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自らの立場を認識させられた“凄すぎる同期たち”と“神様”との出会い
ブラウブリッツ秋田で充実した時間を過ごした島川 俊郎は、2016年、4シーズンを過ごした秋田を離れ、レノファ山口FCへと移籍する。前年に参入1年目にして圧倒的な強さでJ3を制した山口は、同年からJ2へと参戦することが決まっていた。
ベガルタ仙台、東京ヴェルディ時代には出場機会を手にできなかった島川にとって、初めてJ2の舞台に立つチャンスが巡ってきたのだ。
ところがその好機を、島川はモノにすることができなかった。2試合ピッチに立つことができたものの、肉離れを三度も起こしてしまったこともあり、レギュラーには定着できず。その夏に当時J3だった栃木SCに期限付き移籍。再びカテゴリーを下げることとなってしまったのだ。
「なかなか厳しい半年間でした。やっぱり、怪我をしてしまったのが痛かったですね。2、3か月は離脱してしまったので。ただ、山口には悪いイメージはありません。その時のサッカーはすごく魅力的だったし、小池(龍太)だったり、庄司(悦大)くんだったり、テクニックのあるいい選手がたくさんいたので、やっていて楽しかったですね。いい出会いにも恵まれましたから」
それでも、サッカー選手として「環境を変えないと難しい」という想いが芽生えていた。
「またJ3でしたけど、監督が秋田時代にもお世話になった横山(雄次)さんだったこともあって、行くことに決めました」
栃木ではサイドバックのレギュラーとしてプレーし、2位となったチームの躍進に貢献。しかし、J2・21位のツエーゲン金沢戦との入れ替え戦に敗れ、昇格を逃す悔しさを味わった。
「栃木の時は試合に出ていたこともあって、昇格を逃したことに責任を感じました。なかなか貢献できなかったし、悔しい半年間でしたね」
この時、すでに26歳。プロ入りから8年経っても、島川はなかなか浮上できないでいた。
ところがそんな島川に転機が訪れる。この年のシーズンオフ、J1のヴァンフォーレ甲府からオファーが届いたのだ。電話の主は新監督に就任したばかりの、あの吉田 達磨であった。
「達磨さんじゃなければ、間違いなく呼んでもらえなかったでしょう。おそらく、いろんな話が飛んだ後に回ってきた話だと思います。達磨さんから電話があった時『お前、やる?』みたいな軽い感じで(笑)。でも、J3でプレーしていた僕は、J1でやれるチャンスをもられたことが本当にうれしかった。だから『練習生でもいいので獲ってください』と伝えました」
島川にとっては仙台に所属した2013年以来のJ1復帰となった。しかし、J1のピッチには一度も立ったことがない。監督の教え子という色眼鏡で見られることも覚悟していた。
「もうやるしかなかったですね。下のカテゴリーから来ているし、監督が呼んだということも、みんな知っていたはず。だから、自分がしっかり実力を証明しないと、受け入れてもらえないという危機感はありました。初めての練習ではやっぱりレベルが高いと感じましたけど、なんとか食らいついていきました」
そして4月2日の北海道コンサドーレ札幌戦で、途中出場からJ1デビューを果たすと、5月28日のFC東京戦で初スタメンを勝ち取った。この日はちょうど島川の27回目の誕生日だった。しかし、記念すべき試合は島川にとって苦い記憶として刻まれている。55分に途中交代となってしまったからだ。
「下のカテゴリーにいた時間が長かった分、これがJ1かと、フワフワしていたところはあったかもしれないですね。後半の早い時間に交代したんですけど、その時に達磨さんから『これがJ1なんだ。ビビってるなら、サッカー辞めろ』と言われたんです」
傷心の島川はその後の試合をベンチから見つめていた。すると一人の選手の姿に目を奪われた。キャプテンの山本 英臣である。
「オミ(山本英臣)さんがピッチ上で一番闘っていたんですよね。これだよな、この姿勢だよなって、はっとさせられた瞬間でした。J3から来たとか関係ない。いつまでも遠慮している場合じゃないって。自分のすべてを出さないと、J1では戦っていけない。ほんの少しでも隙を見せただけで、やられてしまう世界なんだって、オミさんの姿を見て気付かされました」
27歳にして初めて知り得た、トップレベルで戦うことの覚悟。この気付きをきっかけに、島川はボランチのポジションを掴んでいくことになる。
ところが覚醒した島川の奮闘もむなしく、甲府はその年にJ2に降格する。そしてJ2で戦った翌シーズンの途中には恩師である吉田監督が解任の憂き目にあった。島川自身も夏に疲労骨折してしまい、わずか14試合の出場に留まった。チームも1年でのJ1復帰は叶わなかった。
それでも、遅咲きのボランチのひたむきな姿勢を、サッカーの神様は見捨てなかった。怪我でシーズンの大半を棒に振った島川だったが、この年に2位となりJ1昇格を果たすこととなる大分トリニータ戦だけは、2試合とも出場し、2連勝に大きく貢献。そのパフォーマンスが評価され、シーズン終了後に大分からオファーが舞い込んだのだ。
「ただただ、運がいいというか……」
そう謙遜する島川だが、重要な試合で好パフォーマンスを見せたのは、実力が備わっていたからに他ならない。2019年、再び島川は、J1の舞台に返り咲いたのだ。
大分ではボランチやCBとしてプレーし、1年目は22試合に出場。2年目には30試合ピッチに立ち、J1初ゴールも記録した。
「大分では素晴らしい監督と出会いましたし、チームメイトのことも大好きでした。一生付き合っていくんだろうなという人たちとも出会えた。それが一番の財産ですね」
大分に在籍した2020年は、ピッチ外でも話題を振りまいた。自身のSNSでピアノの弾き語り動画をアップし、意外な特技と美声に多くのファンが驚かされた。
「コロナになって時間があったので、やってみました。初めはちょっと痛いかなと思いつつ上げてみたんですけど、はまっちゃって(笑)。みんなが笑顔になってくれれば、いいかなと思っています」
ピアノ教室には小学生の時から、高校に入るまで通っていたという。
「兄と姉がいるんですけど、2人とも習っていたんで、習わないという選択肢はなかったですね。ただ、僕はサッカーだけをやりたかったので、正直行きたくありませんでした(笑)。練習もせずに行くから、先生も困っていたと思いますよ。申し訳ないです。だけど、合唱コンクールで伴奏する時は楽しかったですし、今、こうやって披露できているので、やっていてよかったと思います」
大分の2年間を経て、島川は今季、サガン鳥栖へと移籍した。実は以前より、鳥栖のサッカーに魅力を感じていたという。
「大分にいた時に、オフの日にこっそりと鳥栖の練習を見に行ったことがあったんです。どんな練習をしているのかなと気になったので。若い選手がたくさんいるし、スタイルもアグレッシブで、自分に足りないところ、強くしていかないといけないところがこのチームにはあるのかなと感じていました」
実際に加入すると、その考えが正しかったことを実感しているという。
「ここにいれば成長できると思うし、まだまだついていけていない部分もあります。ユースから上がってくる選手は自信を持ってプレーしているし、だからといって誰も調子乗っていない。真面目にサッカーを取り組んでいるので、年下ですけど、リスペクトしています。若手だけじゃなくて、梁(勇基)さんだったり、(高橋)義希さんだったり、素晴らしいベテランもいる。本当にいいチームだと思います」
長い下積み生活を経て、ようやく定着したトップの舞台。多くの選手が淘汰されるなか、ここまでたどり着くことができた要因は、果たしてどこにあるのか。
「繰り返しになりますが、自分が特別じゃないということを早い段階で理解したことが大きかったと思います。代わりはいくらでもいる。サッカーに真面目に取り組まないと生き残っていけない。特別じゃないからこそ、コツコツとやらないといけないんです。止めてしまったら、そこで終わってしまうという危機感もありました。サッカーを辞めようと思ったことは何百回もありますし、やっている意味を感じられない時期もありました。でもサッカーはチームスポーツなので、真面目に一生懸命取り組むことで、少しでもいい影響を与えられることもあるはず。おそらくそれが、自分の価値なんじゃないかなと、最近は感じたりもしています」
今年31歳を迎えた島川には、新たな刺激が生まれている。アカデミー時代の同期である酒井宏樹がJリーグに帰ってきたことだ。
「帰ってきましたね。すごく楽しみです。酒井は行くところまで行っちゃいましたから、正直、マッチアップはしたくないです(笑)。でも酒井だけじゃなく、やっぱり同期の存在は特別ですよ。引退してサッカーを離れた選手もいますし、指導者として頑張っている人もいる。まだ現役を続けているのは5人になりましたけど、みんな試合に出ているか、毎試合メンバー表はチェックしますね。もちろん(吉田監督が率いる)シンガポール代表のことも気にしています。やっぱり、柏のアカデミー時代がなければ、今の僕はありませんから」