紆余曲折のキャリアを歩み、現在の立場を手にした選手にスポットを当てるインタビューシリーズがスタート。記念すべき第1回目に取り上げるのは湘南ベルマーレの三幸 秀稔だ。二度の大怪我に苦しみ、無所属の時代も味わった三幸にとっての「ターニングポイント」とは?
テレビで見たフェラーリへの憧れが、三幸 秀稔にとってのサッカーへの入り口だった。
「あの車に乗りたい!」
その想いを父に告げると、「じゃあ、スポーツ選手になってたくさんお金を稼がないとね」と返された。ちょうど通っていた幼稚園にサッカーのクラブがあったことから、始めてみることにした。やってみると、相手を簡単に抜けるし、点もたくさん取れる。
「みんなは何でボールに集まるんだろう?外で待っていたほうが誰もいないし、ボールは来るんだけどなあ」
他の子とは一線を画す考え方を持っていた三幸は、サッカーの面白さにすぐさま目覚め、小学校1年生の時にはすでにプロになるという明確な意思を持つようになっていた。
近隣の小学校にサッカーに力を入れているクラブがあったという環境にも恵まれたが、三幸にとって大きかったのは父の存在だった。実業団のハンドボールの選手だった父はサッカー経験がなかったため、常に“ハンドボール理論”でアドバイスを送る人だった。
「父としてはどうして、あそこにパスを出せないのかという感覚だったと思うんです。でも手で投げるのと、足で蹴るのとでは全然違うじゃないですか。ハンドボールのテクニックで、バックスピンをかけてボールを止めるというのがあるんですけど、それをサッカーにも当てはめてきて、『バックスピンをかけて蹴ってみな』とか、簡単に言ってくるんです(笑)。あとは立体を描きなさいと常に言われていて、相手の頭の上ならパスを出せるよねとか。だから、よくループパスを出していましたよ」
両足を使えたほうがいいというアドバイスももらった。だから三幸は3年生の時に、利き足である「右足禁止」のルールを自らに課した。
「チームの中で一番上手かったのに、左しか使えなくなったら一番下手になりました(笑)。それでも練習でも、試合でも左足しか使わなかったし、お箸も左で持つようにしていました。あとインサイドキックの姿勢をきれいにしたほうがいいと言われたので、通学の時も一歩ごとに、インサイドのフォームを取りながら歩いていましたね(笑)」
父から無理難題を押し付けられた三幸だったが、その特殊なアプローチが才能を伸ばしていくことになる。実家のある市川市の選抜に選ばれ、千葉県のトレセンに選ばれ、ついにはナショナルトレセンにも選ばれるほどになった。そして6年生の時に、ひとつの決断を下す。「単純にここに行けばプロになれるんじゃないか」という想いで、JFAアカデミー福島への入学を決めたのだ。
JFAアカデミー福島は2006年に開校され、三幸はその1期生にあたる。ここではサッカーのイロハを、一からたたき込まれたという。
「サッカーとは何かということを、すごく考えさせられましたね。今まではドリブルが上手かったり、点を取ることがすごいという考え方でしたけど、それだけではなく、サッカーの本質の部分を学びました。大人のサッカーに足を踏み入れたというか、いろんなことを考えながらプレーしていたと思います」
まさに、サッカー漬けの毎日だった。寮生活を送るなかで、休みの日もミニゲームをしたり、空いている時間にはサッカーの映像を見続けた。3年生になる頃には、プロになるために何が必要かを教えられ、自分の弱点や足りない部分が明確になってきたという。そんな環境のなかで中心選手を担い、チームがいかに勝てるかを考え続ける毎日だった。
高校に進学するとその意識はさらに高まり、3年生の時に初めてプロの練習に参加する機会を得た。
「初めて参加したチームは、実は湘南だったんです。練習試合に人が足りなくて、呼んでもらいました。はっきり覚えているのは、何もできなかったということ。出たのは20分くらいでしたけど、こんなにボールを触れないのかと。僕は動きながらボールに触るタイプだったので、それができなければ何もできない。その後に大分、群馬、川崎Fの練習にも参加させてもらったんですけど、なかなか内定をもらえず、力不足を痛感しましたね」
それでもいくつかのチームに参加するなかで、ひとつだけ内定をもらえそうなチームがあった。9月に第五中足骨を骨折するアクシデントに見舞われたが、そのチームの存在があったから、三幸は焦らず、ゆっくりと足を治そうと考えていた。ところが11月になって、そのチームから「やっぱり、獲ることができない」という連絡があった。
「骨折も治ってないし、一気に就職難民になりましたね。自分の頭の中に大学に行くという選択肢はなくて、高卒でプロになるという考えだったのでショックだったし、同期はみんな進路が決まっていたので、焦りもありました」
骨折が治ったのは、年が明けた1月だった。卒業を控えた3学期は学校に行かなくてもよかったが、三幸はひとり寮に残り、後輩たちと練習に励んだ。そんな折、アカデミーのスタッフが松本山雅FCとヴァンフォーレ甲府のキャンプに参加させてもらえる話をつけてくれ、なんとかプロへの道がつながった。
「怪我明けだったので、サッカーが楽しかったんですね。そういうメンタルでやれたことが上手くいったんでしょう。甲府に獲ってもらえたんです」
まさにぎりぎりのプロ入りだった。三幸の甲府入りが決まったのは、すでにシーズンが始まった後だった。
もっとも甲府では、プロの壁に苦しんだ。
「プロになれたんですけど、とりあえず入れちゃったという感じで、そこから先がつながりませんでしたね。ずっとメンバー外で、その状況を受け入れてしまっていたのかもしれません」
そんな三幸の状況を見かねたのが、佐々木 翔(現サンフレッチェ広島)だった。同期加入だが、大卒の佐々木は三幸の4つ年上にあたる。練習場まで車に乗せてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり、温泉に連れて行ってくれたりする良き兄貴分だった。
ところがある日、その佐々木から厳しい言葉を投げかけられる。
「お前、こんなんで満足しているの?このままじゃあ、サッカー選手終わるよ」
三幸は、はっと気づかされた。
「自分のほうが上手いのに、なんで試合に出してくれないんだよ」
プロに入ってから、そんな想いで日々を過ごしていたからだ。その甘さを指摘され、三幸は恥ずかしく思い、同時に悔しさも湧いていた。
「翔くんに言われて気づかされましたし、このままではやばいと。そこからこだわったのが、メンバーに入るためには、まずサブ組の中心になろうということ。練習試合でも結果を出すことを意識しましたし、こいつがサブ組を引っ張っていると思われれば、絶対にメンバーに入れるはずだって」
意識を高めた三幸は次第にメンバー入りの機会を増やし、6月には待望のプロデビューも果たした。ところが、その後に試練が訪れる。9月に前十字靭帯を損傷し、そこから半年以上、サッカーができなくなってしまったのだ。
甲府がJ1に昇格したプロ2年目も途中まではリハビリ生活を送り、復帰後にメンバー入りを果たしたものの、ピッチに立ったのは1試合のみ。そしてシーズン終了後に、契約満了を告げられた。
「正直、満了になるとは思ってなかったですね。メンバーには入っていたし、給料も高くなかったですから。ただその時、代理人を付けていたんですが、自分の意志ではない方向に物事が動いてしまっているなという感じはありました」
契約満了となった三幸は、JFAアカデミー福島時代のつてをたどって、いくつかのチームに練習参加し、当時J3だったSC相模原に加入する。そして1年間、レギュラーとしてプレーを続けたが、そのシーズン限りで相模原を離れる決断を下した。
その理由のひとつが、リオ・オリンピックだった。出場を目標にしていた三幸にとってJ3は本意ではなかったからだ。相模原から契約延長の話をもらいながらJ2以上でのプレーを求め、トライアウト出させてくれと直談判し、チームを離れることを決めた。
もっともトライアウトに参加するも、「J2以上」のクラブからオファーはなかった。しかし、ここでも三幸は周囲の人々に助けられることになる。そのひとりが甲府時代に師事した城福 浩監督(現広島監督)だった。また、JFAアカデミー福島時代のスタッフも尽力してくれ、とあるクラブへの加入が決まりかけていた。ただし、過去に前十字靭帯を損傷しているため、一度練習参加してほしいという条件付きだった。
「たしか2月だったんですけど、練習参加に向けてフットサルのチームに参加させてもらって、準備をしていたんです。そしたら練習参加の3日前くらいに反対の前十字靭帯をやってしまって……。それで、このタイミングで入ることができなくなりました」
それでも夏のウインドーでの加入を目指し、必死のリハビリを続け、通常半年以上かかる怪我を4か月でプレーできる状態にまで持って行った。ところがその年、練習参加できる予定だったチームは、夏のウインドーで選手を獲得しない方針を固めており、三幸の加入の可能性も潰えてしまったのだ。
結局、三幸はプロ4年目にあたる2015年シーズンを、無所属のまま終えることとなった。若くして浪人生活を過ごすなか、またしても助けてもらったのはJFAアカデミー福島だった。
リハビリを終えた後、アカデミーの練習に参加させてもらい、冬のウインドーに向けて準備を整えていく。もっとも中学生や高校生と練習するなかで、スタッフから「ここにいても、これ以上コンディションは上がらないよ」と、違う環境に出ていくことを勧められる。
次に頼ったのは、アカデミー時代の同期だった。神奈川大に所属するその選手に監督とつないでもらい、練習参加にこぎつけた。とはいえしばらくすると、「次のステップに行きなさい」と同じ反応を受けてしまう。そしてたどり着いたのが、1年前まで所属した相模原だった。最初は断られたというが、最終的に練習生として受け入れてもらった。
綱渡りのような生活を送るなか、三幸は決して下を向くことなく、新たなチームを探し続けた。様々なチームの練習に参加し、なかには手ごたえのあるパフォーマンスを見せることができた時もあったが、タイミングが合わずに契約にはこぎつけなかった。
そして三幸が次に向かったのはレノファ山口FCだった。J2に昇格したばかりのこのチームには、アカデミー時代の2つ後輩で、一番の親友だという小池 龍太(現横浜F・マリノス)が在籍していた。小池がチームに推薦してくれたことで3日間だけ練習参加すると、高い評価を受けて、内定をもらうことができた。ところが三幸は条件面を理由に、山口への加入をためらった。
「給料的に納得できない部分もあったし、『俺、J1にいたんだけど』というプライドもありました。他の選手と一緒にしないでよ、という想いが拭えなかったですね」
そんな煮え切らない態度を取る三幸だったが、親友の言葉に背中を押された。
「何のために自主退団で相模原を辞めて、この1年間辛い思いをして、J2に戻るために必死に頑張って来たんだよ。最初は苦労するかもしれないけど、このチームに入れなかったら、ずっとJ3だよ。お金がないなら家でご飯食べればいいし、送り迎えもするよ。俺が全部面倒見るから。試合に出て結果を出せば、契約も変わるから。一緒にプレーしたいし、絶対に来てほしい」
小池の熱い想いに心を動かされた三幸は、様々な可能性を熟考したうえで、山口に加入することを決めた。
クラブにその意思を告げると、「明日にでも来てほしい」ということだった。ところが、山口に行こうにも、その時の三幸には先立つものがなかった。
「なんとかこの1年間は貯えでやってきましたけど、その時はほとんどお金がなかったんです。浪人中はおじいちゃんにお金を借りたりしていましたし、ベッドを買いたいとか言って嘘をついたこともあります。あの時は『今、どれだけ借金しても、絶対にサッカーで返せる』っていうよくわからない自信があって。チームにさえ入れれば、もう一回軌道に乗れると思っていました」
そんな三幸を助けてくれたのが、普段から良くしてくれていた先輩プレーヤーだった。その選手とは、当時、大宮アルディージャに在籍していた加藤 順大(現マッチャモーレ京都山城)である。
「加藤さんには本当にお世話になっていて、この1年間の僕の姿をずっと見てくれていました。ご飯を食べに連れて行ってくれたり、シュート練習に付き合ってくれたり、バイト先を紹介してくれたり。それで山口に行くことが決まったことを報告すると、『はい、餞別』と言って、封筒を渡されて。中を見たらすごい大金が入っていたんです。『1年間、よく頑張ったな。これで山口に行って来い』って」
多くの人達のサポートを受け、再びサッカー選手としての道を歩み始めた三幸は、キャリーケースひとつと、たくさんの想いを背負い、山口へと向かった。