1995年にジュビロ磐田に加入したのは、1994年のワールドカップ優勝を果たしたブラジル代表のキャプテンだった。
世界の頂点に立ったボランチは、1997年に初のリーグ優勝をもたらすなど、4年間の在籍期間で磐田を強豪クラブへと変貌させた。
サックスブルーの基盤を築いたレジェンドは、その後、母国の代表監督を務めるなど、持って生まれたリーダーシップを発揮し、サッカー界に大きな影響を与えている。
闘将ドゥンガ――。Jリーグの歴史を彩った名手が当時の思い出を振り返り、日本サッカーのさらなる発展のために、メッセージを贈ってくれた。
- ドゥンガさんが最初に日本に行ったのは1995年。日本やジュビロ磐田でのサッカーの第一印象はどうでしたか?
- 「Jリーグの運営や基盤については、すでに何人ものブラジル人選手が実際にプレーして、その素晴らしさを語っていた。 日本人選手についても、聞いていた通り、スピードや技術力があった、でも、集中力に欠けるのが気になった。難しいプレーができた後に、簡単なプレーでミスをするんだ。それに、何らか決断を下すのに時間がかかった。いろいろな場面で、最後の最後に決断する。試合というのはスピーディーなものだから、それも気になった。 それと、当初からジュビロにはとても良い選手たちがいたのに、なかなか勝てずにいた。そして、彼らがそれでも良いと思っているように見えたんだ。だから、いろいろな形で話をしようとしたよ。僕の役割は、プロサッカーが始まって間がない日本で、選手としてピッチに立つだけじゃなく、自分の経験を伝える、ということでもあったからね。 ピッチに入れば、ベストを尽くさなければならない。特に、スタジアムに来てくれたサポーターのためにね。朝早く起きて、お金を使って、遠くから来てくれている人もいる。 そして、自分の仕事のためだ。絶対に勝ちたい。敗戦を受け入れてはいけない。対戦相手だけではなく、自分自身と戦うんだ。もし今日、自分がこういう人間であれば、明日はもっと良くならないといけない」
- そうやって共に戦い、97年には、セカンドステージで優勝しました。その結果を出すために、一番力を入れていたことは?
- 「日本人選手たちに、彼らがいかに良い選手であるかを理解させることだったと思うよ。多くの場合、彼ら自身が、それを信じていなかったからね。 最初にジュビロに行った時、日本代表は中山(雅史)だけだった。だから、彼らと話を始めたんだ。代表に行くためには、まず、ジュビロで良い仕事をしなければならない、とね。クラブで勝てば勝つほど、もっとテレビでも見られるようになるし、代表監督はもっと観察するようになる。 そのすぐ後には、服部(年宏)、名波(浩)、田中(誠)、ヒデ(鈴木秀人)、福西(崇史)、藤田(俊哉)……、チームの多くが日本代表選手になった。なぜか。ジュビロで良い仕事をしたからだ。 最初は、僕が言うことに納得できない選手もいて、議論もした。怒鳴ったりもした。でも、結果が出るようになれば、僕が言うように、自分たちの力を信じられるようになったんだ。そして、彼ら自身がもっと学びたいと思うようになった」
- 97年は、ドゥンガさん自身もJリーグアウォーズで最優秀選手賞を受賞しましたね。
- 「僕らの仕事が、良い形で実現されつつあるというサインだったから、幸せに思ったよ。最優秀選手賞に選ばれたのは僕だったけど、あの賞はジュビロ、つまり、あのチーム、あのクラブのものだ。僕はそれを代表して受け取ったんだ。 それに、ジュビロというのは、街中がひとつになって頑張っていたクラブなんだ。みんながジュビロと共に生きていた。僕ら選手たちも、子供の日やひな祭り、花火大会など、磐田の街で行われる、いろんなイベントに参加し始めた。ジュビロは単なるサッカーチームであるだけじゃなく、街の一部になったんだ」
- ジュビロでの心に刻まれる試合を教えてください。
- 「たくさんあるよ。例えば、理論上では簡単と言われた試合に、負けそうになった時のこと。97年の終盤、僕らが優勝目前だった時期だ。ホームで、その時点最下位だった京都サンガと戦って、先制点を奪われたんだ(※注:その後、ジュビロが2-1と逆転) なぜか。僕らは気が緩んだんだ。周囲にも言われているうちに、簡単に勝てると思ってしまった。簡単かどうかは、ピッチにいる僕ら次第なのにね。それをみんなで確認し合った試合だった。 それから、僕らが延長戦で浦和に勝った時のこと(※注:97年セカンドステージ第12節)。試合前、監督がこう話し始めたんだ。『浦和レッズは調子をあげてきている』『浦和レッズは攻撃が強い』『浦和レッズはサポーターが支えている』浦和レッズは、浦和レッズは……。その後、彼が『誰か何か話したいことはあるか?』と。 僕は『ある』と言って、チームメイトたちに聞いた。『今、Jリーグで1位にいるのは誰か』。ジュビロだ。『より多くの得点を挙げているチームは?』。ジュビロだ。『最少失点のチームは?』。ジュビロなんだ。だったら、僕らが勝たなきゃおかしい。僕らはトップに立っているんだから、最高であることを見せなければ。 多分、それも日本的な文化のひとつなんだと思う。試合を始める前に、負けた時の言い訳を探している。そうじゃない。僕らはピッチに入ってベストを尽くすだけだ。それでどっちが勝つかは、90分が終わった後で分かる」
- 当時のドゥンガさんは、ブラジル代表でもプレーしていたので、南米と日本を往復しながら、どうやってコンディションを維持していたんですか?
- 「あの頃、Jリーグにはすぐその前のW杯、94年大会に出場した選手が、30人くらいたんだ。だから、レベルの高いリーグだった。 それに、別の意味でも大きな挑戦だった。というのも、大半のブラジルメディアにとって、日本に行くというのは、サッカー選手として、経歴の終わりにさしかかっていることを意味していた。 だから、Jリーグは彼らが考えているようなものではないことを見せなければならない。良い選手たちがいる。良いスタッフがいる。良くオーガナイズされ、良い環境もある。Jリーグにいても、ブラジル代表でプレーできるコンディションを維持するのは、自分の実力以上に、日本サッカーの実力を証明する、ということだ。 もちろん、あらゆる面で調整に気を付けた。時差のせいで睡魔があっても、集中を切らすわけにはいかない。日本サッカーを代表しているんだから。幸せなことに、それができた。僕だけじゃなく、セーザル・サンパイオやいろいろな選手が、そうやって高いレベルを維持していたんだ」
- 強く印象に残る日本人選手はいますか?
- 「たくさんいるよ。例えば、ジュビロには技術力がすごく高い選手たちがいた。でも、1人名前を挙げるとすれば、中山だ。彼の確固たる姿勢は賞賛すべきものだ。彼は練習に最初に出てきて、最後までやっていた。5ゴール決めたとしても、同じ姿勢を維持していた。 あの当時、日本サッカーにはカズ(三浦知良)とゴン(中山雅史)という2人のビッグネームがいて、彼らは友達同士でもあり、健全なライバル関係も維持していた。そして、技術力、集中力、サッカーへの意欲、学ぶ意欲、そういうことを、若い選手たちに伝えていたんだ」
- サポーターとの忘れられない特別な思い出はありますか?
- 「日本のサポーターは、すべての面で素晴らしい。例えば、僕らが優勝した年、浦和レッズと対戦しても、セレッソ大阪と対戦しても、試合が終わった時、相手のサポーターは、自分たちのチームだけじゃなく、僕らにも拍手喝采してくれた。彼らは見てくれたんだ。あの年のジュビロが、それに値するプレーをしていたことをね。対戦相手であっても、敵ではない。それは、日本のすごく良いところだ」
- 今の日本サッカーやJリーグをどう見ていますか?
- 「僕がいた時代は、Jリーグはすごく強くて、日本代表には、まだあまり経験がなかった。今は逆になったよね。多くの選手たちがJリーグを巣立って、ヨーロッパなどでもプレーしている。それが、日本代表を成長させている。 ただ、今はJリーグも、また投資をし始めたよね。それに今後、外国でプレーする日本人選手が、ある年齢になって、Jリーグに帰ってくることができれば、Jリーグがさらに成長するのは間違いない。 今や、日本代表もクオリティが非常に高い。ただ、試合を見ていると、もっと集中すべきだと思うことがある。戦略が必要な時がある。 W杯で起こったことを見るといい。日本はベルギーに2-0で勝っていた。それなのに、日本はカウンターアタックで失点した。そうじゃない。失点することはあるかもしれないが、カウンターアタックで奪われてはいけない。 手持ちのカードを使い切ってでも、危険を冒してでも、必死に攻撃しないといけないのは、ベルギーだ。日本は落ち着いて構えるべきなんだ。それは、追加点を奪う意欲がないということじゃない。戦略なんだ。 ある時点までは、自分たちが扉を開けて攻撃に出ていくんだが、2-0になったら、あらゆる扉を閉める。相手がそのあちこちの扉を叩いて、叩いて、叩いて……としているうちに、どこかの時点でバランスを崩す。そこで、こちらがカウンターアタックで、3点目を決めるんだ。 監督の指示だけじゃない。時には選手自身がイニシアチブを取るべきことも必要だ。2-0で勝っていて、後半25分、30分になっていれば、ゴールエリアに5、6人も行ってはいけない。3人が出ていって、3、4人は後ろにいる。カウンターアタックでやられないために。 特に、代表チームと対戦する時は、その国の最高の選手たちが相手なんだから、ミスは許されないんだ。もしミスをすれば、その代償を払うことになる。 そういうことがあると、よく聞くのが『だって日本は経験が不足しているから』という答えだ。いや、そうじゃない。日本はすべてにおいてクオリティが高いんだ。ただ、ミスだってする。ブラジルだって、ベルギー戦でミスをしたように、誰でもミスをする。 サッカーの試合というのは、ミスと正確性で成り立っているんだ。だから、ミスをせず、できる限り正確にやろうとしなければならない、ということだ」
- Jリーグは今、25周年にあたって、ドゥンガさんのような、日本サッカーの成長に寄与してくれたJリーグOBたちと、常に連携を取り、アドバイスを求めていけるようなネットワークを築こうとしています。
- 「すごくいいアイデアだと思うよ。いろいろな国の素晴らしい選手たちが、日本でプレーし、Jリーグのことを分かっているからね。 日本には、忘れてはいけない重要な長所がある。それはヒエラルキー。自分より年長の人を尊重する、ということだ。若い選手たちが、自分より経験豊富な選手を尊重して、アドバイスを求めたり、話に来たりする。 技術的には、ベテランには若手のようなクオリティがなくなっているかもしれない。でも、若手が知りたがっているような状況を経験してきているから、手助けできるんだ。 ジュビロでは、僕やファネンブルグ、勝矢(寿延)、ゴンといった世代が、若く、かつ、学びたいという意欲のある世代を手助けできた。それが、チームの成長を手助けすることにもなった」
- ドゥンガさんは今、どういう仕事をしているのですか?
- 「僕はいろいろな社会プロジェクトを手がけている。小児癌、貧困、ダウン症など、困難を抱える人たちをサポートするために、それぞれプロジェクトがあるんだ。 日本で学んだことを活かしているんだよ。災害が起これば、コミュニティが集まって助け合う。隣人を尊重する。自然を尊重する。ゴミは、捨てるべきところに捨てる。車は、止めるべきところに止める。そういうふうに、日本の人たちは規律正しく生きている。 日本に“オジサン”と呼んでいた友達がいるんだ。僕やスキラッチと、あと数人、毎日同じところでコーヒーを飲んでいたんだけど、そこにいつも来ていてね。86か87歳だったんだけど、その彼が英語を習いに行ったんだ。僕と話すために。87歳のお年寄りがだよ。どれだけ謙虚か、分かるだろう。 そういうことを思い出しながら、お年寄りの暮らす施設に行って、一緒にダンスをすることもある。彼らがベッドから出て、楽しく体を動かせるように。 それから、家やアパートを建てる建設会社も持っている。でも、現時点では、僕は自分より、僕の子供たちの職業を大事に考えているんだ。ガブリエラはスタイリストで、ファッションのお店を持っている。ブルーノはフィジカルコーチとして、グレミオで仕事をしている。 それから、末っ子のマテウス。面白いのは、彼は僕が日本で暮らした後に生まれたんだけど、日本料理が大好きで、週に一度や二度、寿司や刺身を食べるんだよ。僕の今の最大の目標は、彼らが自分の夢を実現して、その職業を続けていくことだよ」
- 将来的に、もしJリーグのクラブから、ドゥンガさんを監督として招聘したい、という話が来たら、日本に戻る可能性はありますか?
- 「仕事であろうが、なかろうが、僕は日本にすごく戻りたいと思っているよ。僕も家族も、日本のことが大好きなんだ。僕らに注いでくれた愛情によってね。監督としては? 先のことは、誰にも分からないからね。いろいろなことは、起こるべくして起こるものだよ」
- 最後に、このJリーグOBのネットワーク作りに関して、Jリーグのチェアマンに一言。そして、日本のサポーターの皆さんにメッセージをお願いします。
- 「まずJリーグの“シャチョー(社長)”にね。あなたが実現してきた仕事に、そして、日本サッカーが築いてきた基盤に、おめでとうを言います。確かなのは、ここブラジルには、僕という、Jリーグと日本代表のサポーターがいるということ。Jリーグがますます発展するために、協力しあっていきましょう。 そして、 “サポーター”“ニホンジン”のみんな。日本で過ごしたすべての年月に、ありがとう。僕をいつも尊重してくれたこと、そして今なお、会えばすごく良く接してくれることに。 この先、日本サッカーがさらに素晴らしい結果を出し、もっと祝えることを願っている。みんなにはその価値がある。世界中のサポーターのお手本だから。そして、すぐにもまた会えることを、願っているよ」