本文へ移動

今日の試合速報

国立競技場に10,000名様無料ご招待 9/14 19:00KO 国立競技場 FC東京vs名古屋
国立競技場に10,000名様無料ご招待 9/14 19:00KO 国立競技場 FC東京vs名古屋

J’s GOALニュース

一覧へ

【FCWC特集】アフリカ代表 アルアハリ(エジプト)の強さに迫る!クラブ紹介 Vol.2(08.12.04)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
2008年のアフリカ王者に輝いたのはエジプトのアルアハリ。アフリカで20世紀最優秀クラブを受賞した名門クラブの現在の姿に迫る!

チケット最終販売中!FIFAクラブワールドカップのチケット情報はこちらから!
J's GOAL FCWC特集サイトをチェック!

アルアハリのクラブ紹介Vol.1はこちらから>>

■過去の有名な選手たち
・ムクタール アル テッチュ(1905〜1965) 
1922年にデビューして以来、約17年間アルアハリーに所属。ナショナルチームの選手としても活躍。身体は小さかったが、俊敏で身軽な動きが有名だった。『テッチュ』というのはニックネーム。当時のイギリス提督が彼の動きを見て、『サーカス団員のようだ』ということで名づけたという。現在アルアハリークラブの練習場には、彼の名前が付けられている。
オリンピックには三回出場。1924年パリ大会が初参加となり、1928年アムステルダム大会ではベストレフトウィングに選ばれる。世界選抜チームに選ばれ、ヨーロッパ選抜との試合にも出場した。4年後の1936年ベルリン大会では、ベスト12プレイヤーに選出されている。

・サーレフ セリーム(1930〜2002年)
ニックネームは『マエストロ』。チームの指揮者と呼ばれ、MFとしての才能に優れた選手だった。1948年〜1967年まで所属。在籍中にはエジプトリーグに11回優勝、エジプトカップで8回優勝している。合計19回の優勝経験があるのは、現在まででも彼一人しかいない。1試合で7ゴールを決めたという個人記録も持っている。
ルックスが良く50〜60年代には大人気となり、映画にも俳優として出演した。1980年からは、アルアハリクラブの13代会長に就任。2002年に亡くなるまで会長を務めた。彼が会長をしていた時代は、アルアハリにとってのひとつの黄金時代だった。彼の亡くなった後、クラブの前の公道には彼の名前が付けられ、クラブ中央には彼の銅像が建てられた。


サーレフ・セリームの銅像


・マフムード アル カティーブ(1961年生まれ)
エジプトサッカー界で最も才能があった選手と言われ、伝説のMFとまで称されている。アルアハリーには1971年〜1987年まで在籍。クラブとナショナルチームの両方でプレイメーカーとして活躍し、450試合に出場、一度もカードを貰わなかった。この事から国際フェアプレイ委員会のメンバーにも選ばれている。1983年度のアフリカ大陸ベストプレーヤーを受賞。
彼の評価は今なお衰えることなく、2000年には「20世紀エジプトベスト選手」に選ばれている。さらに2007年には、アフリカサッカー連盟が選ぶ「歴史的サッカー選手30名」にも選ばれた。現在はアルアハリークラブの副会長を務めている。

他にも多数の選手がナショナルチームに選抜され、数々の記録を残している。


■現在の有名な選手たち
・モハメド・アブトレイカ(1978年生まれ)
背番号22番MF。間違いなくエジプトで一番人気のあるサッカー選手といえる。2003年にテルサナクラブより移籍。クラブチームでは、エジプトリーグ4回、エジプトカップ2回、アフリカチャンピオンズリーグ3回、アフリカスーパーカップ2回の優勝経験を誇る。エジプトナショナルチームとしても、アフリカンネーションズカップを2回(2006、2008)制覇。常にチームの中心選手として、輝きを放ち続けている。
2006年度のクラブワールドカップでは3位となり、自身も3ゴールを決めて得点王となった。今年のアフリカ大陸ベストプレイヤーの候補者5人に入っている。

・モハメド・バラカート(1976年生まれ)
背番号8番、2004年より在籍。2005年アフリカチャンピオンズリーグのベスト選手に選ばれている。中盤の重要な選手であり、高い技術を持っている。ボール扱いがうまい。

・アマード・フラビオ(1979年生まれ)
背番号23、アンゴラ人。2005年にクラブへ加入。アンゴラ代表チームの中心メンバーとして活躍しており、2006年ドイツワールドカップに出場。イランとの試合で、アンゴラチーム大会唯一となる1点を記録した。アルアハリーにとって、なくてはならないストライカーである。

・アハマド・ハッサン(1975年生まれ)
背番号17、MF。選手としてのスタートは、エジプトの南の町アスワンクラブ。その後イスマイリクラブへ移籍、1998年にはトルコリーグへ活躍の場を移し様々なチームを渡り歩いた。ベシクタシュ在籍時に優勝し、UEFAチャンピオンズリーグに出場した経験もある。その後活躍が認められ、ベルギーのアンデルレヒトに移籍。クラブに2度の優勝をもたらした。2008年からアルアハリーに所属している。
エジプト代表でも、1997年に選ばれて以来、コンスタントに活躍。アフリカネーションズカップで3度(1998、2006、2008)の優勝を経験。過去150の国際試合出場は、歴代9番目の記録となっている。現在はキャプテンも務める。


■過去のクラブワールドカップ
2005年の初出場時には、初戦でアル・イテハド(サウジアラビア)に1‐0で敗戦。これでアルアハリの55試合連勝記録がストップしてしまった。5位決定戦ではシドニーFC(オーストラリア)にも2‐1で敗れ、最下位となってしまう。アルアハリが自信を持ちすぎていたのと、来日が直前すぎたため選手の体調が万全でなかったのが敗因だと言われた。

二度目の出場となった2006年大会は、「今度こそ恥ずかしくない結果を出す」と宣言しての参戦。初戦でオークランドシティ(ニュージーランド)を2‐0で下し、見事準決勝進出を決めた。準決勝で対戦したインテルナシオナル(ブラジル)との試合は、この大会で一番面白かった試合とも言われている。結局、1‐2で敗れたものの善戦し、3位決定戦ではクラブアメリカ(メキシコ)に勝利し3位の座を勝ち取っている。

なお、この2006年大会でモハメド・アブトレイカは3得点を決め、大会の得点王に輝いている。ちなみに、2得点を決めたFWフラビオも2位に輝いている。

過去2大会合わせて2勝3敗、6得点6失点。今回3度目のクラブワールドカップ出場は、最多出場回数となる。


■アハリーの戦略・特徴など
エジプトのサッカーチームでは、よく首脳陣の間で揉め事が起こり、サッカー以外の部分で問題を抱えてしまうケースが多い。そんな中でアルアハリはマネージメント力に優れ、クラブ経営状態も良く、落ち着いた揉め事がないクラブと言われる。

システムとしては、エジプト代表や多くのエジプトのクラブチームと同じように、3‐5‐2、または3‐5‐1‐1のフォーメーションを採用している。中盤にはできるだけ多く、5人の選手を配置。前線の選手とミッドフィルダーは、それぞれのポジションを頻繁に交換し、攻めの形をつくっていく。FW選手が右サイドや左サイドに開く場面が多く見られ、代わりに二列目からの飛び出しを重要視する傾向がある。つまり、アルアハリーの中枢は選手の集中する中盤だ。攻撃と守備の両方を高いレベルでこなせる、器用なミッドフィルダーが多いのも特徴のひとつ。また、チームワークの良さも武器であり、個人プレーではなく全員でパスを回してゴールまで持っていくのが、得意とするスタイルだ。


■監督について
マヌエル・ジョゼ(ポルトガル人) 1946年生まれ
アルアハリーを優勝へ導くこと15回。歴代監督の中でも、最も優勝を勝ち取った人物としてクラブから厚い信望を得ている。 本人は16歳でポルトガルの名門ベンフィカに入団。ポルトガルのユースカテゴリーでは代表にも選ばれており、大会で銅メダルをとったこともある。引退後に監督となってからは、ポルトガルのチームを渡り歩き、スポルティング・リスボンの監督も務めた。2002年にはポルトガル代表の監督に就任しているが、すぐに協会の会長と揉め退任。2001年からアルアハリの監督に就任している。
アルアハリーでは監督に就任した年にCAFチャンピオンズリーグで優勝。2002年アフリカスーパーカップでも優勝したが、国内リーグで優勝できなかったため退任している。だが2004年、アルアハリからの再度の要請により、再び監督に就任。今に至っている。個性が強く、少々神経質な監督だが、指導の才能があり抜群の統率力があると評判だ。選手たちやサポーターも、彼を尊敬していると言われる。

アルアハリのクラブ紹介Vol.1はこちらから>>

取材協力:多美子 BAGHDADY

◆FCWC無料携帯サイトでもコンテンツを続々追加していきます!
 まずは下記QRからアクセス!&Bookmarkを!


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

旬のキーワード

最新動画

詳細へ

2024/08/04(日) 00:00 ハイライト:横浜FCvs千葉【明治安田J2 第25節】