大怪我を乗り越えて、いま釘崎康臣が輝こうとしている。今年で加入5年目を迎える27歳。すでに中堅と呼ばれる年代に入った選手だ。
練習生を経て契約を結んだのは2005年。左右どちらからでも強烈なシュートを打てるFWで、加入当時は、ただがむしゃらに走りまわっては、思い切り両足を振り抜いていた。「本能のストライカー」。イヤーブックの選手紹介で、そんなタイトルを付けたことを思い出す。
アクシデントに見舞われたのは2007年9月7日。トレーニング中の出来事だった。診断の結果は右膝前十字靱帯断裂で全治6か月の重症。大学3年の夏に負った全治4か月の右膝靭帯損傷につぎ、自身2度目の大怪我だった。この時、既に25歳。それまで11試合で286分出場という実績しか持たない彼にとって、サッカー選手としての将来を左右しかねない怪我だった。
しかし、2008年2月26日、雁の巣球技場にボールを蹴る釘崎の姿があった。そして、ここからサイドバックとして新たな道を歩みだす。
もとはと言えば、同じ個所を再び傷めないようにとのチームの配慮から、相手のプレッシャーが薄いということで用意された当面のポジション。しかし、そのままサイドバックが本職になった。
「監督がそのポジションをやってくれと言うのであれば、それが自分の仕事だと思うし、そこでベストを尽くすべきだと自分は思っています。ですから、ポジションが変わったことは何とも思ってないです」
2009年の島原一次キャンプ。新しいポジションと格闘する釘崎の姿があった。反対サイドにボールが行くと、片手をあげて大声でボールを呼び、とにかく全力で前のスペースに向かって駆け上がる。その動作を何度も繰り返し続けた。
「まずはあれをしないとダメかなと思って(笑)。精度は全然良くないですけれど、精一杯追いこんで、体を作って、長所を伸ばすことをしっかりとやりたいです。課題は精度と駆け引きのタイミングですね。それを体に覚えさせることが出来れば勝負できるかなと思ってます」
そして、2009年5月5日、第13節のアウェイでの仙台戦で途中出場ながら1年10か月ぶりにJリーグのピッチに立つ。そして6月3日の横浜FC戦、遂に2007年6月27日以来の先発出場を果たした。この時、チームは10戦勝ちなしのどん底状態。非常に難しい状況の中でのプレーだった。しかし、釘崎には、プレッシャーも、焦りも、気負いもない。「監督、チームスタッフ、チームのみんなが自分を助けてくれているし、ファン・サポーターの方たちも、ずっと応援してくれています。勝つことが、その人たちの恩返し」。そして10分、その思いを形に表した。
左サイドからのCKの場面。釘先の右足から蹴りだされたボールが、きれいな弾道を描いてファーサイドへ。チームにとって貴重な先制点となった大久保哲哉のゴールをアシストした。17分には誰もが目をつぶった横浜FCのシュートをゴールライン上ではじき返し、41分には、ゴールまで30メートルはあろうかと思われる地点から強烈なFKを放って相手を慌てさせた。結果は1−0で福岡の勝利。釘崎は攻撃的な特長を余すことなく発揮して勝利に貢献してみせた。
もちろん、いいことばかりではない。翌20節の草津戦では、相手が放ったシュートをブロックしきれずに決勝ゴールを許した。頭でクリアしようか、胸トラップでカットしようか迷ったプレーに悔いが残った。試合当日と翌日は眠ることができず、何十回も失点シーンを見直した。
「たったひとつのプレーの大切さを感じました。あの時の感触がまだ残ってます。ああいうことがあるから、すべてのプレーにおいて準備しておかなければいけないということ。ひとつのプレーの重み、甘さは通用しないことが分かった試合でした」
その後も、釘崎は先発出場を続けている。「前へ出るパワーを持っている選手。自分の特長を出してくれている」と篠田善之監督も彼のプレーを評価する。
「上がって、そこで必ず仕事をして帰る。それを監督も、見ている人も期待してくれていると思います。ゴールやアシストを増やしていかないと、レギュラー定着につながらない。自分の持ち味である攻撃的な部分をもっと出していきたいです。それに、初めて出た横浜FC戦の気持ちを忘れずに、これからもやっていきたいですね。怖いものはないっていうくらいに(笑)」
遅れてやってきたニューカマー・釘崎康臣。彼が輝くのはこれからだ。
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2009.06.19 Reported by 中倉一志