●石丸清隆監督(愛媛):
「本当に2連敗と苦しい中でのゲームだったが、選手がゲームのはじめから集中して入ってくれて、ベストとまではいかないかもしれないが、気持ちの入った試合をしてくれた。もう少し自分たちが仕掛けて崩すことを普段からやっているが、相手がブロックを作ってスペースを消してきたので難しかったが、上手く運んでバイタルを攻略したかった。質の問題もあるし、ピッチが濡れて50cmずれると相手のスペースも消えるし、そういう難しい状況だったがセットプレーから点が取れた。相手のセットプレーに問題あったので突けると思ったが、そこを突けたことはよかった。ここ最近は自分たちのイージーなミスからカウンターや、ディフェンスラインから長いボールで突破され、なんでもないところからの失点をしていたが、今日はスライドをしてコンパクトな状態を保ってゲームをやれた。勝っている状況で何とか関根を出したかったし、そういうみんなの気持ちもあって、すごい気持ちの入った、そして最終的に勝てたことはこのチームにとって大きなことだと思う。なかなかホームで勝てなかった中で、最後に勝てたことは嬉しく思うし、選手サポーターには感謝したいと思います」
Q:監督を退くことに関しては?
「2年間やって、上手く順位を上げられなかったことが一番大きな要因。チームとしてプレーオフ圏内を目指していたので、責任は自分にあると思う。その中でもチームはオファーをくれて、実際に迷った。ただ若干、僕の目指すところとチームの目指すところが違ったということで、自分が退いたほうがいいかなということで決断に至った。本当に、大きな要因はチームを引き上げられなかったということ」
Q:これからの愛媛FCが強くなるために必要なこと、2年間監督をやってどう感じたか?
「資金繰りが若干厳しいので、監督をやる時には僕は育成型クラブがこのチームにとって一番近道じゃないかと描いていた。それが愛媛県で育った選手が愛媛FCでプレーするのがこのクラブが強くなることだと思ったし、わくわくすることだと思った。ユース、トップに携わってそう感じた。ただトップをやると勝つことだったり、3年以内のJ1ということで、僕自信も本当は育成型を目指していたが、自分の中でのズレもどこかで生じてきて、これが、本当に力不足なところだと思う。クラブ的に考えると大きな予算があるわけじゃないし、いい選手を獲ってくるのは難しいだろうから、地域密着型でやることが愛媛にとっては理想だと思う」
Q:監督自身の今後は?
「どこかで監督をやりたいと思うが、ただ実際にオファーが今はなく、無職でこれから探すが、しっかり勉強をして、それが両方できるような力を持ってやりたいと思う」
Q:この2年監督をされて、チームの形を作れたところもあると思うが、自信になったところは?
「1年目と2年目でサッカーをほとんど変えていないが、河原は2年目になって僕の普段から言っていることを体現してくれた選手の1人だった。実際に点は取れているが、僕の中では攻撃の回数は若干減っているのは気になるし、バリエーションに関しては自分の中では少ないなと思う。ただ攻撃に関して言うと形を教えているわけじゃなく、本当に基本的な、いつ動くかとか相手を見て動くとか、選手たちがアイデアをドンドン出してくれているので、今いる選手は、これは聞いてみないとわからないが選手はやりがいを感じてくれていると思うし、今後もっともっと相手の判断を奪うような、相手の動きを見ながらサッカーができるように、具体的にもっとバリエーションを多くサッカーを追求したいと思う。若干、勝負というか、育てながら勝つというか、そこは先ほど言ったとおり力不足だと思っていて、自分のサッカー観が時として強く出て、戦術的に守ってカウンターをしなかったのがこの順位なのかもしれない。合理的にそれをやればJ2では勝てるチャンスが増えると思うが、今それをやると選手が伸びる要素が少なくなると思った。そういう意味でも、自分の中で勉強になった。プロの監督としてはちょっとダメな、勝負に関して逃げ腰ではないが、勝つ事の厳しさに関して要求が少なかったのかもしれない。そこは今後勉強していかなければならない部分だと思う」
Q:指導者として得たものは?
「プロ選手でも上手くなるんだな、ということはすごくこの2年間で実感した。色んな色があってなかなか変えられないところはたくさんあるが、このチームに来てくれる選手は素直だし、吸収しようとする力がすごいと感じていて、自分の姿勢がそのまま選手に出るんだということはこの2年間勉強になった。自分がアグレッシブな姿勢を取れば選手もそうなるし、若干逃げ腰になれば選手も感じて腰が引けたこともあったし、勝てなかったことはまだまだ自分のメンタルだとか人間的なところが幼いのかなと思っていて、これからまだまだ学んでいきたい」
Q:退任の理由のところで、ご自身が目指すところとチームが目指すところが違ったというのは?
「僕は育成クラブを作りたかったというのが、一番初めに先ほど話した所です。クラブ側は、プロサッカークラブとしてビジョンを掲げた以上、勝たなければならない。そこで3年以内でJ1ということがあるが、そこは僕はまだ早いと感じていて、そこで勝つとに関しては僕と違ったサッカーをしたほうがこのチームのためだと考えた。そこがチームと僕との考え方の違いだと思って、退いたほうがいいという決断に至った」
Q:何度も交渉をして、話を重ねても接点を見つけられなかった?
「訂正したいのは、新聞で10回というのがあったが、そこまではなかった(笑)。これでもか、という中で固辞したような形だが、そこまではなかった。それで、この2年間やってそこが進んでいなくて、これで来年僕がやってもなかなか方向転換はできないだろうな、という判断を自分でもしなければならないし、3年計画の最後としては僕の力としては到底難しいと判断した。1年めから2年目で大幅に選手が入れ替わる問題だったり、それは僕がもっと魅力ある監督なら引き止められたかもしれないが、それは僕だけじゃなくクラブの問題でもあるし、J1に行くならその体制だったりいろいろな物を考えなければならないし、長期ビジョンで僕はクラブを引き上げたい思いが強かったが、1年毎にズレが生じるのは僕の力不足と、クラブも理想なのかなと思った」
Q:JFLの最後の年に助っ人で来てから、一番思い出されることは。
「どれもすごく思い出深くて、これ1つというのは難しく、JFLからJ2に上げたホンダとの試合だったり、ここでのJ2に上がってはじめての横浜FCのゲームだったり、プロで初めて監督の試合だった山形戦だったり、今日のゲームも思い出深いゲームになると思う。このクラブで色々学ばせてもらって、成長させていただいたので1つというのは難しい。選手の時に活躍して、10点位とっていたらその1ゴールだったり、J1に上がれるようなチームをつくれたらもっとあったかもしれない。でも結果は出ていないが、本当にいい選手やスタッフ、いい仲間たちと出会えてよかった。感謝しています」
以上