コラム
2015/10/27(火)17:00
ファイナルを楽しむ5つのポイント(2)指揮官比較:対照的なサッカー人生
まるで正反対のふたり――。鹿島アントラーズの石井 正忠監督とガンバ大阪の長谷川 健太監督のことだ。
石井監督は1967年2月生まれ、長谷川監督は1965年9月生まれ。同世代のふたりはともに93年5月のJリーグ開幕戦で栄えあるスタメンを飾っているが、実に対照的な現役時代を送っている。
順天堂大学からNTT関東を経て住友金属(のちの鹿島)に加入した石井は、守備的MFを本職とする名バイプレーヤーだった。当時、鹿島のトップ下に君臨していたのは40歳のジーコ。攻撃では輝きを放ったが、守備での貢献はやはり多くは望めない。そんなジーコの負担を軽減させていたのが石井だった。本田 泰人、サントスと3ボランチを形成し、バランスを取りながら、スペースを埋めるために中盤を奔走した。
当時は固定背番号制ではなく、スタメンが1〜11番を着けて出場した時代。それでも選手が何番を背負うかは、概ね決まっていた。鹿島ならジーコが10、黒崎 久志が9、長谷川 祥之が11、サントスが8というように。だが、石井は空いた背番号を着けることが多かった。黒崎と長谷川、どちらか欠場した方の代わりに9や11を着け、ジーコが不在の際には10を背負ったこともある。スペースだけでなく、空いた背番号も埋める男――それが石井だった。
一方、清水東高、筑波大、日産自動車と、常に名門でプレーしてきた長谷川は、清水エスパルスの不動の9番でもあった。豪快なドリブルとキャノンシュートが魅力の右ウイングで、「えぐる」という表現がぴったりの突破からゴールとアシストを量産。日本代表としても活躍し、ドーハの悲劇で有名な“あのイラク戦”で三浦 知良の先制ゴールを導く、バー直撃のミドルを放ったのが長谷川だった。3トップから2トップが時代の主流となると、長谷川もストライカーの色を濃くしていった。
そんなふたりは、指導者としての道のりも対照的だ。98年にアビスパ福岡でスパイクを脱いだ石井は古巣の鹿島に戻ってユースコーチやフィジカルコーチ、トップチームコーチを歴任。コーチ生活16年目に突入した今年7月、トニーニョ セレーゾ監督の後任としてトップチームの指揮官に任命された。
一方、99年に清水で現役を終えた長谷川はコーチを経験することなく、浜松大の監督、古巣・清水の監督を経て、12年からはそれまで縁もゆかりもなかった大阪に赴き、G大阪の指揮を執っている。
ここで初めて共通点を見出すとしたら、どちらも不振を極めていた名門を立て直してみせたことだろう。今シーズン、1stステージで8位だった鹿島は石井監督の就任を境に勝負強さを取り戻し、2ndステージで優勝争いを繰り広げると、ヤマザキナビスコカップでもファイナルにたどり着いた。
一方の長谷川監督も、J2に降格したG大阪を1年でJ1に復帰させると、昨シーズンはJ1、ヤマザキナビスコカップ、天皇杯の三冠を達成。今年も2年連続でこの大会の決勝に進出し、リーグ戦の年間順位でも3位に着けている。
対照的なサッカー人生を送ってきた両指揮官が、ファイナルの舞台で果たしてどんな采配を見せるのか――。駆け引きはすでに始まっているに違いない。
[文:飯尾 篤史]