高萩洋次郎が、腕を右から左に振った。
「みんな、ゴール裏に移動してくれ」
「10番」の意思を汲み取った紫民族は、一気に大移動。あっという間に紫の壁が、ゴール裏に出来上がった。気温8.0度。底冷えのする寒さに覆われたエディオンスタジアム広島を覆う鉛色の雲。薄暗い状態から一筋の光を求めたサポーターは、声援を一人の男に注ぎ込む。立っていたのは、背番号1だ。
「広島の1番は重い」
固定背番号制になって以降、前川和也と下田崇しか背負っていない1番の歴史的価値を十分に理解している男は、1万人の声援を受けて、ゴールマウスの前に立った。PK戦である。
先攻の甲府、まずジウシーニョが決める。その勢いを持続させるべく、青のサポーターの声援を受けてゴールマウスに立ったのは、岡大生だ。今季の第33節・対名古屋戦でリーグ戦初出場を果たした若きGKは、広島戦でも好セーブを連発し、勢いに乗っている。ただ、広島の1人目・青山敏弘の自信に満ちた豪快なキックには、なす術はなかった。
再び、1番がゴール前に立つ。激烈な西川コールの中、甲府の2番手・福田健介がボールをセット。キックの精度に自信を持つワイドアタッカーは、西川の顔を見ることなく駆け引きするも、シュートはポストを叩く。紫の大歓声。青の悲鳴。広島の2番手・水本裕貴がしっかりとボールを枠内に収めると、紫の叫びはさらに増幅された。
失敗できない重圧の中、甲府は若武者・三幸秀稔に運命を託す。今季限りで契約満了となった若きMFは、落ち着いたシュートで甲府の決壊を食い止めた。彼の将来に、このゴールが大きな光となって差すことを、祈りたい。
広島は左足のスペシャリスト=パク・ヒョンジンが、長い時間をかけて精神を集中させた上で、ゴール左隅に決めた。飛躍に期待のかかるルーキーのゴールに、エディオンスタジアム広島の熱気はさらにヒートアップ。
騒然とした空気の中、甲府の4番手は水野晃樹。かつてセルティック(スコットランド)でプレーした経験を持つアタッカーは、西川の動きを見た上でインパクト。だが、日本代表GKが発する空気とスタンドの紫の塊から発せられる圧力が、爆発的な右足にブレを呼んだ。ボールは、大きくゴールマウスを外れる。
さあ、決めれば広島の勝利だ。ボールをセットしたのは、ミハエル・ミキッチ。右サイドの大天使に、1万人の紫が期待する。青のサポーターは、若き守護神のセーブを待ち望む。結果は、枠外。スタジアムの一角で必死に闘ってきた甲府のサポーター、安堵。
ゆっくりと西川周作がゴールマウスの前に立つ。圧倒的な空気感。それは、マルキーニョス・パラナのシュートを止めながらやり直しを命じられた後、さらに増幅した。
「目が泳いでいる。止められる」
背番号1の余裕とスタジアムの圧力に導かれるように、マルキーニョス・パラナのキックが枠の外に逃げた。その瞬間、1番はサポーターの方に振り返り、胸を叩いた。
厳しい試合だった。前半、美しいヒールトラップから頭越しのボールを右足ボレーで叩き込むという佐藤寿人の信じ難いゴールで先制したJ1王者だったが、その後の決定機を決められず、前半終了間際にオウンゴールで追いつかれる。後半も甲府の素晴らしい堅守とカウンターに苦しみ、決定機すら奪えない。
甲府にビッグチャンスが訪れたのは85分。石原克哉が右サイドを突破、クロスに合わせた柏好文の強烈かつ至近距離からのシュートは、「勝利」を確信させた。しかし、この決定機に立ちはだかったのは、西川周作。PK戦も含め、広島の1番が見せた迫力に甲府は屈した。
「あの粘りは見習わないといけない」と水本が指摘する甲府の頑張りは、この試合に緊迫感を与えた。山本英臣や土屋征夫ら多数のケガ人を抱え、エース・パトリックも万全でない状況でも120分間戦い抜いた選手たちに、甲府のサポーターは大きな拍手を贈った。その賞賛に値するパフォーマンスだった。
ただ、甲府の奮戦も「全広島の力を結集した」(森保一監督)紫の力の前に砕けた。甲府撃破に貢献した表のマン・オブ・ザ・マッチが西川だとしたら、裏のマン・オブ・ザ・マッチは森崎和幸だろう。ため息しか出ない美しいボール奪取。甲府のプレスにも全く慌てず、広島名物の低い位置でのポゼッションを司り、試合の操縦桿を握った。試合後、森保監督が「素晴らしいプレーを見せてくれた」と絶賛するのも当然のパフォーマンスは、広島の基盤である。
西川・森崎和・佐藤と、センターラインを支える主軸の奮闘で、広島は2007年以来7度目となるベスト4進出を果たした。ただ、広島の野望はまだ、道半ば。1969年、前身の東洋工業時代に手にして以来の天皇杯優勝の栄誉。2007年に鹿島が成し遂げて以来の「ダブル」達成。その大目標を前に立ちはだかるF東京撃破を見据え、紫の戦士たちは静かに、準備を開始する。
以上
2013.12.23 Reported by 中野和也
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