驚きのシンデレラストーリーを突き進む小池龍太(柏レイソル)は、果たしてどのようなサッカー人生を歩んできたのだろうか。「本当に濃かった」と本人が振り返る、紆余曲折のストーリーに迫っていく。(前編はこちら)
山口での生活は、小池龍太にとって厳しくもあり、刺激的でもあった。
高卒1年目ながら早い段階で右サイドバックのレギュラーポジションをつかむと、Jリーグ昇格を目指すレノファ山口FCの躍進に貢献。攻撃スタイルを標榜するチームにおいてアグレッシブなプレーを示し、攻守両面で存在感を放っていた。
一方で、生活費を得るために、試合がない日はサッカースクールのコーチとして、県内の小学校を回った。「午前中に練習をして、午後はスクールで子どもたちを教える生活でした。当時は試合に出ていたので、なるべく試合を優先してくれましたけど、週に3回くらいはコーチをやっていましたね」
勝利給は一応あったが、微々たるもの。スクールコーチの収入が、小池の生活を支える最たる手段となっていた。
当然、贅沢はできない。寮はなく、住まいはクラブが提供してくれた5畳程度の小さなアパート。食事管理も自らで行い、自炊が中心だった。
そうした環境にもまれながら、小池は1年目で17試合に出場。チームはJFLで4位となり、Jリーグ参入条件をクリアして、翌年からのJ3で戦う権利を勝ち取った。
「Jリーグでやれるというワクワク感もありましたけど、僕はもちろん、他のチームメイトもJリーグでやったことのある選手がほとんどいなかったので、正直、どういったことをすればいいのか分からなかったですね。でも、全員が挑戦者で、怖い物知らずだったことが、逆に良かったかもしれません」
その言葉通り、翌年も山口の快進撃は続く。パスを主体とした攻撃サッカーで、J3リーグを席巻。終盤に失速したもののそれまでの貯金を生かして、昇格1年目にしてリーグ優勝、そしてJ2昇格を成し遂げたのだ。異例のスピードでカテゴリーを駆けあがっていくチームにおいて、30試合に出場し、初ゴールも奪った小池も大きく貢献。そしてこのJ2昇格が、小池にとってプロサッカー選手としてのスタートとなったのだ。
「実はJ3のときも、アマチュア契約だったんです。だからJ2に上がったタイミングで、ようやくプロ契約を結びました。責任を感じましたし、もっとやらなければという想いも湧いてきました」
プロ契約と同時に、小池は人生の大きな決断を下している。
「サッカー選手として食べていけるめどがたったので、当時付き合っていた今の奥さんと、結婚することを決めました。自分なりに覚悟を決めて、その年の夏に結婚したんです」
公私ともに充実を図る小池は、本格的にプロ選手としてのキャリアを歩み始めた2016年、J2の舞台でも結果を残していく。攻撃スタイルでJ2でもインパクトを放った山口において、シーズンを通してフル稼働。42試合に出場し3ゴールと、十分な結果を残した。
この年、小池はこんな思いを抱いてプレーしていたという。
「J2で結果を出して、J1のチームに移籍したいと考えていました。もちろん、1年やっただけで行けるとは思っていなかったんですが、運よくレイソルが声をかけてくれました。びっくりしたけど、見てくれていたんだなって、本当にうれしかったですね」
高校卒業後、イメージしていた自身の姿はJ1のステージで躍動することだった。しかし現実は、アマチュア選手としてバイトをしながら、JFLでプレーしていた。それからわずか3年、小池は自身の思い描いていた舞台へと、瞬く間にたどり着いたのだ。
その驚異の成長物語の原点は、やはり18歳の冬、山口行きを決めたことにある。
「僕の人生はすごく濃いので、いろんなところにターニングポイントはありますが、やっぱり山口に行ったことが一番大きかったと思います。現実とは違うことを思い知らされたし、だからこそ、ここまで来れたんだと思っています。あの決断を下したことが、間違いではなかったと、今となっては思えますね」
そして柏に移籍し、J1の舞台へと足を踏み入れた2017年、小池は新天地でもレギュラーの座を掴み、チームの躍進の一端を担った。
「1シーズン、怪我なく過ごせたのは良かったと思っています。怪我をせずに試合に出続けるのはマストでやらなければいけないことなので、自分でも合格点を与えられるかなと思います」
手応えをつかんだ一方で、課題も見つかった。
「やっぱり、強烈な外国籍選手もいますし、当たり負けをしない身体を作らなければいけないと感じました。アシストやゴールという数字も残せなかったので、そこは今季の課題として取り組んでいきたいです」
JFL、J3、J2、J1と急激なスピードでステップアップを果たすなか、なぜ小池はすぐさまそのレベルにアジャストできるのか。そこには、常に高みを見つめ、次をイメージしてきた確かな“準備力”があるからだ。
「たとえばJFLの時はJ3で戦うためにやっていましたし、J3の時はJ2で戦うためにやっていた。翌年の準備をしながらそのシーズンを戦っていたんです。だから、ステップアップしたとしても、準備しているから物怖じせずに戦える。去年は初めてのJ1でしたけど、ACLに出るためにやっていました。そうやって準備をしてきたので、今年は初めてのACLでも、しっかりとプレーできると思います」
現状に満足せず、常に上を狙い続ける。すでに小池には一流選手としての資質が備わっているようだった。
ただし小池は、決して自我を押し出すような選手ではない。サイドバックというポジションながら、いかに周囲を生かし、チームのために役立てるかを考え続けている。
「レイソルにはクリスティアーノをはじめ、強烈な個性を持った選手がいますけど、彼らを引き立てる選手がいるからこそ、チームとして機能できる。タニ君(大谷秀和)だったり、汗をかける選手が近くにいるのは、自分の中ですごく勉強になります。チームのためにどれだけ汗をかけるのか。評価されづらい部分だと思いますが、自分もそういう選手になりたいですし、そういった細かいところを見てもらいたいなと思います」
すでに、ひとつの成功体験を手に入れた小池だが、次なるステージも視野に入れている。それは、プロサッカー選手であれば誰もが目標とする、日本代表入りである。
「今年はワールドカップがありますし、そこを狙っていないと言ったら嘘になります。でも現実を見れば、この3か月で結果を出さないといけない。決して不可能とは思わないですけど、たとえそれが実現できなくても、これから先に自分の人生を考えた時に、できるだけ早く日の丸を付けて戦う選手にならなければいけないと思っています」
年代別を含め、小池はこれまでに「代表」と名の付くものとは疎遠だった。にもかかわらず、「代表」と口に出せるのは、確かな自信が備わっていることに加え、チームメイトの存在も大きいだろう。
「(伊東)純也や(中村)航輔が代表のユニホームを着てプレーする姿を見て、刺激を受けましたし、僕だけじゃなくて、中山(雄太)をはじめ、早くそこに行きたいと思っている選手もたくさんいる。自分もそれに負けないように努力をして、3か月後にサプライズでもいいですし、たとえ3か月後ではなくとも、早い段階で自分の名前を挙げられるようにしたいですね」
確かにスタートは遅れたかもしれない。しかし、小池が歩んできた道のりは実に力強く、そこには一切の迷いが感じられない。目標に向かって前を向き、ただ一点に向かって突き進む。だからこそ小池は、これほどまでに急激な成長を実現できたのだ。
そのキャリアを歩む中で、小池には大事にしてきた言葉がある。
頑張る時はいつも今――。
小学校時代に所属した、横河武蔵野FCの監督にもらった言葉だ。
「サッカーの試合もそうですし、遊びもそうですけど、自分の中で常に100%じゃないと何も得られないと思っています。当時はあまり理解できなかったのですが、今となってはその言葉の意味がよく分かります。今を100%でできなければ、次はない。100%でない時に怪我をしますし、100%でやらなければ、来年クビになるでしょう。もちろん100%でやっても負ける時はありますけど、100%でやるからこそ成功率が高まる。それは間違いないことです。だから、試合の前や練習の前には、必ずその言葉を思い出すようにしています」
どんな時でも全力で取り組む。だからこそ、成長できる。彼の歩みこそが、その言葉を証明している。
JFLからJ1に上がっていったこの短期間の中で、生活環境も大きく変化したという。
「全然違いますね。本当にありがたいことですけど、5畳くらいのボロボロのアパートだったのが、おかげさまで今ではマンションに住めていますから(笑)。でも僕はそういった苦しい時代を知っているので、上を目指して、今を100%で頑張れる。だからあのJFL時代を経験できたのは、本当によかったと思います」
厳しい環境から瞬く間に這い上がってきた男は、その歩みを決して止めようとはしない。果たしてどこまで上り詰めるのか。シンデレラストーリーは、まだ物語の途中である。