圧倒的な強さで連覇を成し遂げた川崎フロンターレにおいて、安藤 駿介には今季も出番が訪れなかった。
振り返れば2014年に湘南ベルマーレから復帰して以降、公式戦のピッチに立ったのは2016年のルヴァンカップ1試合のみ。13年に渡るプロのキャリアで、リーグ戦出場は15試合に留まっている。
ひとつしかポジションのないGKは、なかなか序列を覆すことが難しい。しかし、試合に出られない状況下でも有事に備え、日々の練習に向き合う必要がある。見事なセーブを連発し、スポットライトを浴びたい想いもあるだろう。それでも、ピッチに立てないなかでもチームのためにやるべきことがある。
バックアッパーの立場で川崎Fを支える安藤の心境に迫った。
安藤がGKになったのは、小学校の時に所属したチームの指導者に勧められたことがきっかけだった。GKをやりたい子が少なかったなか、様々なスポーツをこなし、運動神経の良かった安藤に白羽の矢が立ったのだ。
フィールドプレーヤーだった安藤だが、初めてGKとしてプレーした時に、「別に嫌という感覚にはならなかった」という。
本格的にGKとしてプレーするようになったのは、5年生の時。決して身体は大きくなかったが、持ち前の運動神経を発揮し、6年生の頃には世田谷区のトレセンに選ばれるほどになっていた。そして川崎FU-15のセレクションを受けると、見事に合格。そこからこのクラブが安藤のすべてとなった。
「小学校を卒業する時は身長が153センチくらいしかなかったし、中学校に上がった当初は、ジャンプしても手がバーに届くか、届かないくらいでした。だから、なんで自分がセレクションに受かったのか、不思議でしたね」
そう笑う安藤だが、当時はやはりその身長がハンデとなっていた。
「2年生までは身体が小さかったし、試合に出られない時期も長かったです。試合に出ても失点するのが嫌だったので、出たくない時ありました。ただ次第に身長が伸びてくると、守れる範囲が広がっていって、ちょっとずつプレーするのが楽しくなっていきました」
中学を卒業する頃には180センチ近い身長を手にしていた安藤は、そのままU-18への昇格を実現した。
U-18でも苦しい時期はあった。それでも2人のGKコーチとの出会いが安藤をプロの道へと導くことになる。松本 拓也(現大宮アルディージャGKコーチ)と澤村 公康(現ゴーリースキーム代表)の2人である。
「中学から高校1年生まで見てもらった松本さんは、自分能力の幅を広げてくれるアプローチをしてくれましたし、技術的にも基礎の基礎から教えてもらいました。澤村さんは怪我が多かった自分にも、『パワーアップして戻ってくればいい』と常に前向きな言葉がけをしてくれました。そのおかげで、自然と前向きな人間になれたと思うし、考え方やマインドの部分で成長させてもらったなと思います」
そうした恩師との出会いを経て、安藤は2009年にトップチームへと昇格。プロの世界へと足を踏み入れたのだ。
もっともプロ入り2年間は、試合に絡むことができなかった。
「当時は川島 永嗣選手もいたし、プロの試合に出ていけるなという手応えはまだありませんでした。高校時代は怪我ばかりしていたので、とにかく怪我をしない身体つくりをしなければいけなかった。まずは、そこからのスタートでしたね」
とはいえ、3、4年目の頃にはレギュラーを取るというイメージはしていた。
「あの頃は調子に乗っていたので、3、4年経ったらレギュラーを取れるだろうと。でも当然、そんなに甘いものではありませんでした。当時はロンドンオリンピックを目指すチームが始動するというタイミングでもあったので、まずはそこに食い込んで行って、チームでもポジションを取れればと考えていました」
待望のプロデビューは、プロ3年目の2011年に訪れた。5月29日にホームで行われたガンバ大阪戦だった。
「その前の年にU-21代表としてアジア大会には出ていたんですが、Jリーグはまた一味違う緊張感がありました。試合よりも、前日にスタメンが発表された時がやばかったですね。自分では気づかなかったのですが、顔が真っ青だったらしくて(笑)」
試合当日は台風の影響で、強い風と雨が降りつける最悪のコンディションだった。それでも、「とにかく楽しもう」と割り切った安藤は、先制点を許しながらも、中村 憲剛が2ゴールを奪う活躍を見せ、デビュー戦を白星で飾ることができた。
「憲剛さんに持って行かれましたけど、結果がついてきたのは自信になりました。アジア大会でも負けなしだったので、自分が試合に出れば負けないと、調子に乗っていた部分もありました」
実際に安藤はデビュー戦から4試合連続でスタメン出場し、3勝1分とひとつも負けなかった。しかし、その活躍もアピールにはつながらず、ポジションを奪い取ることはできなかった。
「自分でチャンスを掴んだわけではなく、先輩方の怪我で回ってきた出番でしたからね」
結果を出したのに、なんで使ってくれないのか――。当然、そうした想いも沸いた。
「2011年は8連敗してますけど、チーム状態が悪いなかでも使われませんでした。自分が出た試合では負けてないのに、なんでだよという想いは当然ありましたよ。ただ負けなかったとはいえ、継続して任せられるほどの力はなかったんだなって、自分になりに受け止めていました」
翌2012年、安藤はロンドンオリンピックのメンバーに選出。ピッチに立つ機会はなかったが、ベスト4進出の快挙の当事者となった。
そして翌年、安藤は初めて川崎Fを出ていく決断を下した。
「オリンピックが終わって気持ちが落ちていた部分もありました。試合に出たいという気持ちよりも、ちょっと環境を変えて引き締めないと、長い間プロではできないなという感覚があったので、移籍を決断しました」
行き先は湘南ベルマーレだった。チームを率いる曺 貴裁監督(現京都監督)は、川崎FU-15の監督を務めていた時期があり、安藤も接点のある人物だった。
新天地では10試合に出場。これが安藤にとっての現時点でのキャリアハイとなっている。
「移籍して良かったと思います。試合に出られたこともそうですが、自分の考え方をへし折られたというか。曺さんも熱い人なので、人間として成長できるきっかけを与えてくれたと思います。チームが降格してしまったので良い年だったとは言いたくないですけど、人間的には変わることができた。『お前、浮いてるぞ。背伸びをしなくていいんだぞ』っていう曺さんの言葉が、今の自分を作ってくれていると思います」
ターニングポイントとなった1年を経て、安藤は川崎Fに復帰する。しかし、あれから8年間にわたって、安藤はピッチに立てない日々を過ごしている。
「サッカー選手というのはピッチに立って結果を残さなければ評価をしてくれないというのは理解しています。環境に甘えることはしたくないですし、そういう感覚があるから、腐らずに頑張ることができていると思います」
とはいえ、心が折れそうになる時期もあったという。心が折れないようにするためにも、安藤は長期的な視点を持つことを辞めた。
「若い選手であれば、中・長期な目標を立てて、段階を踏んで進んでいくと思いますが、僕が今それをやってしまうと、自分が見なくてもいい現実を見てしまうんじゃないかなと。余計なものまで情報として取り入れて、気持ちが折れてしまうんじゃないかなという恐怖はありますね。今31歳ですけど、2年後、3年後のことを考えると、ちょっと気持ちがもたない。1日1日、やるべきことをやって、しっかりと準備しようという気持ちだけですね」
もちろん、バックアッパーの立場を受け入れているわけではない。試合に出たいという意欲は消えてはいない。
「そこは消えてはいません。さっきの話とは逆になるかもしれないですけど、見なくてはいけない現実もあります。そこにはしっかりと向き合って、自分の課題に取り組んでいかなければいけないんです。だから、バックアップであることは当然受け入れてはいないですし、最低限のプライドは今でも持っています」
試合に出られない日々のなかで、安藤のモチベーションとなっているものは何か。
「このチームにいる限りは、フロンターレが好きという気持ちですね。そうでなければ、これだけ長くいられないと思います。あとは、他のチームのGKの存在も大きいです。今年はJ1が20チームあって、20人のスタメンがいますけど、逆に言えば60人くらいは試合に出られていないんです。でも、彼らはプロとしての誇りを持って、日々トレーニングをこなして、試合に出るための準備を進めている。そういう彼らの姿勢も、自分を支えてくれていると思います。ただ最近はモチベーションという単語を自分には問いかけないようにしています。サッカーですけど、仕事でもある。給料をもらってやっているので、モチベーションによってやる気が左右しまうのは、プロではないと思っていますから」
一方で、試合に出られないなかでも、契約は続いている。それは安藤が川崎Fにとって欠かせない選手であることの証でもある。
「いつ、切られてもおかしくないと思っていますが、強化部と話をするなかで、どんどん試合に絡んでいってほしいということは言われています。そのなかでピッチ外のこともやってくれて助かっているとも言っていただいている。試合に絡んでいってほしいということは常に言われているので、そこは見失わずにやっていきたいなと思います」
不安視されるのは、試合勘だ。もし、次の試合でスタメンに指名された時、安藤は不安なく試合に臨めるのだろうか。
「出てないのだから、試合勘がないのはしょうがないですよね。だけど緊張したり、あがったりして、準備してきた力が出せなかったら意味がないと思っています。だから、どんな状況でも、自分の力を出せるような準備をしています。当然、自分の力以上のものは出せないけど、自分の力を最大限に発揮する努力をしてきたつもり。自分のパフォーマンスができなければ自分のせい。自分のパフォーマンスをして負けてしまうのはしょうがない。そこの割り切りは必要だと思っていますし、『背伸びをしなくていい』と曺さんに教わったことでもあります。チョン ソンリョン選手や丹野選手みたいなプレーをしようとは思ってはいません。自分のやり方で、川崎のゴールを守る。もし、次の試合に出ることになったら、そこだけを考えるようにすると思いますし、それくらいの準備はしてきた自信はあります」
これまでの13年のキャリアは、イメージしていたものとは大きくかけ離れているだろう。しかし、たとえ試合に出られなくても、学び得たものは決して少なくはない。
「いろいろありましたけど、常に落ち着いていなければ何もできないということを学びましたし、常に冷静なものの考え方ができるようになったと、自分では思っています。そこはサッカー選手以前に、人としての問題。自分の周りには憲剛さんをはじめ、人間性に優れる方が多かった。そういう人たちがいたからこそ、今の自分があると思っています。人として成長していくことが、今後、人生を左右するようなことが起こった時に、大事になってくる。そう思いながら生活していますし、そこがこの13年間で得た教訓かなと思います」
最後に、今後のキャリアについて聞いてみた。「そろそろ環境を変えたいのでは?」。そう聞いてみると、安藤は前をしっかりと前を見つめて、こう答えた。
「このチームで長くやれるにこしたことはないですけど、チームの事情もあると思うので、いろんな選択肢を持ちながら、柔軟にやっていければいいと思っています。ただこのチームで契約してくれれば、ここで頑張りたいという気持ちが一番上にはあります。何歳まで現役でやりたいとか、そういう話はできないですけど、プロになってからは大きな怪我もなくやれているので、今のところは無理だという感覚にはなっていません。いい選択をしながら、やれるところまでやっていきたい。ただ先ほど言ったように、長期的な目標はなかなか立てられないので、足元を見つめながら、1日、1日をしっかりと過ごしていきたいと思います」