「たまたまアンダーの日本代表に選ばれただけです」
端正な顔立ち、好青年のオーラを放つ人物はそう語り始めた。
青山 隼氏――早くから世代別の日本代表に選ばれてきた早熟のJリーグ選手が次の職業に選んだのは、なんと“俳優”という仕事だ。元Jリーグ選手のセカンドキャリア特集の第3弾は、極めて稀な“転職”を果たした人物だ。
青山氏は、柏木 陽介選手や槙野 智章選手(以上、浦和)などと同じ『調子乗り』と呼ばれた世代の選手だった。だが、直接会ってみると冒頭の言葉のように印象は謙虚そのものである。尖っていたという若かりし頃の面影は今はまったく感じられず、現役時代の体験を通して、理想に向かって努力を重ねる一人の若者のインタビューとなった。
■アンダー世代の日本代表に選ばれ続けた10代
地元・仙台市のスポーツ少年団でサッカーをはじめ、小学5、6年生の時には宮城県選抜に選出。FCみやぎバルセロナでプレーした中学時代は、全国クラブユース選手権に出場するなど全国的な選手に成長していった。早熟の天才肌の少年は、やがてU-14日本代表に選ばれる。高校進学時には名古屋グランパスU-18から加入の誘いを受けた。
青山氏は透き通るような瞳を宙に向けながら、懐かしく振り返っていた。
「15歳の頃ですよね。当時はユースにいくか、大学進学を見据えて地元に残るかを考えました。親元を離れて厳しい環境の中に身を置いた方が成長できるんじゃないか。それで決断しました」
青山氏は未来をかけて名古屋U-18の門を叩いた。だが周囲の風当たりは厳しかった。
「周りの方たちからはどうせ潰れるだろう、プロになれないだろうと言われていたのですが。でも、その言葉が逆に闘志に火をつけました。加入してからはサッカー漬けの日々です。それこそ恋愛もしていませんし、逆に周りの選手が遊んでいると僕は喜んでいた。遊んでいる間、僕だけは練習するよって感じでした」
各年代の日本代表に入るだけのポテンシャルに加えて、日々の努力は彼を裏切らなかった。1年生の時から試合に出場。U-17日本代表にも選ばれた。そして2006年、ユースからたった一人だけトップ昇格を果たした。
■今も忘れられない藤田俊哉選手の“一言”
プロへの階段を駆け上った青山氏だが、名古屋のトップチームで大きな壁にぶつかる。各年代で代表に選ばれていたことで変なプライドが邪魔をした。当時の名古屋は楢﨑 正剛、秋田 豊、藤田 俊哉、中村 直志と錚々たる選手がピッチで躍動していた。
「今思えばあの時にもっと上の人の話を聞いて受け入れて、練習態度を改めて取り組んでいれば、プロ選手としてもっと出来る事があったかも……」
と、後悔の感情を隠しきれない。 今でも忘れられないシーンがある。それは藤田氏に呼ばれ、短い距離でのインサイドキックのパス練習をした時のことだ。
「お前、全然ダメだな! トラップの時のボールの回転が違うし、お前のパスからはメッセージが伝わらない。愛がないんだよ」
その時はうわべだけの返事こそしたが「何が愛だ?」「メッセージって何だ?」という感じで意味不明だった。でも、今はその答えがわかる。
「試合中に味方がスルーパスやサイドチェンジをする。そのパスはトラップから始まる。だから味方がトラップしやすいボールを出さないと次に繋がらない。それが全て上手くいってゴールに結びつく」
藤田氏は若き青山氏にそう伝えたかったのだ。これはジュビロ磐田の黄金期に藤田氏自身が叩き込まれたことだった。今はその言葉を生かしきれなかったことに後悔している。
■レンタル移籍を重ね、やがてJ2徳島ヴォルティスへ
2年間過ごした名古屋グランパスではチャンスが巡ってきたかと思うと怪我や、若さゆえの不遜な態度で目の前のチャンスを棒に振った。結局出番をほとんど得られず、2008年に当時J2のセレッソ大阪、そして翌年には徳島ヴォルティスへ期限付き移籍した。
C大阪でも思うような活躍が出来なかったが、徳島では選手として、人間として、大事な気づきを得ることになる。
「初めは今までと変わらぬ態度でしたが、移籍してから、人のせいにばかりしている自分に気づきました。まぁ、気づくのが遅かった感じですが…。でも人のせいにばかりしていて自分は何もしていないというか。そういう自分に気づいて、自然と考え方が変わっていきました」
きっかけは、一冊の本だった。当時インテルで活躍していた長友佑都選手の書籍である。
「長友さんの本を読みました。内容を大雑把に言うと、心を広く持とう、まず今の自分を受け入れる。そして受け入れたスタンスを持って行動しよう。そんな内容です。そこで普段の生活から変えてみようと思ったのです。狭かった視野が一気に広くなったのを感じて、練習でも、試合でもより周りが見られるようになったんです。俊哉さんが言っていた相手のことを思うとか、こんなパスを出したらいいのかと初めて分かりました。チームメイトとも会話をするようになりました」
何もかもが変わっていった。まず、自分に落ち度があるのではないかと考えるようになった。そういう想いでピッチに立つと、結果に表れていく。出場機会もどんどん増えていった。
■そして浦和レッズへ。心打たれた坪井 慶介選手のひたむきな姿勢
試合出場が増えていくにつれ、J1への思いも強くなっていった。そんな時、本人もびっくりしたという浦和レッズからのオファーがあったのだ。
2011年、当時もタイトル争いの常連だった浦和レッズへの移籍は、青山氏にとって新たなチャレンジとなった。そこで現在も交流が続く、一人の選手と出会う。現在はレノファ山口FCでプレーする坪井 慶介選手だ。
「レッズでは試合に出ていなくてもチームのため、チームが勝つためにメンバー外でも準備をする。プロ選手としては当たり前のことですが、100%どころか120%でやっている選手が多かった。特に印象にあるのは坪井 慶介さんです。ワールドカップに出た選手なのに当時はメンバー外が多かったのですが、若手のケツを叩いて『やるぞ!常に準備だ!』と言って120%でやっている姿を見て、これが本当のプロだと強く心が動かされました」
試合に出場する機会はなかったが、選手、人間として成長する濃い1年を過ごすことになった。
■伯母・篠ひろ子に相談。俳優の道を決める!
浦和では思ったような結果残せず、2013年、再び徳島に戻って念願のJ1昇格を果たした。翌年、徳島はJ1の舞台で戦うことになったが、27歳を迎えようとしていた青山氏はラストチャンスという気持ちで臨んでいた。だが、出場機会に恵まれず、チームも降格。心機一転の移籍を考えた。
「徳島での自分の気持ちとしては、やり切ったという思いがありました。また新しく環境を変えてチャレンジした方が良いと思ったんです」
しかし、移籍先は見つからず徳島で2015年シーズンを迎えたが、メンタルの部分が付いていかなくなる。
「キャンプに入っていく中でぽっかりと穴が空いてしまいました。降格したことも、自分の中で2014年をやり切ってしまったというのが強くて。練習から熱が入らない」
自分がわからなくなってしまい、練習中に「やっている意味がわからない」と告げてピッチから出たこともあった。「引きこもりみたいだった」と当時を振り返る。
悩みに悩み抜いた青山氏は契約を半分残して、2015年7月に引退を決意した。
そして青山氏が次のステージに選んだのは、なんと「俳優業」だった。俳優への道は、たまたま知り合いから冗談交じりに「引退したら芸能関係はどうか?」と言われことだった。だが、大きな後押しになったのは伯母・篠ひろ子さんと夫である伊集院静さんからの言葉だった。
「篠ひろ子さんは僕の母の姉です。芸能は厳しい世界、サッカーも厳しかったと思うが、でもやってみてもいいんじゃないと言われました。『サッカーで培った、スポーツマンのメンタリティー、負けず嫌いなところなどを活かすといいよ』とアドバイスをくれました。
旦那さんの伊集院さんからは『お前の人生だから、お前が決めれば』と言われました。ただ、最後に『やるからには、しっかりと覚悟を持ってやりなさい』と言われたのが後押しとなりました」
ここから俳優・青山隼の一歩が始まった。
■プロサッカー選手よりも、はるかに大変な俳優としての日々
現在は舞台、ドラマや映画など少しずつではあるが一歩一歩セカンドキャリアを確立している青山氏。全く違う世界で輝くために努力と葛藤の日々が続いている。
出演舞台の先輩で尊敬してやまない高橋 努さんには、サッカーに例えていろいろなことを教えてもらっている。
「今回、高橋努さんが脚本演出された舞台に出させていただきました。高橋さんは国士舘大学でプロに行くかいかないかってくらいまでサッカーをやっていた方なんです。稽古中でも、いろいろとサッカーに例えて教えてくれるんです」
ここで名古屋時代の藤田氏の言葉とリンクした。
「台詞ってパスと一緒なんです。高橋さんには『相手が受け取りやすい台詞を言いなさい』と。これ、俊哉さんに言われたことと同じなんです。サッカーも演技も全部つながっているのかなと思いました。作品に対してもっと『愛』を持つべきだとも」
10代に教わった先輩選手の教えが、役者を目指している現在の自分とオーバーラップする。これも人生の不思議なあやである。
■俳優業でも確実に活きている、Jリーグ選手の経験
Jリーグ選手時代の経験は俳優業をやる上で、他にどのように活きているのだろうか。
「メンタルです。稽古中にボロカスに言われても、言われれば言われるほど、『じゃ、できるようにしてやる』と僕は切り替えるんです。言われた時は泣きそうになりますが、やるしかない。やらなかったら自分の負けなんです。そうやって切り替えるようにしています」
しっかりと前だけを見つめて語る今の姿に、チャラいイメージなど一切ない。20代後半になって全くの異業種に飛び込んだ、一人の若者の目は真摯なものであった。
■現役選手はもっと自分のスケジュール管理の習慣を!
新しい人生のステージに挑戦した青山氏に現役Jリーグ選手へのセカンドキャリアについてのアドバイスも聞いてみた。
「自分でスケジュール管理する習慣ですね。朝の30分でいいから朝刊を読む。政治の流れとかをひとつの情報として入れておくのは大事です。こういった行動も時間があるからこそ。自分で時間を見つける、時間を作る。現役の時は1週間の流れがありました。チームのスケジュール管理の中に僕らがいる。引退後は仕事が始まる時間を逆算して考えて、自分で自分の時間を作ってやらないといけない。サッカー選手なら例えば練習が終わったら、この時間は本を読むなど自分でスケジュールをつくって管理する。この習慣が出来れば、現役中も引退後も上手に時間が使えるかなと思います。」
最後に青山氏にとって最大の財産は何かを聞いてみた。
「約30年間、ほとんどサッカーだけの人生だったので人間関係は僕の中ですごく財産です。一緒にプレーしていた槙野とかは今はA代表でも活躍している。彼らの頑張っている姿を見て刺激になりますし、逆に今後は彼らに刺激を与えられる関係を築いていきたいですね」
与えられる。伝えられる。
この言葉は青山氏のキーワードのようだ。今後の夢にビジョンについても、こう語ってくれた。
「サッカー選手は伝えられる、与えられる職業だと思います。俳優も同じです。主役とか脇役とかそういったことではなく、作品に携わって、少しでも見て下さっている方に伝えられる役者というか、人間になるというのが永遠の目標です」
これは華麗な転職物語ではない。Jリーグと同じか、それ以上に厳しい世界にたった一人で飛び込んだ若者の新しい物語だ。役者・青山隼の挑戦はまだ始まったばかりである。
Text By:上野直彦