Jリーグ開幕時のガンバ大阪のキャプテンで、エースストライカーとして活躍した永島昭浩さん。G大阪の黎明期を支え、その後、清水エスパルスを経て、当時JFL(日本フットボールリーグ)に所属した地元のヴィッセル神戸に移籍。ゴールを量産し、Jリーグ昇格の立役者になった。
日本人初のハットトリック達成者として歴史に名を刻む名ストライカーは、25年の歴史を刻んだJリーグをどのように見ているのか。 開幕時の思い出を振り返っていただくとともに、今後のJリーグに向けてのメッセージをいただいた。
- Jリーグが開幕した25年前は、どういった心境にありましたか?
- 「Jリーグができる前は、松下電器(現パナソニック)という会社に所属して、午前中に仕事をしてから、午後からサッカーをするという生活でした。それが、Jリーグができたことで、すべてをサッカーに注げる環境になったわけです。世間からの注目度も高まるなか、今振り返ってみると若気のいたりというか、いろいろと未熟だった部分も多かったですね」
- 未熟だった部分とは?
- 「いち社会人という認識が足りなかったかもしれません。別に給料が高くなったからといって偉くなったわけではない。プロだからといってサッカーだけをすればいいわけではなく、まずは社会人としてどういう振る舞いをするべきか。そのあたりの考え方が足りていなかったのかなと思いますね」
- 環境が大きく変化するなかで、勘違いしてしまう部分もあったと?
- 「勘違いしましたね。僕もそうだし、みんなもそうだった。それまではほとんど知られていなかったのに、梅田とか心斎橋に行くと、どういうわけかキャーと騒がれて(笑)。スター気取りじゃないけど、調子に乗っていた部分もありましたよ。ただ、そのなかでも自分のプレーの質を上げると同時に、Jリーグを何とか成功させたいという想いで、ピッチ外のところでも、忙しすぎて振り返れないくらいほど、いろんな活動をしました。やり切った感というか、サッカーのためにすべてを注いだという充実感もあったと思います」
- Jリーグの開幕戦は浦和レッズ戦でしたが、試合のことは覚えていますか?
- 「入場するところは鮮明に覚えています。たくさんの旗が揺れて、チアホーン鳴り響くなかでピッチに向かう瞬間は、心が揺さぶられましたし、自然と身体が震えていました。日本代表として初めてピッチで君が代を聞いた時もそうでしたが、あんな感覚を味わったのは人生でその2回だけですね。どういうプレーをしたかは覚えていないんですが(笑)、Jリーグの成功のために良いスタートを切りたいという想いを強く持っていましたよ」
- 当時のG大阪はなかなか勝てず、苦しい時期を過ごしていましたが、そのなかでどういう想いでプレーしていましたか?
- 「当時は試合のスケジュールが詰まっていましたし、まだ降格がないなかで、負けたことを2日と引きずることなく、すぐに次の試合に向けて切り替えて、前向きなメンタルでやっていましたよ。もちろん反省はしますが、悔やむことはしなかった。弱いという事実を受け入れて、弱いなりに戦わないといけない。まあ当然、勝てないことで叩かれることもありましたよ。ある飲食店に行ったら、『弱いチームのキャプテンや』って、言われることもありましたから(笑)」
- 一方で、永島さんは日本人初のハットトリック達成者として、その名をJリーグの歴史に残していますね。
- 「あの時は、ガンバの主催試合として神戸で初めて試合が行われたんです。僕の生まれ育った街ですし、4万人くらいの観衆が集まってくれた。チームとしての状態が良くないなかで、なんとか自分のゴールで勝ちたいという想いを強く持っていました。そんななかで周りがいいチャンスを作ってくれて、最高の結果を出すことができました」
- あの瞬間は、どういった気持ちでしたか?
- 「それまでの経験から、ハットトリックをする時は、2点目を取った後の心構えが大事だということを理解していました。3点目を取りたいという意識が強すぎると、ハットトリックはできないんです。むしろ味方にチャンスをお膳立てしてあげようと視野を広げてプレーすることで、逆に自分にチャンスが巡ってくる。そういう経験があったので、3点目を取りたい気持ちを抑えながらプレーしていました。その結果、3点目を取れたわけですが、ハットトリック以上に、自身の経験を証明できたことのほうが嬉しかったですね」
- 開幕の翌年には清水エスパルスに移籍し、1995年のシーズン途中に地元のクラブであるヴィッセル神戸に移ります。Jリーグで活躍していた選手が、JFLのチームに移籍したことは、大きな話題となりました。
- 「やはり阪神大震災の影響が大きかったですね。もともと神戸がJリーグを目指していることは知っていましたが、あれだけの被害を受け、スポンサーが撤退するなかでも、ヴィッセルは変わらずJリーグを目指すということでした。そのなかでオファーをもらって、すぐにでも行きたいとエスパルスに伝えたんです。あの震災で知り合いを亡くしましたし、実家も被害を受けました。そのなかでいろんな方に助けてもらっていることを考えると、サッカーをしていてもいいのかなという気持ちもありました。ただ、神戸のためにサッカーができる。こんなに幸せな仕事はないなと思ってプレーしていましたよ」
- 1996年にJFLで準優勝し、神戸は1997年からJリーグに参戦します。永島さんはその年、33歳でありながら、キャリアハイとなる22ゴールを記録しました。
- 「これに関しては、本当にミカエル・ラウドルップに感謝しないといけないですね。彼が練習中から僕に要求したことは、世界基準でどうやって点を取るかということ。どういう準備をして、どういうプレーをすれば点が取れるのか。具体的な言葉で教えてくれたわけではなく、練習での彼の要求に応えることで、自然と身に付けられることができました」
- そういう意味では、イニエスタが加入した今の神戸でも、同じような効果が期待できるのではないでしょうか。
- 「そうですね。現代サッカーにおいて個人で突破するのは不可能に近いですから。いかに準備しながら、効果的かつスピーディに判断とアイデアを共有できるか。そこが世界のトップでは大事なところですから、イニエスタが入ったことで、彼の判断のスピードと技術を生かすために、周りの選手たちも自然とレベルアップしていくのではないでしょうか」
- 25年経った今のJリーグをどう見ているか?
- 「はじめは10クラブだったのが、54クラブまでに増えたことが、なにより素晴らしいことだと思います。まだまだ成長できると思うし、地域密着という理念もますます深まっていくでしょう。そのなかで、地元から育った選手が、日本代表となり、世界チャンピオンになる。そんな夢が現実となる日も、近い将来に必ず来るのではないでしょうか」
- 今後の25年に向けて、Jリーグに期待することはありますか。
- 「セカンドキャリアを含め、選手のことを考えると課題はたくさんあると思います。やはり、私も現役時代に感じたように、サッカー選手である前に、社会人として何をしなければいけないかという基本をもう少し身に付けることが求められると思います。つまり社会にニーズがあって初めて存在できるということ。サッカーだけをしていればいいわけではない。そういう考えを現役の時から持つことで、セカンドキャリアにつながると思いますし、その意識こそが、プレーヤーとして世界のトップに近づくための土台になるはずです。そのためにもリーグやクラブが選手に対して、もっとその重要性を教えていく必要があると思っています」
- 最後に、もしJリーグがなかったら、永島さんのキャリア、あるいは日本のサッカー界はどのようなものになっていたと想像しますか?
- 「そうですね。今頃はパナソニックの社員として、電池でも作っていたかもしれませんね(笑)。それで、あと何年かで定年だなと考えていたと思いますよ(笑)。それは冗談として、もしJリーグがなければ、日本にここまでサッカー文化が根付くことはなかったでしょう。日本のサッカーのレベルを引き上げると同時に、サッカーがこれだけ身近に存在となったのは、間違いなくJリーグのおかげですし、それは本当に嬉しいことですね」