取り返しがつかない仕事だからこそ味わった恐怖心。それでも僕が審判員を続ける理由。
サッカーは選手や監督だけでは成り立たない。様々な立場の人たちの働きがあって、ようやく成立するものだ。普段は陽の目の当たらない人たちにスポットを当てるこの企画。記念すべき第1回目に登場いただいたのが佐藤 隆治レフェリーだ。ミスの許されない世界で働く審判員の苦労と、審判員だからこそ知り得るJリーグの世界とは?
「憧れの舞台に立てるかもしれない」。そう考えた時、プロの審判員になるという目標が生まれた。
小学生の時にサッカーを始めて、大学まで続けていたんですが、卒業後の進路を考えた時、同期にJリーガーになった仲間がいるなかで、僕自身は大したプレーヤーではなかったので、選手として進んでいくことは早々に諦めました。
ただ、好きなサッカーに関わっていきたいという思いは消えず、地元に帰って教員となり、高校のサッカー部を指導しようと考えました。その時に審判員の資格も持っていたほうが指導に役立つと考え、審判員の資格を取得したんです。それが僕の審判員のキャリアのスタートとなりました。
Jリーグが開幕したのは高校1年生の時。いちサポーターとしてスタンドから応援する立場でしたが、華々しいあの舞台に立つことが、当時の僕の夢でした。残念ながら選手としてピッチに立つことはできなかったんですが、Jリーグに対する憧れを強く持っていました。
教員をやっているなかである日、僕の住んでいた愛知県で上川 徹さんの講演会を聞く機会がありました。ちょうど2002年の日韓ワールドカップが終わった直後で、ワールドカップでも笛を吹いた上川さんの話を聞けたのはとても貴重な機会でした。
上川さんは2002年にJFAのスペシャルレフェリー(現プロフェッショナルレフェリー)に第1号でなられた方。当時はサッカーの世界で飯を食えるのは、選手や監督くらいだと思っていたんですが、上川さんの話を聞くなかで、審判員でも飯が食えるんだということを初めて知りました。憧れていたあの舞台に立てるかもしれない。そう考えた時、プロの審判員になるという目標が生まれたんです。
当時、プロのレフェリーは岡田 正義さんと上川さんの2人だけ。教員としての魅力もある一方、超狭き門の存在を知り、リスクは覚悟の上で最後は「Jリーグのピッチに立ちたい!」という気持ちが教員を辞める背中を押しました。
ただ覚悟はしていたんですが、プロ審判員への道のりは想像以上に困難でしたね。当時は2級の資格を持っていたんですが、Jリーグの試合で笛を吹くには1級が必要。数字で言えばひとつ上がるだけですけど、そこにはとんでもなく高くて険しい壁がありました。
当時の審判員の育成システムは、各県や各地域で管理されていて、僕はまず愛知県でスタートし、次に東海地域を担当して、そこでいろんな試合を吹かせてもらって、最終的に1級にチャレンジする流れでした。ただ僕自身、審判員を目指したタイミングが遅く、目標を達成するためには、逆算して考えたら悠長なことを言っていられない年齢でした。
そんな時にタイミングよく、日本協会が「レフェリーカレッジ」を立ち上げたんです。短期集中で審判員を育成するプロジェクトで、僕は迷うことなく飛び込みました。月2回東京に出向いて研修を受けながら、2004年の12月に1級審判員に昇格しました。
監督や選手に助けられ、一緒に試合を作っていることを強く実感。
ただ、1級になったとしても、すぐにJリーグの試合で笛を吹けるわけではありません。まずJFLからスタートし、当時あったサテライトリーグで経験を積んで、その後にJ2、J1と一つひとつ階段を上がっていくことになります。2005年から1級の活動をスタートさせたんですが、初めてJ1の試合を吹けたのは、2007年の8月でした。2002年に上川さんと出会ってから5年。客観的に見れば短く感じるんでしょうが、僕にとっては本当に長く、濃密な5年間だったと思います。
Jリーグの舞台で初めて笛を吹いたのは、2007年3月のJ2開幕戦。それから半年くらいでJ1に上げてもらい、デビュー戦となったのは8月29日の大宮アルディージャvs柏レイソルでした。
緊張はあまりしませんでした。とにかく無我夢中でしたね。ありがたかったのは、周りがすごく配慮してくれたこと。審判団は4人がセットなんですが、この試合では「佐藤シフト」を敷いてくれたんです。両副審も第4の審判員も、経験豊富なベテランの先輩方が担当して私をサポートしてくれたことがすごく心強かったことを覚えています。
そうした配慮に加え、両チームの監督さんも支えてくれました。試合前に両監督が参加するマッチコーディネーションミーティングがあるんですけど、そこでマッチコミッショナーが「今日のレフェリーはデビュー戦だから」といきなり言っちゃたんです。僕としては正直、「それは言わないでくれ」と思いましたよ(笑)。言い方は悪いですけど、新人だと思えば、監督とすればプレッシャーをかけやすいじゃないですか。でもその後にマッチコミッショナーが、「選手も、監督も、審判も、みなさんデビュー戦がある。よろしく頼みますね」と言ってくださった。その時に両チームの監督さんが、すごく優しい顔をしてくれたんです。
通常、試合前はピリピリしますし、ましてや今日のレフェリーが新人となれば、不信感を抱くかもしれない。でも、その時にニコニコと笑ってくれたのは助かりましたね。試合中もベンチから不必要なプレッシャーをかけられたこともなかったですし、終わった後も握手をしてくれました。僕自身、その時のベストは尽くしましたが、僕の力だけではその試合を上手くコントロールできなかったと思います。審判も、監督も、選手のみなさんも協力してくれ、ひとつの試合を上手く運ぶようにしてくれたことが何よりうれしかった。当時の両チームの監督は、大宮が佐久間 悟さん、柏は石崎 信弘さんでした。
サッカーは勝ち負けのあるスポーツですが、僕らレフェリーにとっての勝ち負けは、そのゲームを無事に着地させることができるかどうか。そのなかで選手が良い試合をやろう、フェアにやろう、レフェリーのジャッジを尊重してやろうと、みんなが同じベクトルに向いている時は、本当に良い試合になる。当然、どの試合であってもレフェリーの責任は大きいですが、監督や選手に助けられて一緒に試合を作っていることを強く実感しています。
ミスをした試合は忘れることはできないし、たぶん死ぬまで覚えているだろうなと思います。
私にとって一番難しいのは、ある一定のレベルのパフォーマンスを継続して発揮しないといけないこと。夏場の連戦でも、雨の試合でも、開幕当初の試合でも、シーズン終盤の優勝・残留争いでも、コンディションや試合の重みにかかわらず、安定したパフォーマンスを発揮しなければならない。
僕は国際審判員でもあるので、海外で笛を吹くこともありますが、中東では気温が50度近い時もありますし、先日に行ったACLの試合は、夜11時15分のキックオフでした。そんな非日常の環境下であっても、安定したパフォーマンスを発揮しないといけない。多少の幅はあるにしても、大きな波があるパフォーマンスは許されないんです。
そのために意識しているのは、やっぱりコンディショニングです。日々のトレーニングや身体のケアもそうですし、食事や睡眠にも気を使っています。体調に不安があったり、ちょっとでも足が痛かったりすると、それが不安要素になって良い笛は吹けなくなりますから、コンディショニングは一番意識していることです。
メンタル面の負担もよく聞かれますね。残念ながら審判員って、褒められる仕事ではないですから(笑)。やっぱり、試合をやれば少なからず批判的な声も聞こえますし、ネットを見れば厳しい意見もあります。結果によっていろいろと言われるのは選手も同じだと思いますけど、選手と審判員とで根本的に違うのは、審判員はリカバリーが利かないということですね。
例えば選手の場合は、開始5分でPKを外しても、終了間際に決勝点を決めればヒーローになれる。でもレフェリーが開始5分にPKを見逃せば、どうすることもできないんです。ミスを帳消しにする判定などありません。それ相応の批判を受けるし、当然、へこむこともあります。それでも一つひとつ、目を逸らさずに前に向かってやっていくことで、メンタルは強化されていると思います。僕自身、だいぶ図太くなりましたから(笑)。
試合の記憶についてですが、大きなミスをした試合は全部覚えています。上手くいったなという試合もたまにはあるんですけど、それがどこの試合だったかは詳しく覚えていません。でも、ミスをした試合に関しては忘れることはできないし、たぶん死ぬまで覚えているだろうなと思います。
複数の退場者や退席者が出た試合もありましたし、明らかな誤審もありました。そんな試合は、ピッチ上の選手の温度、スタジアムの雰囲気、自分の心境を含めて鮮明に覚えています。取り返しがつかないのが僕らの仕事なんです。間違っていたからごめんなさいと言うのは簡単だし、開き直るつもりもありません。ただ、元に戻せないんですよね。今思えばVARがあればよかったなと思う試合もありました。ネットで叩かれることもなかったなと思います。
でも、こういう言い方をすると怒られるかもしれませんが、ミスをして、ボコボコにされて、自分自身も歯がゆい想いをするなかで、学んでいったものはたくさんあります。もちろん大事故を起こさずに改善できるレフェリーが優秀で、そういう意味で僕は優れた審判員ではありません。ただ少なくとも、やってしまったことに目を逸らしたりすることはないですし、誤審と言われた試合は、それこそテープが擦り切れるくらい見直します。なんでこうなったのか、あの時になにができたのか。そう考えながら何度も映像を見ましたし、今でも脳裏には、その時の光景が鮮明に焼き付いています。
ピッチに立つことが怖かったし、また同じことをしたらどうしようという恐怖心でいっぱいでした。
皆さんが僕のミスで最も覚えているのは、Jリーグ20周年のアニバーサリーマッチでしょう(編集部注※2013年5月11日に行われた浦和レッズvs鹿島アントラーズ。78分にオフサイドポジションにいた興梠 慎三のゴールを得点と判定。抗議した鹿島の選手2人に警告が出された)。実はあの試合の翌日から海外の派遣が入っていました。試合が終わってから映像を見て、間違った判定をしたことも分かっていましたし、協会の人とも話をして事態を重く受け止めていました。
翌日からインドネシアに行ったのですが、移動中の機内も、現地に着いてからの生活でも、常に誤審の件が頭から離れず本当に辛かったですね。
審判仲間はメールや電話で、励ましてくれました。インドネシアでの試合では、連敗は許されないという想いで臨みましたが、ただただ苦しかったですね。
日本に帰国してからの最初のJリーグは、それ以上に精神的に追い込まれていました。サポーターからの厳しい言葉だけでなく「また試合を壊すの?」って選手にも言われました。
当時はピッチに立つことが怖かったし、また同じことをしたらどうしようという恐怖心でいっぱいでした。でも、もしかしたら割当を受けることなくずっと考えているほうが、精神的に追い込まれていたかもしれない。JFAやJリーグの方も、「ピッチに立てばいい」と背中を押してくれた。それは、本当にありがたかったですね。
確かに厳しいことのほうが多いかもしれません。それでも審判員を続けてこられるのは、それ以上の喜びややりがいがあるから。そのひとつは、やっぱり自分はサッカーが好きで、日本のトップリーグに関われているということです。試合中には選手や監督と感情を出してバチバチする時ももちろんありますけど、試合が終わった後の、選手や監督の反応に救われることは多々あります。
「あの判定は厳しかったんじゃないの?」なんて冗談めかして言ってくる監督もいますし、「ごめんね、言いすぎちゃった」って言ってくれる監督もいます。「佐藤さん、またね!」って笑顔で別れる選手もいる。綺麗事では無いから露骨に不満を表す時もあるけれど、僕の仕事を労ってくれる方ももちろんいらっしゃいます。当然こちらは根に持ってはいないし、次はもっといい笛を吹こうという気持ちにさせてくれる。そういう反応は嬉しいですし、やりがいを感じる瞬間でもありますね。
やっぱり、選手や監督とどういう関係を作れるかが、この仕事では大事なことなんです。僕も長くやっているので、ピッチ上では選手と結構しゃべるんですよ。「久しぶりですね」みたいな感じで、話しかけてくれる選手もいる。先ほども言いましたように、一緒にゲームを作っていると感じることが多くなってきたので、場数が増えるたびに、レフェリーの楽しさをより感じられるようになっています。
>後編に続く
「上手い!」「速い!」と思わず唸ることも……。審判員しか味わえない特別な瞬間とは?