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2世プレーヤーの葛藤と反骨心。どこまでもポジティブな姿勢が道を切り開く
2010年7月、「これでダメだったら終わり」という覚悟をもって、水沼 宏太は栃木SCに籍を移した。そしてこの移籍先での出会いが、水沼にとっての大きな出来事となった。
「当時、プロで思い切り打ち砕かれた20歳の自分がいて、プライドを捨ててとにかくがむしゃらにやっていた記憶があります。そのなかで、プロの舞台で1試合を通してプレーすることを初めて学んだんですけど、試合というものはこういうものだと改めて実感させてくれたのが、松田 浩監督(現V・ファーレン長崎監督)でした」
とにかく一つひとつのプレーに細かくアドバイスしてくれる監督だった。守備のこと、攻撃のこと、試合を通して出てくる課題を事細かに指導してくれた。真夏の練習後も炎天下にもかかわらず、ずっと話に付き合ってくれるような人だった。
「お話が好きな方で、長く話した記憶がありますね。自分の父と同じくらいの年齢だったので、話しやすかったですし、優しく向き合ってくれました。試合にもコンスタントに使ってくれたし、初めての移籍先で松田さんに出会っていなければ、今の僕はないと思っています」
1年半在籍した栃木では定位置を掴み、プロ初ゴールも記録した。確かな自信を掴んだ水沼は、所属元である横浜F・マリノスへと復帰すると考えられていた。
ところが、水沼は戻ることができなかった。
「戻りたかった気持ちはありますけど、戻れる感じではなかったですね。はっきりと言われたわけではないですけど、マリノスが必要としていない感じだったので、違うチームでまたがんばろうと決めました」
水沼が決意したのは海外移籍だった。実際に海外のクラブの練習に参加し、ほぼ加入が決まっていた。しかし、しばらくすると破談となり、海外移籍は実現しなかった。
そんな水沼に救いの手を差し伸べてくれたのが、初めてのJ1昇格が決まっていたサガン鳥栖だった。
「海外移籍がもしダメになったら来てくださいと待っていてくれたんですね。結果的にダメになったので、鳥栖に加入することになったんです。拾ってくれて本当にありがたかったですし、J1で勝負することもできる。J1に初めて挑戦するクラブの状況は自分にも重なる部分があったので、僕自身も初めてのJ1挑戦という気持ちで鳥栖に行きました」
周囲の下馬評を覆し、J1初挑戦の鳥栖は快進撃を見せた。そのなかで水沼もレギュラーの座をモノにし、攻撃の要として躍動。待望のJ1初ゴールも記録した。
「まさかのマリノス相手でしたからね。ちょっと見返せた気持ちにもなったし、感謝の気持ちもありました。決めた瞬間はめちゃくちゃ嬉しかったですね。やっとプロになれたんだって」
鳥栖時代は上位争いを演じる充実感だけでなく、自身のプレースタイルが確立した時期でもあった。
「ユン ジョンファン監督のサッカーは、とにかくサイドからガンガン行って、クロスを上げまくるスタイルだったんです。右サイドの僕と左サイドのキム ミヌがクロスを上げて、中の豊田 陽平さんが仕留めるという感じで。だからクロスの練習は、鳥栖時代は相当やりましたよ。そのおかけで、今のスタイルが確立されたと思います」
充実の4年間を経て、水沼は2016年にFC東京に籍を移した。しかし、そこでは苦悩の日々を過ごすことになる。
「ステップアップの気持ちで移籍したんですが、自分の思い描いていたものとは全然違う結果になってしまいました」
U-17日本代表時代の監督である城福 浩監督の下でACLを初めて経験できたことは良かった。しかし、城福監督が解任されると、出番が激減。U-23チームに回され、J3でプレーする屈辱も味わった。
「J1とJ3が同じ試合日の時がたまにあって、そこでJ3のほうに回ることもありました。J3のチームに移籍したわけではないのに、なんでJ3でやらなければいけないのかと。俺はいったい何をしているんだっていう気持ちでしたね」
しかし、水沼はそんな状況でも、持ち前のポジティブ精神を失わなかった。
「きっと、J3でプレーすることも何か意味があると思って日々を過ごしていましたね。実際にその悔しさは、今の自分にパワーになって返ってきたところはあります。精神的にもフィジカル的にも成長できた1年だったし、あの1年も今の自分にとってなくてはならない時間だったと思います」
そんな状況の水沼に声をかけたのがセレッソ大阪だった。鳥栖時代の恩師である尹 晶煥監督の就任が決まっていたチームには、U-17日本代表時代に刺激を受けた柿谷 曜一朗の存在もあった。
「同年代の選手が多かったのも、移籍の決め手のひとつです。上手い選手がたくさんいて、そこにユンさんが来るんだから、絶対に何かが起きるというワクワク感がありました」
そのワクワク感は、大きな歓喜へとつながることになる。水沼が加入した2017年、C大阪はルヴァンカップと天皇杯の2冠を達成。水沼にとってもプロで手にする初のタイトルだった。
「タイトルを2個取って、リーグ戦でも3位と凄い結果を残せたと思います。1年前にJ3でやっていたことは無駄じゃなかったと思えたし、諦めずにやることが大切だなと改めて思わせてくれたシーズンでもありますね」
そして水沼は2020年、古巣である横浜F・マリノスへと10年ぶりに復帰した。
本音を言えば、意外なオファーだった。10年前に必要がない選手だと判断されたはずだったからだ。この10年の間に、チームへの興味は次第に薄れていたこともある。
「憧れのチームというのはありましたけど、だんだんマリノスに対しての興味が薄れていっていたのは事実です。絶対に戻りたいと考えたことはなかったし、戻れたらいいなとも思わなかった。2019年にマリノスが優勝した時は良かったなと思いましたけど、オファーをいただいた時は、嬉しいというよりも『なんで、このタイミングで?』という感じでしたね。ただ、今まで諦めずにやってきてよかったなという気持ちにはなりました」
優勝チームからのオファーである。誘いを断る理由はなかった。やれるという自信も、当然あった。
「いろんなチームに行って、いろんな経験をするなかで、自分も自信がついて、マリノスも本気でACLを取りに行くという自信を持っていた。そのタイミングで仲間に入れてくれることになったのは、ありがたかったですね。もちろん優勝チームに入ることで新たな試練が待っているとも思っていましたが、結果を残せる自信もあったので、移籍を決めました」
水沼の同じポジションには、前年にMVPと得点王に輝いた仲川 輝人の存在がある。それでも水沼は「プレースタイルは全然違うし、チャレンジャーの気持ちで、ポジションを奪ってやるという気持ちだけ」と臆することはなかった。
チームとしてもC大阪時代とは大きくスタイルが異なるものの、「攻撃的なチームなので、攻撃の回数も多いし、ゴール前に行く回数も多い。攻撃のポジションをやっている身としてはやりがいを感じています」という。
実際に水沼はその役割を高いレベルでこなしている。昨季は10アシストで、今季は9アシスト。これは2年連続でチームトップの数字である。
「昔マリノスにいた時からは考えられないくらいゴールに絡むことができています。とにかく楽しんでプレーしようという意識が結果に表れていると思います」
もっとも充実感こそあるものの、満足はしていない。なぜなら、スタメンとしてピッチに立つ機会がなかなか訪れないからだ。今季は36試合に出場したものの、スタメンはわずかに1回のみだった。
「めちゃくちゃ悔しいですよ。なんでだよと思うことは、今年はかなりありました。だけど、プロとしては与えられた時間の中で結果を残さなければいけない。そういう気持ちでやってきて、数字も残せたのは良かったですね。でも、やっぱり悔しい。プロとしては試合に出てなんぼだと思うので。試合数はたくさん出たけど、時間的には大して出ていませんから」
とはいえ、限られた時間で結果を出すことは簡単なことではない。なぜ水沼はその高い要求に答えられるのか。
「どんな状況でも高いパフォーマンスを出すためには準備が大事です。もちろんそれはスタメン、サブに限らずですけど。とにかく自分のやることをしっかりと整理して、自分の得意なプレーを出すこと。インパクトを残すことだけを考えてやっています」
気づけばプロになってから14年の月日が流れた。紆余曲折があったとはいえ、水沼はプロの世界を逞しく生き抜いてきた。そのキャリアを築くなかで、何を一番大事にしてきたのだろうか。
「常に自分に矢印を向けて、前向きに好きなことをやっていくということが、すごく大事だなとこの年齢になって感じますね。どんな状況でも、全力で自分のできることをやることが、成長につながるんです。やっぱり、見てくれる人は見てくれているんですね。だから手を抜くことができないんです。手を抜くことは簡単にできますけど、そういうことをせずにここまでやってきた自負もある。だからこそ、ここまでこれたんだと思います」
挫折を挫折と思わず、常に前を向く。どこまでもポジティブな男は、小さい頃からの憧れのチームで、これからも下を向くことなく走り続けるだろう。
取材日:2021年12月5日