターになりました。
今では家族は勿論、親戚、友人やその家族と共に観戦しています。
頻度は年に数回ですが、社会人に来年なるのでもっと行きたいです!
恐らく地元徳島で住むことになるので、一生ヴォルティスそしてjリーグを愛し続けるでしょう。
これからも感動を共有出来る事を願って…
2022/12/05 23:26
のん
サッカーに全く興味のなかったわたしがJリーグにどハマりした話。
私にとって川崎フロンターレは新たな世界の入り口だった。あの頃、まさか自分がこんなにJリーグにハマるとは微塵も思っていなかった。
フロンターレとの出会いは2010年。私が20歳の時だった。当時付き合っていた彼がサッカー好きで、等々力競技場に何度も連れて行かれていた。とはいえ、そもそも興味がなかったし、ルールも分からないし、スタジアムでの観戦は暑かったり寒かったりで「行きたくないな‥」と思うことも正直多々あった。試合開始の何時間も前からスタジアム入りすることについては「だるい」としか思えず、チャントも「もっとかっこいいやつにすればいいのに」なんて言っていた。
それから数年経ったある日、彼に連れられて麻生グラウンドに練習を見に行った。中村憲剛選手や大久保嘉人選手からサインを貰ったり一緒に写真を撮ってもらったりした。有名選手とこんなに普通に会えて触れ合えるのか!と驚いたと同時にとても印象的な出来事になった。また、練習を見ながら「あの人は動きが面白いね」「あの人は顔がかっこいいね」と話したことが顔と名前を覚えるきっかけになった。
選手を身近に感じ、顔と名前を覚えたことによって試合を見るのが徐々に面白くなっていった。それからは、クラブのファン感謝祭にも行くようになり、リーグ初優勝の瞬間は現地で立ち会うことができた。今では試合前のスタジアムグルメや選手紹介、川崎市民の歌も試合の気分を盛り上げる楽しみのひとつだと思っているし、親しみやすいチャントがフロンターレらしさだということもちゃんと分かっている。
さらには、フロンターレだけにとどまらず移籍した選手を見るために他のチームの試合を見たり、jリーグの公式YouTubeを見たり、DAZNのジャッジリプレイを見たりもするようにもなった。だんだんとサッカーを見る目が肥えてきたのか「今のシュートはボールの置き所が悪かったね」「今のは手を体に沿わせてるからハンドじゃないね」「選手交代をしてフォーメーションを変えるのはどうだろうか」なんて言って、彼(現在は夫)から「よく分かってるじゃん」と感心されるまでになった。
もしあの時フロンターレに出会えていなかったら、何気ない日常にドキドキとわくわくをくれるJリーグという素晴らしいコンテンツの魅力を知らないままだったかもしれない。きっと私だけでなく、サポーターそれぞれにJリーグとの物語があるのだろう。新しい世界を教えてくれてありがとうフロンターレ、これからも末永く宜しく。
2022/12/05 21:56
ゆも
育児から少しずつ解放されて自分の時間がもてる余裕ができて、テレビで観ている代表の選手が所属するJリーグの試合が地元で観られると知り足を運んだジュビロ磐田、ガンバ大阪戦。
生で観戦する楽しさを知りそこから16年。
しんどい時でもスタジアムで観るJリーグの試合がまた頑張れるきっかけになる、なくてはならない時間になっています。
クラブチームの応援をつづけると勝敗があるし移籍もあるし。ただ楽しいばかりではないところも得るものがたくさんあると思います。
2022/12/06 10:31
うる
ずっと応援している徳島ヴォルティスの企画で、徳島の学生さんが中心となっておこなわれるスタジアム学園祭がありました。その中で高校生が立案してくれたスタジアムウェディングがあり、ちょうどその年に結婚した人が対象だった為応募。
無事当選し、2012年第40節徳島ヴォルティスvs東京ヴェルディの試合前のピッチ内で結婚式を挙げさせて頂きました。
企画してくれた学生の方々とヴォルタくんティスちゃんと入場。
公式球(結婚証明球)にサインしたり、誓いの言葉を読んだり、2人の初めての共同作業としてケーキカットではなく、妻がパスしたボールをゴールに蹴り込むなどをおこないました(GKはヴォルタくん)
また選手からもVTRでお祝いのコメントを頂き、その中で当時エースだった津田知宏選手からゴール決めて勝ちますと言って頂き、試合はその通り津田選手の決勝ゴールで勝つことができ、今でもそのゴールは鮮明に覚えております。
それから2人の娘が産まれ、今は家族4人でスタジアムに行き、徳島ヴォルティスの応援をしております。
2022/12/05 22:47
まこじーじぃ
記念すべき初チケットが手書き
チケット販売用の機械が故障したらしく、雨の中2時間近く待たされました。お客さんに文句を言われながら懸命に仕事をしているスタッフ達に感銘を受けながら観戦しました。
その当時一緒に行った娘たちも大きく育ち、その家族 孫達と我がファジアーノ岡山の応援に参加しております。
スタッフ ボランティアの皆様のご苦労に感謝して、次シーズンも観戦します。
2022/12/05 21:48
楓ママ
2002年日韓W杯。宮城スタジアムで行われた試合を大学の授業中に教員が見せてくれた。
『サッカーって面白いんだ。』
その場のノリと雰囲気で観ていた。
大学の近くにある練習場にサッカーをしている人たちがいた。
『社会人のチームかな?じろじろ観たら失礼か…』足早にその場を去った。
そこにいたのは、J1昇格初年度のベガルタ仙台の選手達だった。
岩本輝雄さん、小村徳男さん、現日本代表監督の森保一さん、錚々たるメンバーがいた。
後に彼らから言われたのが『俺たちJ1の選手なのに見向きもせず、すたすたと歩き去られた…』
そんななか、親戚からベガルタ仙台のホーム戦を観に行かないかと誘われた。
『ユアスタ劇場』
ベガルタゴールドに彩られたスタジアムと響きわたるサポーターの声。
体験したことの無い空間に圧倒された。
何度かスタジアムに足を運ぶうちに、サポーター仲間から『大旗を代わりに振って欲しい』と頼まれた。
ベガルタ仙台には旗族族長が振る『族長旗』と青と赤の鷲が描かれた『兄弟旗』がある。
その一つを預かり、旗を振り始めた。
そして私は『関口訓充』選手に出会う。
高卒ルーキーながら、ドリブル突破で果敢に攻め上がる彼の姿に心を奪われた。
初めて、自分で旗を作ったのが関口選手の個人旗だった。
彼のチャントに合わせて旗を振るのは誇らしかった。
彼はベガルタ仙台初の生え抜きで日本代表になった。
浦和レッズ、セレッソ大阪で活躍した彼が再び仙台に戻ってきた時はとても嬉しかった。
その間に、私は結婚・出産をし、今では 3世代サポーター。娘も旗を振って応援をしている。
ベガルタ仙台の応援も20年。人生の半分はベガルタ仙台の応援をしてきた。
ベガルタ仙台の応援は私の生きがいです。
2022/12/06 0:09
こと
稲本潤一選手がフロンターレに移籍が決まり等々力で入団会見をした後に、出待ちしていた僕の元へ来て写真を撮ってくれました。フロンターレに来て最初のファンサだったそうで今でも覚えています。
2022/12/05 22:44
ポンコツ
あれはまだ小学生の頃。
Jリーグ開幕と共に、生まれ育った茨城県に鹿島アントラーズというクラブがあることを知り、そこからフットボールを知った。まだあの頃はジーコの何がスゴイかさえ知らず、それは幼き日常のほんのわずかな景色に過ぎなかった。
時を経て、高校生になった時期。
今度は地元に水戸ホーリーホックというクラブがあることを知り、Jリーグの沼にのめり込んだ。
どこか遠くの出来事だったJリーグという舞台は、一気に身近で親近感の湧く存在になり、傍観者だったはずの自分は、いつの間にか当事者になっていた。青春の大半を応援に注ぎ込み、それから十数年の間、様々な形で運命を共にすることとなった。
さらに時は流れ、結婚し子どもも生まれ齢も重ね、若かりし頃の応援の熱は、日常の喧騒にかき消されるうちに落ち着き、下火になりつつあった。
そんなある日、今度はいわきFCというクラブに出会った。
Jリーグへの参入と共に産声を上げたマスコット『ハーマー&ドリー』の存在がきっかけとなって、心を震わせるフィロソフィーとそこから育まれる魂の息吹くフットボールスタイル、そしてそこに生きる人々と出会ったことで、我が家の日常はあっという間に『浜を照らす光』で染まった。
家族そろって、毎週のようにいわき市・浜通りへと通う。そこではクラブの魅力のみならず、今年知り合ったたくさんの"サポーターともだち"との触れ合いが、色とりどりの楽しい『イマ』を我が家に届けてくれる。
心の奥底で燻っていた応援の熱は、30代も終わりに差し掛かった時期になって、また違った形で湧いて出てくるようになった。
来る日も来る日も、時間は止まることなく流れ、明日は今日へ、今日は昨日へと過ぎていく。
そんな過ぎ行く日々の積み重ねを人生と呼ぶのであれば、もしJリーグが無かったとしたら、私の人生の輝きはもっとか細いものだったかもしれない。
だけどこの国に、この時代に、Jリーグは生まれ、私の人生の歴史には、いつでもそばにJリーグがあった。
あの熱狂が、興奮が、たくさんの輝きと共に私の人生を照らしてくれた。
私にとってのJリーグ。
それは『人生そのものである』と感じているし、
これからも、Jリーグと共に人生を歩んでいきたい。
2022/12/05 21:46
キケタボ
熊本地震の後に初めて熊本のホームスタジアム(当時はうまスタ)にロアッソの選手が帰って来て、試合を見れることが、涙が出るほど嬉しかったのを今でも鮮明に覚えています。
日常を奪われ、不自由が当たり前になっていましたが、選手の頑張りをみてとても勇気をもらいました。
また、他チームのサポーターも沢山頑張れ熊本の横断幕を掲げてくれて、とても嬉しかったです。
Jリーグがなければ、ロアッソ熊本がなければ沢山の頑張れを受けとる機会が無かったと思います。
地元にJリーグのチームがあって本当に感謝しています。
2022/12/05 21:36
カブカブ
中学の頃ドーハの悲劇を観て以来家が近いクラスの友人を誘って球を蹴り始めました。
その友人は開幕当初からアントラーズを、私はゴン中山さんを推している流れでそのままジュビロファンに。
それからしばらく高校卒業してからも蹴り続けていたのですが、お互い仕事が忙しくなり少々疎遠に。球を蹴るのも半年に1度位に...。
そんな中2004年ある時突然連絡が...
その友人が亡くなったとの事。
...今でもその友人は私の中で生き続けております。
スタジアムへ行く際も一緒に行き観戦している気持ちでいます。
その後私は縁あってフロンターレサポになったのですが、2017年の優勝は友人が引き寄せてくれたものだと確信しております。鬼木監督も鹿島出身ですし。
今晩のクロアチア戦も共に観たいと思います。
これからもJリーグの発展を願っております。
2022/12/05 20:27
Suga0521
高校生の頃、初めて兄に連れられサッカー観戦した埼玉スタジアム2002の浦和レッズのゴール裏の雰囲気に試合開始から試合終了まで鳥肌が立ちっぱなしでした。
生で味わうサポーターの声援やボールの音や芝生の匂い、全てがエンターテイメントでした。
中でもやはり浦和レッズサポーターの地鳴りのような応援に一瞬で心を奪われました。
あの日以来すっかり浦和レッズのサポーターになり、結婚し奥さんと毎試合浦和レッズを応援する為に埼スタ(埼玉スタジアム2002)へ行くことが週末の楽しみになりました。
浦和レッズは私の生き甲斐です。
2022/12/05 20:06
ゆうゆう
Jリーグは、私たち家族を繋いでいます。
たった一人で生活する祖父のいる山梨県へ、私が生まれて20数年ほど家族で帰省していました。幼少時に過ごした夏休みとお正月、大きな花火や鐘つき等のたくさんの思い出が詰まっています。
数年前に祖父が他界してしまってからは、それぞれ生活している場所から、Jリーグの試合観戦で家族が集います。関東地方は勿論、山梨県で家族全員で集まっています。
祖父を交えた暖かい想い出を忘れることのない、大切な繋がりが私にとってのJリーグです。
2022/12/05 21:33
Tuibird_8
サッカーにまったく興味のなかったわたしですが、2010年、たまたまテレビをつけたら流れていたのがワールドカップの日本代表の試合でした。
試合後、キャプテンの長谷部選手が言った「日本にいる皆さん、ぜひJリーグに足を運んで盛り上げてください」という言葉を聞き、「Jリーグってあまり盛り上がっていないのかな」と気になりました。せっかくだから1度は生で試合を見てみようと思い、家からいちばん近いスタジアムを調べたら、等々力でした。
いろいろと調べてチケットを購入し、初めて等々力に行ったのが2010年、川崎フロンターレ対大宮アルディージャでした。
7番ゲートの階段を上り、目の前に飛び込んできたのが、まるで波打つ海のような光景でした。見渡す限りの青い色、歌声、その迫力に感激しました。
その日は、川島永嗣選手と鄭大世選手が海外に行く前の壮行会が試合後に行われました。涙をぼろぼろこぼしながら川崎への愛を語るテセ選手を見て、川崎フロンターレは、愛されているんだなと感じました。そして、またここに来てみようかなと思いました。
あれから12年たちました。今でもあのとき長谷部選手の言葉に出会えたことに感謝しています。今では母と友達と等々力に応援に行っています。高齢の母にとっては元気の源だそうです。
東日本大震災後に、サッカーで知り合った「ちょんまげ隊」と何度も東北に足を運んだことも良い経験です。この活動で、様々なクラブのサポーターの方々とも知り合いました。サッカーは、人と人とをつなぐ力だと思います。
2022/12/05 20:18
あっきゃん
初めて浦和レッズの試合で、韓国遠征に行きました。
2009年9月全州戦でした。
バスを貸切って、スタジアムまで行きました!
2022/12/05 19:47
もっさん
我が家とらJリーグ(水戸ホーリーホック)は切っても切れません。
息子(当時4歳)が小児がんになった時水戸ホーリーホックが慰問してくれたのをきっかけに好きになり、そこから聖火リレーにも応援来てくれて。
息子がサッカー関係で酷いことを言われた時も救い出してくれたのは、サポーター、選手、スタッフさんでした。
こんなに地域に密着していてサポーターとの距離が近いクラブはありません!
水戸ホーリーホックが大好きです!!
2022/12/05 20:31
ミキティ
初めてサッカー観戦したのは、職場の方からチケットを譲ってもらい、子どもたちがぜひ行きたいというので、仕方なくついていきました。
その日は、寒かったけど、応援している浦和レッズが勝ち、ゴール裏の応援が素晴らしく、また行きたいと思いました。
ゴール裏での観戦は、すぐに願い、そのあと何回も応援しているうちに、年間チケットを購入。子どもたちより、私の方が、熱心に試合観戦することになりました。
年間チケットも今年で15年。スタジアムにいけば、仲間がたくさんいて、アウェイの試合にも、仲間たちと一緒に応援に駆けつけるようになりました。
これからも、自分が生きている限り、サッカーの応援を楽しみに、選手たちを我が子のように思いながら、楽しみたいと思います
2022/12/05 20:07
海空
川淵三郎さんがJリーグのチェアマンを交代して2年くらい経ったときに「川淵さんの講演会がある」という知らせが(当時の勤務先の)人事からありました。
「えー?平日の昼間でしょ!?行ける人いるの?」と思いつつ自分の勤務シフトを確認したところ「夜勤明け!…行けるじゃん!」ということで早速人事に連絡し参加申し込みをしました。
会場は記憶違いでなければ、たしか九段会館?といっても講堂のようなところではなく学校の教室のようなところでした。
せっかくなので川淵さんの真ん前の席で拝聴させていただきました。
川淵さんの話の内容はJリーグが始まる以前の、サッカーのプロ化を目指した経緯から➔プロ化における参加チームの候補選び➔プロ化に参加するために最後の最後まで頑張ったとあるチームの話まで多岐にわたりとても興味深いものでした。
(※⇧Wikipediaに載っている内容とは少し異なります)
プロ化に参加するために最後の最後まで頑張ったとあるチームに向けた(プロ化に参加する以上は)「頼むから最下位にだけはならないでくれ!」という願いは本当に実感がこもっていたと思います。
とても貴重な話を聞かせていただくことが出来ました。
2022/12/05 17:32
まなみん
2017年6月3日(土)、J3リーグFC東京U23対ガンバ大阪U23の試合を見に行ったときのことでした。
味の素フィールド西が丘での14時キックオフ試合。
日差しがガンガンに照り付ける中、試合が始まるのをメインスタンド側で座って待っていたら、年配のスタッフさんが笑顔で声をかけてくださいました。
「今日は暑いですね~こっちの方に席をずらしたらあともう少しで日陰になりますよ」と。
勧めてくださった通り席を移動するとびっくり。しばらく経つと本当に日陰になり、試合中暑さから逃れて快適に過ごせました。
私が敵チームガンバ大阪のサポーター側だったのにも関わらず、声をかけてくださったスタッフさん。ありがとうございました。
試合は我らがガンバ大阪U23は負けてしまいましたが、スタッフさんのホスピタリティに触れたこともあり今でも記憶に残る思い出となりました。
2022/12/05 17:26
burnworks
浦和レッズのサポートを長年しています。
もともとシーズンチケットホルダーで、ほぼ毎試合スタジアム観戦していた私ですが、サッカー観戦にはあまり興味のない妻と結婚後、ちょうど仕事が忙しくなってしまったことなども重なってスタジアムから足が遠のき、テレビで観戦する程度に。
そんな状況が2年弱ほど続き、私の中でスタジアム行きたい熱が高まってきた頃、2007年に浦和がACL制覇、リーグ戦でも最終節を勝てば優勝という状況になったため、ここでリーグ優勝という最高に盛り上がる瞬間を妻にスタジアムで体感させることでサッカー観戦の楽しさに目覚めてもらいつつ、翌年から夫婦2人分のシーズチケットを購入してスタジアム通いに戻ろうと画策した私は、「中華街でおいしいごはんを食べよう」という餌をちらつかせながら最終節が行われた日産スタジアムでのサッカー観戦に誘い出します。
最終節の対戦相手は、最下位でJ2降格も決まっていた横浜FCだったこともあり、(大変失礼ながら)「まぁ勝つでしょ」と余裕で妻をスタジアム接待していたのですが、結果は負けて優勝を逃す結果に。日産スタジアムのオーロラビジョンに映し出される、他会場で大逆転優勝を喜ぶ鹿島アントラーズの面々をぼーっと眺めながら言葉を失った記憶が鮮明に蘇ります。
妻と2人での初のスタジアム観戦がこういう後味の悪い試合では来年は誘っても来てくれないかなと思ったのですが、妻は思いのほかスタジアム観戦が楽しかったらしく、翌シーズンから目論見どおり夫婦2人分のシーズンチケットを購入してスタジアム通いを共通の趣味に。
あれからもう15年近くが経ち、今でも夫婦でのスタジアム観戦は続いていますが、あの最終節の話をすると妻には「あそこでリーグ優勝を見られなかったせいで、私はいまだにリーグ優勝を見られてない」などと嫌みいわれる羽目に。良くも悪くも記憶に残る忘れられない試合です。
2022/12/05 16:40
ayateddy19
アジアカップ2011決勝戦でのゴールを見てから李忠成選手がとても好きで、2014年に浦和レッズに加入してからは、ホームが家から近かったこともあり是非見に行く!と初めてスタジアムでJリーグの試合を見にいける日を楽しみにしていました。
4月29日のマリノス戦に行ったのですが、なんと目の前で李選手のヘディングゴールが決まり、そのまま1-0で勝利!
ホームでレッズがマリノスに勝つのは数年ぶりだったらしく、本当に思い出に残る私のJリーグデビュー戦でした。
2022/12/05 14:50
@yuna_201513
私は今中1でサッカーをしています。男子の中に混ざってしているから男子に追いつけなくて『辞めたいな』と思うことが時々あります。でもその時は児玉駿斗選手のプレーを見て頑張っています!
児玉駿斗選手のプレーを見たのは今年の8月でした。その時からずっと『チームの足を引っ張ってるだけだから、辞めようかな…』と思っていました。久しぶりのOFFの時に4年振りぐらいにヴォルティスの試合を見に行きました。そしたら、試合中なのに楽しそうにプレーしている選手を見つけました。ゴールに繋がるラストパスや制度の高いコーナーキックに惹き付けられました。その瞬間児玉駿斗選手は私の憧れの選手になりました。
そこからずっと児玉駿斗選手が好きになりました。男子達にはまだまだ追いつけないけどサッカーを楽しめています!児玉ありがとうございます!大好きです!
そして児玉駿斗選手24歳のお誕生日おめでとうございます!
2022/12/05 17:21
浦和のまーくん
2007年11月14日 浦和レッズ vs セパハンFC(イラン)
埼玉県民の日にJリーグの各チームにとっても浦和レッズとしてもACL初優勝の日になったこと
今でも埼玉県民の日を迎えるとACL初優勝した日だなと思う埼玉県民がそれなりにいること。
2022/12/05 16:07
じゅんの
ヴァンフォーレ甲府が大好きな僕が初めてスタジアムで見たタイトル獲得。これが僕が心からヴァンフォーレ甲府を愛して良かったと思った瞬間です。
クラブの規模などJ1や一部のJ2クラブには劣るけど、サポーターと選手を始めとした全ての人が心温かく、熱いこのクラブが、初めて天皇杯を勝ち上がり決勝に進んだことはすごく嬉しくて、いつかエンブレムの上に星がつくことを夢見てその夢を胸にスタジアムで応援したら、見事勝利!!優勝し現実になり、優勝しました。本当にスタジアムで10回くらいは泣きました(笑)
この優勝に関わった全ての人に感謝してます!ヴァンフォーレ甲府にパワーをくれてありがとうございます!
2022/12/05 14:43
ミックタイガー
浦和レッズがJ2に落ちた時、福田正博、涙のVゴール、初優勝パレードで紙吹雪舞う浦和の街
2022/12/05 16:47
ユウキ
2015年から浦和レッズの応援を本格的に始めました。その年のファーストステージは無敗優勝をしてとても嬉しかったのを今でも覚えています。
ですが、1年通してみるとチャンピオンシップでガンバ大阪さんに負けてしまい、3位で終わってしまいました。
そこから、勝ち負けをこだわるのは勿論、シンプルにサッカーを見る楽しさについて知ることが出来ました!
その時一緒に見てくれた従兄弟には感謝しかないです!
2022/12/05 15:12
rip
Jリーグが開幕したのが、私が小学5年生の時でした。
田舎に住んでいたので、スタジアム観戦は厳しく、Jリーグに興味のあった同級生女の子5人でサッカーの交換日記を始めました。
5人それぞれ応援チーム、選手が違うので、自分の日記の番が来ると、みんなそれぞれ推しチーム、推し選手の自慢を書いていましたね。
私は東京ヴェルディで活躍されてた三浦和良選手が大好きでしたので、カズダンスを真似したり、緑が好きだったりと子どもながらにJリーグを楽しんでいました。
その縁か、大人になり、熊本で初めてプロサッカーを観に行った時に相手チームにいらっしゃったのが三浦和良選手でした。
テレビ越しでなく、目の前で拝見できたのは本当に嬉しかったです。
それをきっかけに、熊本にもJリーグチームがあると知り、応援したいという思いからロアッソファンとなりました。
Jリーグの存在がなければ、こうやってサッカーに興味を持って観戦に行くことはなかったのかな~と思います。
これからも地元チームの応援はもちろん、引き続きJリーグや日本代表など、広く興味を持って楽しんでいきたいですね。
2022/12/05 14:11
あーみー
ALFEEファンをきっかけに横浜フリューゲルスのファンに。
不本意な合併とチーム消滅。
応援していたクラブが消滅する以上の哀しみはないから、好きなクラブがどんな成績でも変わらず応援するし、存在するだけで幸せと思える。
2022/12/05 13:42
ぶっとび
7年前に50歳であの世へ旅立った父は、ニューウェーブ時代からのギラヴァンツ北九州サポーターでした。
小学生だった私は、当時のホームスタジアム・本城陸上競技場に連れて行かれ、出店で何か買ってもらい、風に吹かれながら父と一緒になって応援する。
気に食わないプレイに対してたまに怒りを見せる父を怖がりながらも、ゴールが決まれば一緒になって喜ぶ――。
私にとって観戦に行くのが特別楽しいというわけではなかったですが、サッカーに夢中になる父が私は好きでした。
父が亡くなってからもギラヴァンツのことはずっと気にかけています。
試合で負ければ、「お父さん怒ってるのかな」と思ってみたり。
私にとってギラヴァンツは、目を輝かせた父を思い出すための大切な存在です。
2022/12/05 13:08
最初に見た日本代表戦は森保監督のデビュー試合
最初に見た日本代表戦は森保監督のデビュー試合
Jリーグが開幕したその年(2年目?)、テレビの懸賞で幻のチケットをGET。水曜日開催だったため、小学校を早退し、新幹線で等々力競技場へ。
スタジアムで輝く緑のユニフォーム。ラモス選手が半端ないスピードのドリブルで持ち上がり、武田選手がゴール!!あの光景&興奮は今でも忘れません!!
2022/12/05 12:03
ひきまは。
本格的にJリーグを観出したのは、日韓W杯の開催が近付き、テレビでJ1昇格が決まり、楽しそうな地元でもないFC東京のサポーターを紹介するニュースを観てからでした。兵庫県在住なのに何度か国立や東京スタジアムへも行きました。
次第に地元のヴィッセル神戸を応援するようになり、今は噛み噛みなサッカー解説者の永島さんがVゴールを決めて引退したり、立派なスタジアムが出来たり、毎年降格しそうになったり、破綻して運営会社が変わったり、トルコ代表のイルハンが来たり、クラブのカラーが変わったり、J2に降格したり、入れ替え戦の末に昇格したり、本当に降格しそうだった2010年の最終節に埼玉スタジアムで奇跡の残留を味わったり、数え切れない思い出があります。
そして、もう一つ。Jリーグには思い出があります。それは、ガンバ大阪サポーターの女性と巡り会い結婚したことです。年に数度は阪神ダービー(神阪ダービー)で応援合戦を繰り広げています。2011年には男児も授かり、いつも都合のいいことを言うので、本心でどちらのクラブを好きになるか、今は見定めのときです(笑)
ともあれ、私の人生にはいつもJリーグがありました。30周年おめでとう。これからも続いていくよう応援しています。
2022/12/05 13:28
やちゅ
2022年11月13日のロアッソ熊本vs京都サンガの入れ替え戦が、人生初のゴール裏(声出し)応援、人生初のアウェー応援でした。
これまでのレギュラーシーズンは、友人に連れて行ってもらう形でホームの3、4戦に行く程度。でも2021シーズンのロアッソ熊本のJ3昇格を生でみた感動も加わり、2022シーズンは多くの試合を見に行きました。
ポストシーズン2試合もホームで応援し、感動をもらった私は、いてもたってもいられず、チケットを取って、夜行バスで京都へ。
人生初のアウェー遠征は、人生初のゴール裏声出し応援で、同じ試合でもこんなに見え方が違うのかと感動をもらいつつも、結果は1-1の引き分けで、昇格を逃すほろ苦い結果に。
ただ、ロアッソ熊本がJ2残留となったその日、にわかサポーターを自称していた私はロアッソ熊本サポーターになりました。
2023シーズンこそ昇格してくれることを信じて、これまで以上に熱く応援したいと思います。
2022/12/05 12:58
たか
初めてJリーグを見に行ったのは95年。高校一年生の時、地元浦和レッズの駒場スタジアムでの試合。スタンドに入った瞬間の芝生の青さが凄くて、こんなにもピッチって綺麗なんだと。その衝撃は今でも鮮明に覚えてます。勿論サポーターの地鳴りのような応援も印象に残ってます。
Jリーグが誕生してから浦和レッズ一筋。浦和レッズに出会わせてくれたJリーグに感謝です。
もう一つは息子が小学二年生の時にエスコートキッズに当選して埼スタで浦和レッズの選手と手を繋いで入場したこと。手を繋いだ選手がエース興梠選手だったので余計に嬉しく素晴らしい思い出として残ってます。
2022/12/05 11:59
狼おばちゃん
何度も優勝に王手をかけながら後一歩で逃してきたセレッソ。
天皇杯決勝を現地で見て負けた悔し涙と帰りの新幹線の無気力さ。
そして遂に2017年。
ルヴァン杯は現地には行けずテレビ観戦だったが、テレビの前で流せた嬉し涙。その年の天皇杯決勝、やっと現地で味わえた優勝。
主人との結婚生活は常にセレッソと共にあった。
2022/12/05 13:11
なぽこ
初デートは2016年のチャンピオンシップ決勝第2戦、浦和レッズvs鹿島アントラーズ。
応援していた浦和レッズが逆転負けをして優勝を逃し、彼の前で大号泣。なんだか気まずい雰囲気になってしまいました。
そんな私たちも、今では彼氏彼女から夫婦になり、毎試合、スタジアムやDAZNで観戦して一緒に一喜一憂しています。
2022/12/05 12:22
かずにゃ
1996年の当時は2シーズン制でしたね。
初観戦した「浦和レッズ対読売ヴェルディ‐川崎」戦、はじめての観戦で読売ヴェルディ‐川崎がセカンドステージ連覇、シャーレを上げるのを見た試合でした。
その試合観戦で財布を家に帰ってきてから落とした気付いて、数日後、近所の図書館から私宛に「国立競技場から電話きて財布預かってます連絡ありましたが?どういう事」言われ、連絡して警備室にとりに来てくださいって言われ、その年のチャンピオンシップのチケットとって警備室にとりに行ったのいい思い出です。財布の中身は当時は小学生だった私ですから全部ありました。(笑)
私とJリーグ エピソード実話です
2022/12/05 11:58
坂上田村麻呂
人生初のJ1昇格プレーオフ、クラブ史上初のJ1昇格プレーオフ。
レギュレーションで勝ち進んだプレーオフとレギュレーションで負けてしまった入れ替え戦
2022/12/05 11:49
あおば
私がフロンターレと出会ったのは、0歳のとき。
物心つく前から、等々力陸上競技場・麻生グラウンドに父に連れて行ってもらっていました。
ですが、小学生になると忙しくなりフロンターレに関わることはほぼなくなっていました。
そんな私がまたフロンターレに関わるようになったのは、2017年、私が12歳、ちょうど小学校を卒業する時期でした。
「フロンターレ優勝したよ!!」父の声からその喜びが伝わってきました。
「ふーん」それとは対照的にそっけなく答える私。
そのころの私は学校に行く意義を見つけられず毎朝、泣いて自分と格闘していました。
なんとか卒業し、中学校に上がった私は女子サッカー部に入りました。
元々、球技が大好きで学校の授業内でやるサッカーも大好きだった私は、部活の体験に行ったその日に入部を決めました。
でもそこに待っていたのは、理想と現実のギャップでした。
部活を一所懸命にやりたい私と、なるべくサボりたい部活の仲間。
心の距離はどんどん離れていきました。
パス練習では、いつも1人余ってしまう。その時間がただただ怖かったです。
そんな思いを抱きながらも1学期を乗り越え、夏休みになりました。
明日は、久しぶりの部活。行きたくない、行くのが怖い、行けない。
その日から私は、部活も学校も行けなくなりました。
毎日、無気力でただ時間が過ぎていくのを待っているだけ。
そんな時、父からお誘いを受けました。
「フロンターレ見に行かない?」
等々力陸上競技場に着くと、ユニフォームを着たサポーターがスタグルを食べたり、イベントに参加したりと各々が試合開始に向けて気分をあげていました。
選手たちがウォーミングアップをしに等々力に入ってきました。
その瞬間の押し寄せる波のような歓声は、今でも脳裏に焼き付いています。
それだけでなく、選手たちの闘志・諦めない精神に心を打たれました。
最後の最後、終了のホイッスルが鳴るまで全速力でピッチ内を走り回る選手たちを見て、私もここままではいけないと思えました。
それからというもの、私はホームの試合にはほぼ皆勤賞。
スマホフォルダはフロンターレの写真だらけ。グッズに散財。
どっぷりフロンターレの沼にハマりました。
ずっと行けてなかった学校も転校し、心機一転新しい生活を始めました。
それからというもの辛いことはたくさんありましたが、等々力や麻生グラウンドに行き、選手たちから勇気をもらいました。
もしあのときフロンターレの試合を見に行ってなかったら、フロンターレ・Jリーグに出会ってなかったらと思うと恐ろしいです。
将来、私が選手たちの姿に励まされたように私が頑張る姿を見て勇気を与えられる大人になりたいと思います。
もちろん、Jリーグもたくさん見に行きますよ!!
長くなってしまいましたが、私の人生を救ってくれてありがとう。
川崎フロンターレ・Jリーグ
これからもよろしくお願いします。
2022/12/03 9:15
たまっち
コロナでJリーグが中断になった年の4月。仕事で予定外の部署移動があり、慣れない仕事や人間関係に疲れていました。サッカー観戦もないから楽しみが何も無い。心が折れそうになっていました。
そんな時、応援するチームの推し選手がインスタライブを配信してくれ始めました。楽しい話で笑わしてくれたり、選手同士でいじりあったり(笑)
試合がなくてもサポーターのために自分の時間を使って…。
一番つらい時に支えてもらった2ヵ月。私にとっては大切な宝物になった2ヵ月です。
試合再開後は選手やチームに何か恩返しがしたくて、ボランティアスタッフを始めてみました。
これからも少しでも恩返しできるように、ボランティアスタッフを続けていこうと思います。
2022/11/24 9:11
てぃーだ
私が初めてサッカースタジアムに足を運んだのは、小学生2年生ぐらいのときでした。
父に連れられ日産スタジアムに行ったのですが、「サッカー」というもの自体よく分からなかった私は、正直「サッカーを見に行く」ということより「お出かけできて嬉しい」「行ったことないところに行くのが楽しみ」ぐらいにしか思ってなかったと思います。
正直、試合の内容についてはよく分からなかったのですが、そこで感じたサポーターの大声援、空気感、熱意、すべてに圧倒されました。また今までにない興奮を感じ、そこからスタジアムに通うようになったのを覚えてます。
(奥選手のチャントが特にかっこよくて今でも動画サイト等で見ると興奮します。)
大人になった今は、サッカー中心の生活となり、今でも始めての経験や興奮、学びをさせてもらってます。
Jリーグを作ってくれてありがとうございます。
2022/12/05 11:22
安あがり
2002年、日本全国が日韓ワールドカップで盛り上がりました。
大分ビックアイのセネガル対スウェーデンの試合を観戦し、サッカー観戦の面白さに引き込まれました。
翌2003年、前半シリーズの優勝シーン、そして後半シリーズの雨中の劇的な久保選手の決勝ゴール。そうです、横浜Fマリノスの完全優勝を見届けてしまったのです。次のシーズンも後期は落とすも、前期までの三ステージ連続優勝を成し遂げ、岡田監督のすごさが感じられました。
私は、横浜生まれの横浜育ち、現在も横浜に関わる仕事に携わらせていただき、とにかく「横浜」が大好きです。
2022年、クラブ創設30周年の記念の年、5度目のJリーグチャンピョンに輝け、喜田主将はじめ素晴らしい偉業を達成してくれたと感激しています。
31年目も、クラブ一丸となって連覇を目指して欲しいです。また、ACLの成績もパッとしていないので、是非アジアの頂点を勝ち取って欲しいと応援します。
マリノスびいきになってしまいましたが、今後もサッカー中継、サッカーニュースを沢山期待しています。
2022/11/29 22:33
KAZZ
ガイナーレ鳥取と湘南ベルマーレ。どちらも応援するチーム同士の初めての公式戦。Jの先輩たるベルマーレがガイナーレを叩きのめすのかと思ってみると、これが大変な結末に。当時ガイナーレのゴール裏にいて、複雑な気分にはなったものの、やはり推しチーム筆頭であるガイナーレが勝利したことは、とても嬉しく気分も良かった。2013年以降、この両チームは同じカテゴリにいたことがないが、また対戦する機会があったら、と思うと、何故か妙にわくわくする自分がいる。
2022/11/23 22:04
えぬ
私が初めてベガルタ仙台のスタジアムに訪れたのは、小学校1年生の頃です。
子供会で無料のチケットを頂いたため初めて家族でサッカーを観戦しました。
あれから約12年、大学生になった今も家族みんなで合わない予定を合わせて観戦する試合は、私たち家族のすれ違いを忘れるほど楽しめる素敵な場所です。
そして、今までユニフォームを買ってもらって居た私ですが初めて母の日に、母にアルバイト代でユニフォームを買ってあげました!
先日、母が大好きな遠藤康選手にサインを頂いた際に「また来年も娘さんに買ってもらったユニフォームを着てここに来てください!」そう言われたと嬉しそうに報告してきたこと今でも忘れません。
私たち家族が1つになれる素敵な場所です。いつか私が結婚したら、母と父と弟の家族と私と家族でサッカーを見るのが今の夢です。
2022/12/05 11:16
kitue
2013年に初めてサッカーの試合を見ました
日産スタジアムも大きいくてびっくりしました
横浜Fマリノス対湘南ベルマーレ戦神奈川ダービでした。
中村俊輔選手マルキーニョス選手、斎藤学選手の
ゴールが未だに、残っています。2013年は中村俊輔選手
以外にも、栗原 勇蔵選手 中澤佑二選手もいて
強いチームでした。
2022/11/27 15:50
いっしゅ
先日おなくなりになられた工藤選手。ご出身の足立区は我が家の直ぐ側というのもあってユースの頃から一押しの選手でした。彼のレイソル入はもう当然に予想されており、その翌年、偶然にもレイソルファンクラブさんから、初ゴール福岡戦前に頂いた彼の初得点の文字とサイン入の絵馬は一生の宝物です。
2022/11/23 21:35
ファジアーノサポートスタッフ
子供の頃はW杯予選で負けてばかりで悔しい思いをしましたが、30年前に待望のプロリーグが誕生して希望に満ちた未来が開けました。
今では複数のJクラブや百年構想クラブで運営ボランティアとして、また、Jリーグのシャレン活動にも楽しく参加しています。
2022/11/23 19:44
k5
■ 私の人生を変えたJリーグ
沖縄にまだJクラブがない時代。
当時高校生だった私はどうしてもJリーグの試合が見たくて、バイトして貯めたお金で東京へ行き初めて試合を見に行きました。
サポーターの熱狂、スタジアムの臨場感、生で見るプロの技術。すべてが輝いて見えたその世界は、1人の青年の人生を変えることなど容易く、そこから私はサッカーに関わる仕事に就きたいと強く願いました。
それから、私はJリーグの公式サイトやJリーグクラブの公式サイトを運営する会社に就職し、この感動を多くの人に伝える仕事をしてきました。
現在は故郷に戻り、娘と一緒に沖縄初のJクラブであるFC琉球の試合を毎回楽しみにしてます。娘は将来プロサッカー選手になりたいと言っており、娘にも既に大きな影響を与えてます。
Jリーグ、ありがとう。
これからも、よろしく。
2022/11/23 11:32
まめひな
アウェイの試合を観に、待機列へ並んでいたとき、しばらく連絡を取っていなかった親友から連絡が。「左みて!」と言われて振り向くと、偶然にもユニフォームを着た親友が立っていました。
お互い同じチームを応援してことは伝えていなかったし、まさかアウェイで会えるとは思わなく、とても驚きました。今でも忘れられない記憶です。
また、再会した年に初優勝。そこから毎年優勝を経験し、一緒に喜びを分かち合えることが出来、サッカーを通じてより親密になれたことに嬉しさを感じています。
2022/11/23 7:34
うーたん
6歳になる息子は、Jリーグとともに成長しています。
両親が川崎フロンターレファンのため、
お腹のなかにいる頃から
ホーム・アウェイ応援で各地に一緒に遠征しました。
スタジアムデビューは0歳4か月。
お腹のなかででチャントを聞いていたからか
一切泣くことなくニコニコの初観戦でした。
音楽に興味をもちはじめる1歳頃は
チャントを聞くと手拍子をし、
言葉を覚えた2歳前後では、
けんごー!ゆうー!など選手の名前を
叫びながら応援していました。
3歳になると、選手の背番号と名前を覚え
フロンターレの選手ほぼ全員暗記しました。
保育園の行き帰り、背番号クイズをしながら
手を繋いで歩く時間がなんとも幸せな気分でした。
4歳でサッカーを習い始め
ゴールを決めると選手のゴールパフォーマンスを真似、
楽しませてくれました。
保育園から帰るとユニフォームに着替え
ボールを蹴る習慣は今もほぼ毎日続いています。
おかげでジュニアサイズの上下セットユニフォームは
色も褪せパツパツになりながらも着用しています。
5歳になるとJリーグ全体に興味を持ち始め
日本地図を睨みながら、●●チームはここ!と
地理の勉強にもなりました。
配信で全チームのハイライトをチェックし
結果を教えてくれます。
この頃にはJ1に限らずJ2,3にも興味をもち
毎週水土日が楽しみでしょうがない日々でした。
6歳になり、今度は順位表とにらめっこしながら
勝ち点の計算ができるようになりました。
降格や昇格にも興味をもち、
シーズン終盤は目が離せないようでした。
またJリーグのアプリにある試合勝敗予想が楽しみで
毎週真剣に考えながら予想しています。
たったの6年ですが、
好きなサッカー、Jリーグとともに成長しており
目を細め成長を見守る毎日です。
そして小さな赤ちゃんだった子が
いつのまにかJリーグについてともに語れる
同志になっており感慨深いです。
これから迎える反抗期、思春期・・・
Jリーグ、サッカーを一緒に楽しみ
いつまでも同志でいられることを祈るばかりです。
2022/11/23 18:30
はっちゃん
横浜Fマリノスサポーターです。
日産からマリノスに改称した1992年に私は産まれました。実家は三ツ沢競技場の近所です。
物心ついた頃から、家の周りを赤白青のユニフォームを着て歩いている人たちを見たり、太鼓や歓声を聴いて育った私は「気付いた時にはもうトリコロールが好き」でした。
アルバイト代を稼げるようになってからは、友達や彼氏、後の主人、母とニッパツや日産スタジアムに観戦に行くようになりました。
そして2021年の秋には娘が産まれ、2022シーズンからはスタジアムに連れて行けるようになりました。初めのうちは抱っこ紐の中で寝ているだけでしたが、成長するにつれ、ユニフォームを着て拍手ができるようになりました。
そして、最終的では優勝のシャーレを共に見ることができました。その景色は娘の一才のプレゼントになった、最高の2022シーズンとなります。
私の人生はマリノスと共にあります。これからも、ずっと。
2022/11/23 10:07
りー
浦和レッズの埼スタの熱い応援
2022/11/23 5:50
青赤魚
自分は2016年からFC東京の年間チケットを買っています。(正しく言えば、買ってもらってます)最初は外出する機会が欲しいと思ってチケットを買ってもらってましたが、いつのまにか外出するためではなくて、試合に勝利する瞬間を見るためにチームを応援するために試合を見に行くようになりました。
2022/11/23 13:55
Mr.EFC
最初にJリーグを見に行ったのは、私が小学校3年生の時でした。
スタジアムでプレーする選手、共に戦うサポーターを見て完全にサッカーの虜になりました。
それからというもの、毎週末ユニフォームを着てスタジアムに足を運び、遠征という名目でアウェー観戦に行ったりして私の人生に特別な生きがいをもらえました。
これからも死ぬまでJリーグと共に生きていきます!
2022/11/23 8:32
イナバの白うなぎ
地元を離れて東京で働き始めたとき、職場と家の中間に味の素スタジアムがありました。
それまでほとんどサッカーを観てませんでしたが、近くにあるということでFC東京の試合を観に行きました。試合を生で観戦する迫力や熱狂に取りつかれて、東京での生活の楽しみとなり、毎週観に行ってました。
今はまた地元に戻っていますが、今でもFC東京を応援しています。
2022/11/23 5:05
みーみ
お付き合いしている彼が小1から今でも社会人リーグでサッカーしていて、甲府クラブの頃からのヴァンフォーレ甲府のサポーターなんです。
大好きな人の好きなこと共有したくてヴァンフォーレの試合を観に連れて行ってもらいました。
2018シーズンほとんどのホーム戦を一緒に観戦するようになってから、今では私の方が熱いサポになってしまいました笑
推し選手を作り背番号背負って選手を応援したり、今では何より大好きなマスコットを追いかけることにとても幸せを感じています。
そんな私をいつも暖かく見守ってくれる彼が何よりも私の推しですが、これからもヴァンフォーレ甲府を一緒に応援していきたいと思っています!
2022/11/23 2:37
なお
1993年にJリーグが始まり、当時は野球人間だった自分にはライバルスポーツとして受け入れることが出来ない部分がありました。
野球では長年かけてやっと出てきた1億円プレーヤーが、Jリーグでは簡単に何人も出てくるような感覚が正直納得いかなかった。
それから30年。
息子がサッカーを始めて、それに伴い保護者としてサッカーを覚えなきゃと学び始めたらとことんサッカーを追及し始めていました。
今では野球を観るよりサッカー観戦の方が楽しくてたまりません笑
初めてプロサッカーを観戦したの地元のJ2でしたが、それからは幾度となくJ1~3関係なく観戦してます。
今では家族みんなでサッカーファン。
まさか自分があのライバルスポーツをこんなに好きになるなんて驚きです。
また来年も楽しませて欲しいですね!
2022/11/23 0:15
大宮ゴール裏の住人
Jリーグの試合に行くようになったきっかけは、母が職場の方からチケットを貰って帰ってきたことでした。当時、小学4年生だった僕はテレビで見た名古屋 vs G大阪の試合で東口選手が大活躍しているのを見て、G大阪が好きになりました。
ある日、母が大宮 vs G大阪の試合のチケットを職場の方から貰って来て、一緒に初観戦しに行きました。大宮サポーターの席ですが、心の中ではG大阪を応援していました。ですが、大宮サポーターが作り出す圧倒的ホームな雰囲気に飲まれ、なぜか試合が進むにつれて大宮を応援していました。
それから時々母とNACK5スタジアムに通うことが増え、大宮アルディージャが大好きになりました。2023シーズンで大宮サポ8年目になります。
2022/11/22 23:13
なつなつ
5歳離れた弟と生まれて初めてサッカー観戦という趣味があい、今年の2月のJリーグ開幕戦から沢山の試合を一緒に応援しに行きました!!
初めて観に行ったのはFC東京戦でした。ドキドキで等々力陸上競技場まで行きました。2月はまだ声出し応援ができない時期だったのに、フロンターレサポーターの拍手がとても温かくてサポーターの皆さんと応援することもとても楽しく思いました!!
Jリーグ、川崎フロンターレ、サッカーに沢山感謝の2022年でした!!
来年も沢山の試合を観戦し、楽しい1年にしたいです!
2022/11/23 1:56
おえはやいず
主人とお付き合いを始めて間もないころ、彼が当時住んでいた川崎市内でデートができるところ、イベントを色々調べて訪れたのが川崎フロンターレのホームゲームでした。
主人も私もサッカーは興味が無くルールも曖昧、どちらかと言うと試合前のキッチンカーを覗きに行くことがメインの目的で試合はおまけのような感覚でした。
初めて等々力競技場スタジアムに足を踏み入れ、どこで観戦するのがベストなのか全く知識が無いまま「なるべく出入口近くがいいよね」「試合が見やすいところがいいよね」と空いてるスペースを見つけたのがまさかのゴール裏付近。
ゆっくり座ってゲーム観戦とは程遠く、終始飛び跳ね声を出し続ける爆心地エリアと気づいたのは試合開始の笛が鳴ってからでした。
そこからは無我夢中で周りのサポーターの動きに合わせていたらあっという間の90分、喉が枯れ、疲労はピーク、ただ、それ以上に今まで感じたことのないストレスの発散感!!
大人になってから、こんなに一生懸命大きな声を出したことがあったかな?全身筋肉痛になるほど飛び跳ねたことがあったのかな?と主人と2人楽しい思い出となり、そこからホームゲームのスケジュールを確認し、予定が合えば足を運び、声を出し飛び跳ね、ストレス発散をするという夫婦共通の趣味ができました。
選手のチャントを歌うにつれて、選手の名前と顔が一致し、試合を見るにつれてサッカーのルールも少しずつ理解して、サッカーの面白さも知っていきました。
思えば、初めて試合観戦をしたあの日、歌詞カードの配布があり、スムーズに応援に参加できたこと、ユニフォームもタオルなどのグッズも身につけていない私たちをジロジロ見ることなく受け入れてくれたこと、川崎フロンターレのサポーターのみなさんが歓迎してくれた雰囲気があったからこそ、だと思います。
あれから10年、現在は栃木県に住んでいますが、しっかり川崎フロンターレサポーターです。
コロナ禍で声出し応援ができない日々は、応援から入った私達にはとても寂しい思いですが、また来シーズン、声出し応援が全面解禁、等々力競技場で飛び跳ねて応援できることを楽しみにしています。
2022/11/22 23:49
としやん
2003年に初めて家族で川崎フロンターレの試合を観に行き、その試合をきっかけにJリーグを大好きになりました。
当時は中村憲剛さんがルーキーの年でもあり、試合終盤に出場していたことを覚えています。
その直後、親の仕事の都合による転居もあり、しばらく川崎フロンターレのホームゲームに行くことはできませんでしたが、2019年の11月、16年ぶりに観戦に行くことができました。
その試合でたまたま神戸から観戦に来ていた方と仲良くなり、遠距離恋愛を経てその1年後に結婚することができました。
正にこの街にJリーグがあったからこその縁だと思います。
今現在は奥さんの地元の神戸へ移住し、地元クラブのヴィッセル神戸を応援する生活の中、新たな命も授かりました。
将来は子どもと一緒にJリーグ観戦をすることが夢であり、ヴィッセル神戸のホームスタジアムの近くに家を購入し、夢が叶う日を待ち望んでいます。
今後もJリーグがある生活を楽しんでいきたいと思っています。
2022/11/22 22:54
kanon
私は川崎フロンターレのサポーターです。フロンターレの選手たちが大好きで、小さい頃からずっと、等々力陸上競技場に試合を観に行くのが週末の楽しみでした。
そんな私にとってサッカーは観るものでしたが、タイミングが重なり小学6年生の頃にサッカーを始めました。
高校2年生の冬、中村憲剛さんが引退を発表された年の年末に、等々力のピッチでプレーするチャンスをもらいました。その試合は川崎市内の選手を寄せ集めてのエキシビションマッチだったので、ユニフォームも当然貸し出しで、自分が何番をつけるのかも受け取るまで知りませんでした。
当日、14番のユニフォームを渡されました。フロンターレを知っている人にとっての14番は特別なものだと思います。勝手に嬉しくて、気持ちが入って、それと同時にすごく緊張したのを覚えています。そしてその試合で2ゴールを決めることができ、試合にも勝つことができました。
小さい頃から通っていたスタジアムで、大好きなチームの偉大な選手の背番号をつけてゴールを決めれたことが本当に嬉しかったです。フロンターレの選手たちみたいに上手にはなれなかったけれど、心から"サッカーを頑張ってきてよかった"と思いました。絶対に忘れられない思い出になりました。
今はもうサッカーは辞めてしまいましたが、その分今まで以上にたくさんのフロンターレの試合を現地に観に行けています。いつでも喜びや感動、思い出をくれるフロンターレが昔も今も大好きで憧れです。
2022/11/23 0:36
むに姫
★繋がれた絆
今海外に移籍してるある選手が中学生の頃から知り合いです。
その選手の高校最後の試合を埼スタに観に行ったことがきっかけでサッカー観戦にハマりました。
チームが主催するピッチ上での試合観戦できるイベントで再会を果たし、それ以来、連絡を取り合うのも再開。
2019年のルヴァン杯、決勝の日はわたしの誕生日。選手からは、誕生日プレゼントとして絶対に勝つからの一言。
しかし、コロナ禍だったために試合は延期。約2ヶ月後の試合になったもののきちんと優勝というプレゼントをしてくれました。
それから、何度も不思議なことが…
サッカー系の抽選(サイン入りユニ)は、その選手のが出展されると当たる…
友人からも不思議だねーと言われてるぐらいです。
2022/11/22 23:45
ケンヤ
j3からツエーゲン金沢をサポーターとしてそして四年前から現在チームゼロというチームボランティアをしています。
サポーターしてボランティアとして
違う視点からもツエーゲン金沢を見 てきてアウェーサポーターとも交流ができ、
わが町jリーグチームあるからこそ週末 ツエーゲン金沢を支えにボランティアに行く楽しみが生まれます。
2022/11/22 22:36