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【前編】柏時代に犯した若気の至り。「僕は厄介者でした……」。【ターニングポイント:深津 康太編】

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2021年7月1日(木) 08:00

【前編】柏時代に犯した若気の至り。「僕は厄介者でした……」。【ターニングポイント:深津 康太編】

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【前編】柏時代に犯した若気の至り。「僕は厄介者でした……」。【ターニングポイント:深津 康太編】
紆余曲折を経て現在活躍する選手の人生物語に迫るインタビューシリーズ「ターニングポイント」。第2回目はFC町田ゼルビアの深津 康太にスポットを当てる

本当は野球をやりたかった。だけど周りの友だちにはサッカーをやっている子が多かった。かつて野球をやっていた父も「サッカーをやりなさい」と言う。

「だから、しぶしぶ始めた感じですね。なんで父がサッカーをやらせたかったのかは今でも謎ですけど……」

深津 康太は当時を思い出し、苦笑いを浮かべた。「だけど」と深津は続ける。

「結果的に父のその判断は間違っていなかったと思います」

小学校1年生の時に下した運命の選択によって、深津 康太のサッカー選手のキャリアは幕を開けたのだ。

深津がサッカーを始めたのは、千葉県印西市にある地元の少年団。“お父さんコーチ”が指導するどこにでもあるような街クラブだった。

「練習は土日だけで厳しくもなく、楽しくやっていましたね。そんなに強くないチームでしたし、その時はプロになるなんてまったく思っていませんでした」

一度、県のトレセンには選ばれたことがあったが、周りの上手さに衝撃を受けて「もう、行きたくない」と思ったこともある。中学もクラブチームではなく、通っていた中学校の部活でプレーした。

それでもきらりと光るものがあった深津は、千葉県の強豪、習志野高校に推薦で入学することとなる。ところが深津は2年生の時に、流通経済大柏高校に転校することとなった。

「1年生の途中で本田 裕一郎監督が、翌年から流経に移るという話になって。それで、1年生の僕たちを連れていきたいと。僕も本田先生の下でやりたかったので、ついていくことに決めました」

もっとも、この“移籍”には1年間、公式戦に出場できないペナルティが課せられ、深津は高校2年生の1年間、公式戦でプレーできなかった。

「もう、3年生で一発勝負をかけるみたいな感じでしたよ。結果的にインターハイでは関東大会まで行けたんですが、全国には行けませんでした。プリンスリーグは準優勝。選手権は予選の途中で負けてしまって、早めに引退することになりました」

決して輝かしい成績を残せたわけではない。それでも深津は高校3年生の時に、プロになれるという自信を手にしていたという。

「行けるんじゃないかなと思いましたし、逆にプロになれなかったら、高校でサッカーを辞めるつもりでした。上下関係が嫌いなタイプだったので、大学まで行ってやろうとは思っていませんでした」

なぜ、深津はプロになれると思ったのか。それは千葉県選抜として出場した国体で優勝したことが大きかった。

「その時の感触がすごく良くて、誰にも負ける気がしなかったんですよね。そういう手応えを掴んだ時に、グランパスとジェフから練習参加の打診を受けたんです」

そのまま、ふたつのクラブからオファーを受けた深津は、地元を離れて名古屋に加入することを決めた。

2003年、晴れてプロサッカー選手になった深津だったが、待ち受けたのは厳しい現実だった。

「プロでも全然活躍できると思っていました。練習参加した時の感触も良かったですし、ある程度できるだろうなという甘い考えでしたね。でも、実際にプロとして入った時に、レベルの差を痛感しました。スピードもそうですし、身体の強さもそう。何もかもが敵わなくて、そこで一度心が折れました」

自分の甘さを思い知った深津は、そこから必死に食らいついていく。日々の練習に真摯に取り組み、コーチに勧められたサッカーノートも書くようになった。そうした努力が実を結び、深津は10月18日のヴィッセル神戸戦で、ついにデビューを果たすこととなる。しかし結果は散々だった。

プロ1年目でデビューを果たすも、前半で交代というほろ苦い結果に。
プロ1年目でデビューを果たすも、前半で交代というほろ苦い結果に。

「今まで緊張するタイプではなかったんですが、頭が真っ白になるとはこういうことかと初めて知りました。アップ中も、試合中も頭が真っ白で、足も震えていました。『俺、こんな緊張するタイプだっけ?』と思いながらプレーして、前半だけで交代になってしまいました。何もできなかったことだけは、今でもはっきりと覚えています」

結局、その後に深津は出番を得られずにルーキーイヤーを終えると、プロ2年目も出場機会を掴めなかった。そしてプロ3年目の2005年、J2の水戸ホーリーホックに期限付き移籍することになる。

期限付き移籍した水戸では継続的に試合に出場し、ピッチに立つ楽しさを再認識したという。
期限付き移籍した水戸では継続的に試合に出場し、ピッチに立つ楽しさを再認識したという。

「クビを切られる覚悟で水戸に行きました。でも、水戸ではチャンスをもらって、試合の楽しさを初めて学べましたね。最初の10試合くらいは僕のせいで負けた試合が結構あったのに、それでも使い続けてくれた前田 秀樹さんには感謝しています」

試合に出て勝つということの大変さ。1年間試合に出続けるメンタルの難しさ。一方でピッチに立つことの楽しさを改めて知った1年を経て、深津は再び名古屋でプレーする機会を得た。しかし、またしても深津はそのチャンスをモノにすることができなかった。そしてシーズン途中に再び武者修行に出る。向かった先は当時J2の柏レイソルだった。

「水戸の1年で味わった楽しさや厳しさをもう1回求めて移籍しました。レイソルという強いチームに行けるということで、もっと成長できるかなとも考えていました」

ところがそんな深津に悲劇が訪れる。柏での練習初日に足首を負傷し、1か月半も離脱することになってしまったのだ。いきなりスタートで躓いた深津は何とか復帰するも、一度狂った歯車はなかなかかみ合わなかった。そしてある日、許されない行動をとってしまうのだ。

「当時の柏の監督は石﨑 信弘さんだったんですが、すごく練習がきつい監督でした。もしかしたら期待してくれていたのかもしれません。僕を鍛えようとしてくれていたんでしょう。夏場に2部練習をした後に、若手だけで3部練習をやれと言われたんです。その時、僕はお調子者だったので、『もう、いいよ。やらない、やらない』と言ってしまった。当然監督は怒りますよね。でも当時の僕は強がっていたので、『なんで、俺が悪いの?』という不貞腐れた態度を取ってしまったんです。それで構想外になってしまいました」

その後の練習でも、深津は頻繁にコーチと揉めた。「もう、帰れ」と言われ、実際に帰ろうとしたこともあったという。そんな時に止めてくれたのは、北嶋 秀朗や南 雄太という面々。J1復帰に向けて必死に戦うチームにおいて、深津は完全に浮いた存在だった。

「レイソルでは、僕は厄介者でしたね。監督やコーチに不貞腐れた態度をたくさん取ってしまいましたし、先輩にも迷惑をかけてしまった。本当に申し訳なかったですし、もったいない半年間を過ごしてしまったと思います」
結局、深津は天皇杯に1試合出場するだけで柏を去ることとなった。それでも期限付き移籍の身。深津には名古屋という帰る場所があったはずだった。ところがシーズン終了後、深津は契約満了を告げられた。

「正直、名古屋はクビにはならないだろうと思っていました。柏に行く前は何試合か出られましたし、ベンチにも入っていましたから。あと1年くらいは見てくれるだろうと思っていたんですが、甘かったですね」

初めて味わった戦力外通告。これからどうしようと考えた深津が頼ったのは、森山 泰行だった。

名古屋時代の先輩である森山は、2004年に一度引退した後、2005年に地元の岐阜県でJリーグ入りを目指して活動するFC岐阜で現役復帰していた。深津は、クラブ運営にも携わっていた森山からかつて「お前がクビになるならいつでも獲ってやる」と、冗談めかして言われたことがあった。その言葉が深津にとっての頼みの綱だったのだ。
行動は迅速だった。

「森山さんには何も言わず、ひとりで岐阜に行って家を借りたんです。その後に森山さんに電話して、『家を借りたんで、岐阜に入れてください』って(笑)。そのまま岐阜に加入しました」

もっとも当時の岐阜はJFL所属。J1からは2つカテゴリーを下げることとなる(当時はJ3がなかった)。レベルだけではなく、金銭的な部分でも大きく下がることになったが、「お金のことはまったく考えてなかったですね」と、条件にはこだわらなかった。

それでも岐阜での生活は充実したものだった。JFLでは29試合に出場し4得点。J2昇格に大きく貢献した。

「JFLは初めてだったんですけど、試合に出る楽しさを思い出させてくれましたし、J2昇格という経験もできました。苦労はあまりなかったです。楽しくプレーすることができました」

J2昇格1年目も深津はレギュラーとしてプレーした。

岐阜ではレギュラーとしてプレーし、チームのJ2昇格にも貢献した。
岐阜ではレギュラーとしてプレーし、チームのJ2昇格にも貢献した。

「勢いもありましたし、ボロ負けした試合もたくさんありましたけど、楽しくできたと思います。でも、振り返ればサッカーのことを真剣に考えていなかったかもしれません。ただ楽しくサッカーをやっていただけ。上手くなりたいとか、上を目指そうというハングリー精神に欠けていましたね」

そしてシーズン終了後に、二度目の戦力外通告を受ける。

「普通に試合に出てましたし、まさかクビになるとは思ってなかったです。契約交渉の時も、チームメイトと『いくら年俸が上がるんだろうね』と、楽しい話をしていましたから。そしたらGMから『契約更新しない』と言われて。試合に出ていたのに、本当に意味が分かりませんでした」

時の岐阜は経営難に陥っていたことは報道などで知られている。それでも、当事者としては理解できない部分もあったのだろう。

「その時におかしいと腹を立てて、GMに盾を突いてしまったんですよ。そしたら、『お前みたいなやつにはチームを探してやらん』と言われてしまって。『あっ、やばい。俺チームなくなるじゃん』って、事の重大さに気付きましたね」

これから、どうしたらいいのか。その時に改めて湧いてきたのは「もう少しサッカーをしたい」という感情だった。

そもそも深津は、サッカー選手であることに、そこまで執着心を持っていなかった。名古屋を契約満了となった時も、「トライアウトに出るくらいなら辞めてやる」と思っていたという。しかし、この時は違った。トライアウトに参加してでも、サッカー選手であることを求め続けたのだ。

もっとも、J2で下位にいたチームを契約満了となった選手に、Jクラブからのオファーは来るはずもなかった。トライアウトのプレーを見て声をかけてくれたのは、JFLや地域リーグのチームだけ。それでも深津はサッカーを続けるために、限られた選択肢からチームを選ぶしかなかった。ただし、どこでもいいわけではなかった。唯一、自分の中で決めていたことがある。

「僕の中で一線を引いたのはJ2を目指しているチームかどうか。J2を目指してないチームからだったら、サッカーを辞めようと思っていました。その時にオファーをくれた中で、唯一J2を目指していたのが町田だったんです」

深津はこの時、自身のすべてを捧げるべきクラブに出会うこととなったのだ。

後編はこちら>>
「サッカーを舐めていた」自分を変えた1年間の営業マン生活。

 

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