3月12日、広島は鳥栖で練習試合を行った。福島第一原発が初めて水素爆発を起こしたことを知ったのは、その試合後のこと。緊急事態を報じるネットニュースを見ていた時、一人の男がスッと横に立った。ミハエル・ミキッチだった。
「大きな問題が起きているのか?」
シンプルな英語で尋ねてきた。うなずくと首を振り、視線を下に向けた。何度も何度も、首を振っていた。ショックを受けていたのは、明白だった。
被災を免れた広島は、大震災の後も練習を続けている。鳥栖との試合の後、1日の休日をはさんでまた練習だ。月曜・火曜と、ペトロヴィッチ監督は妥協なき2部練習を繰り返し、選手たちはそのトレーニングメニューと必死で向き合った。その中にはもちろん、ミキッチもいた。
彼は、地震とはまた違う、悲惨な状況を体験している。1991年、ミキッチが11歳の時に始まった、ユーゴスラビア紛争である。彼の故郷であるクロアチアの首都・ザグレブにも爆撃機が襲い、市内は瓦礫が折り重なった。だがそれでも、「ザグレブは他の地域と比較すれば、戦いが少ないほうだった。だから、他の地域からたくさんの方が難民となって集まってきたよ」とミキッチは言う。
数多くの人が亡くなり、学校も閉鎖。だが何よりの恐怖、そして悲惨は「自分たちの親類に近い人々、隣近所と言っていい人々が互いに憎み合い、殺し合っていたことだ。日本は、もう60年以上も大きな戦争に巻き込まれていないそうだね。それは本当に素晴らしい。戦争なんて、ない方がいいに決まっているから」(ミキッチ)
しかし彼は、そんな戦火の中でも、決してサッカーを忘れなかった。ボバンやシュケル、プロシネツキといったクロアチアの英雄たちに憧れ、自分はサッカー選手になるんだと心に決めたミキッチ少年の夢は、悲惨そのものの戦火の中でも、消えることはなかった。時間を見つけてはボールを蹴り、毎日をサッカーと共に過ごした。
それは決して、ミキッチ少年が特別だったわけではない。実際、クロアチアでは独立したその年に国内リーグが創設され、紛争が続いていた時もリーグ戦は開催され続けた。戦争のまっただ中でも、クロアチア国民はサッカーを欲していた。当時はローティーンだったミハエル・ミキッチもまた、サッカーを求めていた人々の中にいた。サッカーを、決してあきらめなかった。だからこそ、戦争が終息に向かった16歳の時、ミキッチはプロ契約を結ぶことができたのだ。
「Jリーグの開催が延期になったことは、仕方がない。日本がノーマルな状況に戻ることが大切であって、その上でサッカーは存在しているから」とミキッチは事態を受け入れている。そして「僕らができることは、しっかりとトレーニングして、再開した時に備えること。見ている人々が喜んでくれるような、勇気を持ってくれるようなプレーを表現できるよう、高めていくこと。それが、自分たちのモチベーションとなっている」と語った。その言葉を証明しているかのように、ミキッチは水曜日に行われた広島修道大との練習試合で獅子奮迅の活躍を見せ、圧倒的な存在感でチャンスを創り続けた。45分間で7点、90分で16点を奪った広島の猛攻は、ミキッチの激しいプレーが一つのきっかけとなったのだ。
「被災された方々には、謹んでお見舞いを申し上げたい。また、犠牲となられた方に対しては、深い哀悼を捧げたい。被災された方々の悲しみ、そして厳しい現状を思うと、心が本当に痛む。
でも、とにかくあきらめないでほしい。前を向いて、ポジティブに考えていくことが大切だと思う。被災された方々を含め、僕たちみんなの力を合わせれば、必ず復興できる。僕は、そう信じている。とにかく、ポジティブに、前を向いていこう」
自身が戦災にあった経験を持つだけに、ミキッチの言葉は重い。そのミキッチが「日本は復興できるんだ」と語ってくれた。僕らもまた、その言葉を信じて、前を向いていきたい。被災していない広島にいる者として、先頭に立って歩いていく覚悟を決めないといけない。
以上
2011.03.17 Reported by 中野和也