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25周年ということで、Jリーグについて語ります 25周年ということで、Jリーグについて語ります

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「勝つことよりも、喜んでもらおうという意識のほうが強かったJリーグ開幕期」わたしのJリーグ25年の物語(記念インタビュー)

1993年5月15日、満員の観衆で膨れ上がった国立競技場で開幕したJリーグ。そのオープニングゲームのピッチに立ったのが木村和司さんだ。横浜マリノス(現横浜F・マリノス)の10番を背負ってヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)との一戦に臨み、見事に勝利を収めている。

長く日本リーグ(JSL)時代を経験した木村さんにとって、日本に誕生したプロリーグとはどのようなものだったのか。また選手だけでなく、監督としてもJリーグに携わった立場から、25年の歩みを振り返っていただくとともに、今後のJリーグに対しての意見も伺った。

木村和司1
改めて、あの開幕戦を振り返っていただけますか?
「なにより、国立がいっぱいになったことに感動したよね。開幕戦がヴェルディだったのも想い出になるし、なおかつ、勝つことができたからね。やっぱり当時は、わしら(横浜マリノス)とヴェルディが日本のサッカー界を引っ張っているという自負があったからね。ああやって注目されるなかで勝つことができて、とにかく嬉しかったよ」
観衆が少なかった日本リーグ時代とは、やはり違いはありましたか?
「日本リーグ時代は、試合中に自分の子どもが国立競技場のスタンドを走り回っているのが見えたからね(笑)。それと比べたら、ちょっと信じられないくらいだったよ。日韓戦の時に満員を経験したけど、リーグ戦ではもちろん初めての経験だった。とにかく多くの人にサッカーを見てもらえるというのが一番嬉しかったよ」
Jリーグが始まったことで、何が一番変わりましたか?
「一番はモチベーションだね。プロになったからといって、すぐにレベルが変わることはなかったけど、人に見てもらえるという部分がなにより大きかった。もちろん、それなりのお金をもらえるようになったから、生活面も変化はあった。
だから、もっと早くできていればねって思うよ。そうすれば今頃、左団扇だったのにね(笑)。遅いよ、始まったのが35歳の時だからさ」
当時はどういった想いでプレーしていたのですか?
「あの頃は、水曜日と土曜日に試合があって、しかも延長まであった。PK戦もあったしね。引き分けもサッカーのうちという考え方がなかったんだよな。だから、スケジュール的にもかなりしんどくて、体調を崩す奴も多かったよ。ただ、最後まで決着をつける部分も含めて、お客さんに喜んでもらおうという意識は強かったね。
今の選手を見ているとそういう部分が足りないなって感じるよ。勝てばいいじゃん、っていう感じでね。むしろ、わしらの頃は勝つことよりも、喜んでもらおうという意識のほうが強かったと思うけどね」
魅せるという感覚ですか?
「そうそう。開幕戦もそうだけど、今見返すと、みんなそういう意識でやっていたなと感じるね。やっぱりそこは、プロになって一番大きく変わったこと。アマチュアの頃は、試合前日にお酒を飲んじゃうような選手もたくさんいたけど、プロは見られるわけだから、恥ずかしいプレーはできない。
そういう意識が一番変わったことだよね。ただ個人的には、プロだからこうしないといけないとか、そういう想いが強すぎて、調子を崩した時期もあったね。だから自分は自分らしくというかね。そういうように考えるようになってから、良くなっていった。そういうのも勉強になったよね」
プロとは、どういうものだと考えていましたか
「要はね、魅せて、喜んでもらって、それでお金をもらう。ラモス(瑠偉)なんかもそうだったけど、それがプロだと思うし、そういうことばかりを考えていたよね」
木村和司3
当時はジーコやリネカー、リトバルスキーなど、世界的な選手もJリーグでプレーしていました。彼らの存在はどのような影響を与えましたか?
「やっぱりジーコの存在は大きかったかな。正直、40歳の選手がサッカーできるとは思わなかったもん(笑)。でもね、実際に対戦したら、こんなにできるんだ、すごいなと驚いたね。わしらも、ジーコさんに引っ張られて、あそこまでできたというのはあると思うし、勇気づけられた部分もある。本当に大きな存在だったね」
木村さんは1994年に引退されているので、Jリーグでプレーしたのは2年間となりますが、そのなかで一番印象に残っていることはなんですか?
「やっぱり、開幕戦が一番だね。後はゴールかな(※1993年6月30日の浦和レッズ戦で記録。GKの頭上を越す華麗なループシュートだった)。Jリーグで唯一の得点だったし、三ツ沢だったから、あれはよく覚えているね。たしか、あの時は娘にそろそろ点を入れてくれって言われていてね。
それで当時流行っていたパフォーマンスもやってと言われてた(笑)。まあ大したパフォーマンスはしてないけど、点を取れたのは良かったよ。1点しか取ってないけど、それで良かったかな。一番の思い出になったわけだから」
木村和司4
引退後は、2010年から2シーズン、古巣の監督も経験しています。監督時代はどういった思い出がありますか?
「勉強になったね。辞めさせられたという想いが強いから、悔しさもある。まあ、それも含めて勉強になったと今は思っているよ。まあ、でもストレスは溜まるよ。そりゃあ、身体が悪くなる(笑)。選手のほうが、よっぽど楽だったよ」
監督時代も、観衆を楽しませるという哲学を持っていましたよね。
「そこが一番だよね。ただ下手くそだったから。お前ら、本当にプロかと思う時もあったよ(笑)。本当は魅せるサッカーをしたかったけど、無理かなという想いもあった。そこは、もどかしかったよね」
「ちゃぶる」という言葉も話題になりましたね。
「どこの言葉か知らないんだけどね。(地元の)広島じゃないよ。なんで『ちゃぶる』っ言ってたのか、自分でもよう分からん(笑)。まあ、相手をおちょくるとか、弄ぶというような意味で使ってたんだけど、そういうサッカーをやりたかったね。振り返ってみれば、監督時代はそんなに良い思い出はないし、家族にも悲しい想いをさせてしまったというのもある。もっと、喜ばせてやりたかったよ」
木村和司5
今のJリーグについてはどう見ていますか?
「この前のワールドカップでベスト16まで行けたのは、Jリーグができたのが大きいと思う。わしらの時も、プロのリーグができないと、世界には行けないという危機感があったからね。
25年経って、やっと世界で認められるような国になった。そこまでこれたのは、Jリーグの存在があるからだと思うよ。ずっとアマチュアだったら、今でもワールドカップなんて夢の世界だったと思うから」
レベルの向上も感じますか?
「メンタルとか、フィジカルの部分は開幕の時よりも上がっていると思うよ。特にメンタルは、大舞台でも物怖じしないというか、あれだけストイックにできるのは、プロらしくなってきたと感じる。
後は技術だね。そこがもう少し身に付けば。まだまだ世界と比べると、物足りなさを感じる部分だね。それこそ、日本が世界を『ちゃぶる』ようなサッカーをやってほしいよ(笑)」
木村和司6
もしJリーグがなかったら、木村さんの人生や、日本のサッカー界は今、どのようなものになっていたと想像しますか?
「まあ、さっきも言ったけど、ワールドカップには出れていなかっただろうね。個人的な部分で言うと、病気にはならんかったかな(笑)。
それは冗談として、Jリーグがあったから、ある程度は世間にサッカーを知ってもらえたというのはあるし、今でもサッカーに関わりながら生活をすることができている。そういう意味でもJリーグの存在は大きかったんじゃないかなと思うね」
木村和司7
最後に、今後のJリーグに期待したいことを聞かせてください。
「もっともっと、お客さんを喜ばすような選手が出てきてほしいね。昔、ガンバにエムボマが来た時は、わしも見に行きたいくらいだった(笑)。すごいなと思ったし。そういう選手がたくさん出てきてほしいね。
この前のワールドカップも、そういう選手がいないと優勝なんてできない。フランスにはいたからね。19歳であんなプレーできるなんてね。日本にも、あんな選手が出てきてほしいよ」

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