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プロサッカー選手としての経験、役立てています!~谷川 烈編~

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2018年7月4日(水) 15:30

プロサッカー選手としての経験、役立てています!~谷川 烈編~

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プロサッカー選手としての経験、役立てています!~谷川 烈編~
元Jリーグ選手のセカンドキャリア特集第5弾は、時代の最前線で活躍する谷川氏に、その思いの丈を語ってもらった

清水エスパルスなどで活躍した谷川 烈氏は現在、(株)グライダーアソシエイツで営業部長を務める。
現役引退後に大学に進学、新卒採用で入社した世界的なタイヤメーカー(株)ブリヂストンで国内外の営業に奔走し、「ロシア事業部」に配属されていた頃は、ウクライナ、アゼルバイジャン、ウズベキスタンなどの国々で厳しい業務に勤しみ、結果を出してきた。
転職後の現在は、スマートフォンをメインに「メディアのターミナル」をビジョンに掲げる(株)グライダーアソシエイツにて、キュレーションアプリ『antenna* 』の広告営業部門の責任者として取り仕切っている。『antenna* 』とは、厳選して集めたコンテンツをユーザーに届けるキュレーションアプリで、毎日300以上の良質なコンテンツを配信している。まさに時代の最先端の仕事と言っていい。
キャリアだけみれば、Jリーグ選手の引退後を考える上で、これ以上ないような華々しいものだ。しかし、その裏での谷川氏の取り組みや努力は並大抵のものではない。元Jリーグ選手のセカンドキャリア特集第5弾は、時代の最前線で活躍する谷川氏に、その思いの丈を語ってもらった。

―Jリーグ誕生以前から、プロ選手を目指す―

静岡県静岡市出身。まさにサッカー王国で生まれ育った谷川氏がプロ選手を目指そうと思ったのはいつ頃からなのだろうか。
「プロサッカー選手への夢を抱いたのは、まだ日本にプロがなかった小学生の頃です。僕は1980年生まれなので、小学校の卒業時、Jリーグはまだ誕生していませんでしたが、卒業アルバムには“プロサッカー選手になる”としっかり書いていました」
中学からは清水エスパルスのジュニアユースへ。そしてユースを経てトップチーム入りを果たし、プロサッカー選手になるという夢を実現させている。
「プロ選手になれると本気で思うようになったのは中学3年生の頃、U-15日本代表に選ばれた時からです。ジュニアユース時代に全国優勝を経験したのですが、当時の清水のジュニアユースはすごく強くて、U-15の日本代表が6人もいました。でも、みんながみんなユースに上がったわけではありません。静岡の強豪校に進学して高校サッカーの道に進んだ選手もいました」

今とは違って、高校サッカーのほうが世間の注目度が高かった時代だ。ユースに上がるか、高校サッカーへ行くか。15歳の谷川氏も選択を迫られたが、選んだ道はユースに上がること。環境の良さが選択の理由だったが、結果としてプロへの道が拓かれたので間違いではなかった。だが、それよりも人生の恩師と呼べる指導者との出会いがユースでは待っていた。その出会いは谷川氏の価値観を大きく変えることになる。

―『半年や1年のスパンで右肩上がりなら、それでいい』―

恩師とは、当時清水のトップチームのコーチだった大木 武氏だ。現在、FC岐阜の監督を務める大木氏は、プレー面だけでなく谷川氏たちの生活指導にも携わり、交流もひときわ深かった。
「コーチだったんですが、生活指導もされていました。よく怒られたのを今でも思い出しますよ(笑)。当時の清水エスパルスはトップ登録の選手が24名。なので、トップの練習はユースの選手が参加しなくては成立しない状況でした。それでトップチームは僕らのために練習を夕方に変更してくれて、大木さんは僕らを練習場から寮まで毎日送ってくれたんです」
一緒にトップチームの練習に参加したメンバーには、元日本代表の市川 大祐さんもいた。
「僕や市川は大木さんに育ててもらったんです。今でも絶対に忘れない、大木さんに言われた言葉があります。『良いことも悪いこともある。でも、半年や1年のスパンで右肩上がりならそれでいい』。これは僕がプロに上がった、18歳の時に言われた言葉です。
優れた選手や強い人間でも、当然ながら人生では良いことも悪いこともある。でも、彼らは絶対にブレない。すごく嬉しい場面でも喜び過ぎず、すごく辛い時でも人生が終わったみたいな顔をせずに淡々としている、という意味ですね」
この考え方や価値観は、ビジネスの最前線で戦っている今の谷川氏にとっても人生の指針となっている。
他にも谷川氏は影響を受けた人物として、2人の指導者の名前を挙げる。オズワルド・アルディレス氏とスティーブ・ペリマン氏で、ともに清水の監督を務めた人物だ。
アルディレス氏には「自分は良い選手なんだと思えるように自信を与えてもらった」。「人格者だった」というペリマン氏には、これまでに言われたことのないような指導を受け、初めて気づかされることも多かったという。
その頃、同じポジションを争っていたのは日本代表にも選ばれていた森岡 隆三さんや戸田 和幸さん。練習の時からも厳しい競争の毎日だった。
「正直言うと、なかなか出場のチャンスはなかったですね。でも、今思い出すとすごく楽しい時間でした」
清水時代の貴重で濃密な時間こそが、今の谷川氏をつくったのは間違いないだろう。

―法政大学キャリアデザイン学部へ入学―

2002年のシーズン、選手としてのキャリアに大きな転機が訪れる。高校3年時も含め約5年間プレーしてきた清水で契約延長を勝ち取ることができず、いくつかのチームのキャンプに参加。それでも翌年2月末までチームが決まらず、思い切ってアメリカのトライアウトに挑戦。短期間ではあったが現地のクラブ、ニューハンプシャー・ファントムスでプレーした。
「あれはいい経験でした。その時はまだ英語が喋れたわけでもないのに、たった1人でアメリカに飛び込んで行ったんですから」
後に、谷川氏が海外での厳しい営業業務を続けられたのもこういった経験が少なからず影響したのかもしれない。
2004年にはJ2の水戸ホーリーホックでプレー。8試合に出場して1ゴールを記録するも、シーズン終盤は出番に恵まれなかった。
「契約を切られる、という感覚がありました。そこからJリーグのオファーがなかったら、引退しようと決めていました。JFLや地域リーグに行くという選択肢もあったのですが、自分には長年持っている夢がありました。それは日本代表に入ってワールドカップで活躍すること。現状を考えるとそこまでいくのは難しいだろうと……」

その年の12月末までにオファーがなかったら引退をする決意をした。同時に谷川氏はある行動をとる。大学への進学を考えたのだ。
「日本の会社というのは就職の条件に“大卒”という条件が多い。親からも大学に行ったらというアドバイスをもらったんです。これまでの人生、全てをサッカーに捧げてきました。Jリーグの選手ならみんなそうでしょう。だから、自分がサッカー以外に何が好きなのか?どんなものに興味があるのか?どういう道に進みたいのか?すぐに答えが出るわけではありませんでした。ただ、適当に流されていくのだけは嫌でした」
次に自分はどこへ向かうべきか。それを見つけるためにも大学進学を選んだ。社会人入試を実施していた法政大学のキャリアデザイン学部に見事合格すると、そこで現職に繋がる出会いがあった。受講していたゼミの先生が、サバティカル(長期休暇)に入り、特別講師としてやってきたのが、現在勤める会社の代表である、杉本 哲哉氏だった。
「杉本さんは当時、インターネットのマーケティングリサーチの先駆けだった株式会社マクロミルの創業者で、現在は僕が働いている会社の社長です。リクルート社で8年間働き、その後にマクロミルを起業。そこから5年で東証1部上場を果たしたんです。ゼミの内容も本当に面白くて、こんな凄い人が世の中にはいるんだ…という印象でした。そこで学んだ2年間が僕のセカンドキャリアに大きな影響を与えました」
まったくの偶然だったが、あのタイミングで水戸での契約が終わっていなかったら、この出会いはなかっただろう。人生万事塞翁が馬というべきだろうか。

―「サッカーが武器になった」ブリヂストン時代の海外営業―

大学4年生の時の就活はとても有意義だったようだ。
「ゼミでたくさん勉強もしていたし、就職活動は一生懸命やりました。就活は二つの大きな軸で動いていました。一つはいずれ起業家になるという軸、もう一つはグローバルに活躍するという軸でした」
多くの企業から内定をもらうなか、2009年にブリヂストンに入社する。ブリヂストンを選んだ理由は、売上4兆円を超えるような大きな会社がどのように動いているのかを学びたいということだった。そして文字通りグローバルな仕事を経験することとなる。約5年間、旧ソ連のCIS諸国(ウクライナやアゼルバイジャンなど)を中心に営業活動に奔走。その仕事をするにあたり、とても役に立つ武器を谷川氏は持っていた。
「そこで、サッカーが武器になりました」
サッカーは世界的に人気のあるスポーツで、谷川氏が元プロ選手だと聞くと現地のお客様の社内サッカー大会に出場してくれないかと依頼されたこともあった。またイングランドのプロチーム・トッテナムが好きという人がいたら、アルディレスとペリマン(かつてトッテナムで選手や監督だった)の下で2年間プレーしていたという話をすると、スッと距離間が縮まって、営業マンとしてはすごく武器になりました」
グローバルに活躍することにサッカーが役立ったが、もう一つ、サッカー経験があったからこそ得ることができたと考えている力がある。
「僕だけではないですが、サッカー選手は基本的にPDCAサイクルを回す習慣が身に付いていると思います。今の自分はこういう状態だが、今後こうなりたい。だからこの練習が必要である。次の試合にはこの目標と課題を持ってプレーをしよう。そして実際にプレーして、ここがよかった、ここができなかったとチェックする。だから次は、こういうトレーニングをしよう。この繰り返しを毎週やってきて成長してきました。Jリーガーにはその経験がベースとしてあると思います」

―将来自分で事業を作れる力をつけたいと思った―

ブリヂストンに6年勤めた後は現職のグライダーアソシエイツに転職する。タイヤ販売の営業とは180度違う、スマートフォンアプリの仕事である。何故この仕事を選択したのだろうか。

「将来自分で事業を作れる力をつけたいと思ったためです。実際に入ってみて、みんなオーナーシップをもって働いていることに刺激を受け、日々意欲に燃えながら働くことができています。僕らがやっている仕事はプロがつくったコンテンツを集めて自社のアプリ『antenna* 』の中で、より多くの人に提供する。これが『antenna* 』の役割です。その中で僕は営業チームを束ねていて、広告代理店やクライアントを訪問し、『antenna* 』を活用してクライアントの課題を解決する提案をメンバーと共にしています」

 

そう語る谷川氏は、まるで少年のようなワクワクとした表情を浮かべた。実際、今の仕事は楽しくて仕方がないそうだ。名経営者である杉本氏のそばにいて、将来自分が経営者になるための勉強もさせてもらっている。谷川氏にとっては最高の職場のようだ。
「杉本さんからは本当に多くのことを学んでいます。よく言われる言葉は『どうなったら幸せになるかを考え続ける』です。自分がどうなったら幸せなのか? 一般社会では安穏と過ごしていてもそれなりに生活ができます。でも、しっかり考えている人は、自分たちで思い描く幸せを確実につかんでいる。それを成功者と呼ぶ。そこに向かって逆算してやっていくことが大事なのだと、そういった人生観を杉本さんからは学びました」

―自分よりもレベルが上の人と過ごすことで、自分が伸びる―

どちらの会社でも結果を残してきた谷川氏。この特集でも初めてのパターンだが、Jリーグ選手としての経験はどのように活かされているのだろうか。
「水戸では戦力外通告を受け、Jリーグから引退しましたが、そこから這い上がってきた経験が大きいと思っています。とにかく逆境には強くなりました。落ち込むこともありますが、何とか踏ん張る力には自信があります」
ただ一方で、社会はそんなに甘くないとも言う。特にビジネスの世界にも当たり前のように凄い人たちがたくさん存在する。
「人生を振り返ってみて、自分のサッカーが一番伸びたのは、高校生の頃にトップチームの練習に参加し始めた頃です。自分よりもレベルが上の人と過ごした時が一番伸びた。この学びはビジネスの世界に入ってからも変わらないので、自分の周りに凄い人が多いということは有難い状況です」
これは谷川氏だけでなく現役の選手たちも皆同じだと考えている。また、現役の選手たちへは、こうも思っている。
「サッカーに対して本気でやった方がいい。僕がもし本気でやっていなかったら、やりきっていなかったら、こんなに次のステージへの切り替えがうまくいっていなかった」
Jリーグでも、ブリヂストンでも、今の仕事でも、目の前のことを全力でやりきる。これが現役の選手に一番伝えたいことだ。

 

―夢は…Jクラブのオーナーになることです!―

最後に、谷川氏に今後の夢を語ってもらった。経営者になりたいという強い軸があるとは聞いたが、それはどのような会社なのだろうか。
「自分で事業を起こして成功して、Jクラブのオーナーになることが夢ですね。夢としては思い描いていたい。熱意も湧きます!」
谷川氏のこれまでの実績と全力で仕事に取り組む姿勢からすると、ハードルは高いが実現は難しくないように感じられる。もしかしたら、次回のインタビューの時は、Jクラブの代表としてかもしれない。その日が今から楽しみである。

Text By:上野直彦

 

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