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【J2日記】横浜FC:横浜FCの創生期を支えた、パワフルなアイディアマン田部和良氏。道半ばでの永眠(14.05.10)

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横浜FCだけでなくサッカー界にとって悲しい知らせが飛び込んできました。1998年12月の横浜FCの創立時から、横浜FCというクラブをゼロから形作っていく仕事の最前線に立っていた田部和良氏が2014年5月9日午前5時45分、逝去されました。横浜FCでは、クラブ創設時の1999年から2003年シーズンまで取締役シニアマネージャー、スポーツマネージメント・ディレクターを歴任されました。2004年から2007年までフランスのグルノーブル・フット38のゼネラルマネージャーを務め、その間大黒将志(現・京都)、梅崎司(現・浦和)、伊藤翔(現・横浜F・マリノス)などを加入させています。さらに、その後、福岡、琉球のゼネラルマネージャーを歴任し、Jリーグのアジアアンバサダーとしてベトナムでも活躍していました。

ご存じの通り、横浜FCというクラブは、1998年末に発表された横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併に端を発して生まれたクラブです。そのクラブの創立に当たっては、ファン、サポーター、選手、そしてサッカー界全体の様々な、そして強い思いが入ってきていました。市民によるソシオ制度を始めとして、合併という出来事に対して、様々な角度で少しでも改善、改革をしていこうという思いは、非常に強いものでした。一方で、すべての思いをすべて満足させることはできず、また親企業を持たない中でクラブを形作っていく必要があるという制約もまた、非常に苦労の多いものだったと思います。

田部氏のアイディアあふれる、またパワフルなスタイルは、多くの制約の中で様々な思いをクラブという形にしていくためには不可欠でした。1つの象徴的な例として、田部氏が2000年5月18日に発表した「横浜FCモデルのユース組織」というリリースがあります。横浜FCにはお金やグラウンドといった十分なリソースがない中、部活動に苦労する学校などを取り込むことで、学校や地域と強く協力をしてユース組織を構築しようという、かなり意欲的な構想でした。この構想をもとに、水島武蔵氏(現・藤枝監督)をユース組織のテクニカルディレクターとして据え、横浜FCのユース活動は始まりました。チーム設立2年目、まだJFLにいる段階ながら、ユース活動を最重要と考え意欲的かつアイディアにあふれる構想をスタートさせたことは、今振り返っても驚きに値をすると思います。
ユース設立から15年。その間にユースの運営は変わっていきましたが、現在は小野瀬康介、高丘陽平、石井圭太などトップチームに継続的に選手が昇格し、ユース世代の代表候補にも名を連ねるようになり、木下康介のように直接海外のクラブに行く選手が出るようになっています。もちろん、それは15年間のユースの活動に携わったすべての人の努力の賜物ですが、その種は早期からユースへの意欲を持っていた田部氏にもありました。

そしてパワフルさという点では、これもリソースの制約がある中、特に高校世代の選手の発掘に力を注いだことも挙げられます。2002年に内田智也とともに獲得した石田雅人について「FKがすごいんだよ」とうれしそうな、わくわくした表情で語っていました。石田は初年度は内田を上回る18試合に出場。その後はケガもあり、大きな活躍はできませんでしたが、田部氏が若手発掘に賭けた情熱は今でも思い出されます。

パワフルなアイディアマンというスタイルは、いつでもうまくいくということではないと思いますが、混乱かつ多くの人の強い思いが交錯する中で、クラブを1つの方向に形作っていくという段階においては、田部氏が必要であったことは間違いありません。何があっても前を向いて進むしかなかったあの時代のことが改めて思い出されます。
5月11日に行われる第13節・松本戦で、横浜FCの選手は喪章をつけて戦い、そしてご逝去後初めてのホームゲームとなる5月24日の第15節・ホーム千葉戦では、かつて田部氏が強化を担当した千葉の選手たちもともに、両チームで黙祷を行い喪章をつけて戦います。あらためて横浜FCがたどってきた軌跡を思いながら、試合を見つめたいと思います。

謹んでご冥福をお祈りします。

以上

2014.05.10 Reported by 松尾真一郎
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