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【FCWC特集】世界のクラブの頂点を決める、ACLの向こう側にある世界最高峰の大会!FIFAクラブワールドカップのヒストリー(07.11.05)

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クラブチームのナンバーワンを決めようという試みは第2次世界大戦前からあったが、1955−56年シーズンについに欧州チャンピオンズカップが始まった。第1回大会の参加は16チームだけだったが、欧州サッカー連盟(UEFA)の公認も得て次第に参加国も拡大し、権威ある大会として定着した。

欧州での成功を見て、南米サッカー連盟も大会の創設を決定。これがコパ・リベルタドーレスだ。1960年の第1回大会ではウルグアイのペニャロールが優勝し、同年には欧州チャンピオンズカップで5連覇という偉業を達成したレアル・マドリード(スペイン)との間でホーム&アウェー2回戦で世界一を決めるインターコンチネンタルカップが始まった。この大会も、欧州チャンピオンズカップと同じく、フランスのアンリ・ドロネーの提唱によるもので、両大陸連盟が主催。FIFAは関与していなかった。当時は、欧州、南米と他大陸との間の実力差は大きく、両大陸王者の対戦が世界一決定戦であることにまったく異論はなかったのだ。第1回大会では、アルゼンチン出身のディステファノ、ハンガリー出身のプスカシュら世界のスーパースターを擁したレアル・マドリードが、アウェーで0-0の引き分けの後、ホームでの第2戦でペニャロールを5−1で破り、その攻撃力を世界に示した。

インターコンチネンタルカップが大きな注目を集めたのは62年大会だった。南米代表はブラジルのサントス。サッカーの王様ペレのいるチームだった。当時は、今日と違って南米のサッカー情報は欧州にはあまり知られていなかったが、58年のワールドカップスウェーデン大会に17歳でデビューしたペレはあまりにも有名だった。一方、欧州からはポルトガルのベンフィカが出場。こちらにはアフリカのモザンビークから欧州に渡ってきたばかりのエウゼビオがいた。66年ワールドカップイングランド大会で得点王となり「黒豹」の異名をとることになるストライカーだ。両者の対戦は期待通りの点の取り合いとなり、ホームで3−2、アウェーでも5−2と連勝したサントスが優勝。サントスは、63年大会でもイタリアのACミランを破って連覇を飾る。

こうして人気を集めることになったインターコンチネンタルカップだったが、1960年代後半に暗雲が漂うこととなる。1960年代後半、南米ではアルゼンチンが優位に立っていた。アルゼンチンは、本来テクニックを生かしたダイレクトパスを使った攻撃で有名だったが、60年代には、相手の良さを消す守備的でタフなサッカーが台頭。その提唱者カルロス・ロレンソ監督が率いるエストゥディアンテスが68年大会からコパ・リベルタドーレスで3連覇した。68年の欧州チャンピオンズカップではイングランドのマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)がベンフィカを破っていた。イングランド勢による同大会初制覇だった。インターコンチネンタルカップでは、そのマンチェスター・ユナイテッドをエストゥディアンテスが1−0、1−1で破ったが、ホームで行われた試合では退場者や負傷者を出す大乱戦となってしまう。

インターコンチネンタルカップをめぐる暴力事件はその後も毎年のように続き、1971年の欧州チャンピオンズカップに優勝したアヤックス(オランダ)は、この大会への出場を拒否。準優勝のパナシナイコス(ギリシャ)が出場する変則的な事態となる。その後も優勝チームが出場を辞退し、大会が行われなかったり、準優勝チームが出場したりといったケースが続き、79年を最後に同大会は開催不可能となった。

そこに日本からのオファーがあった。「トヨタ・ヨーロッパ/サウスアメリカカップ」の名の下に、中立地・東京での1試合で世界一を決めようという提案だった。中立地開催によって試合の過熱=暴力化が避けられるし、日程が過密な欧州のクラブにとっては1試合で決着を付ける方が望ましかった。当時、日本ではサッカー人気は低迷していたが、親善試合ではない真剣勝負の迫力は日本のサッカーファンにも受け入れられ、毎年スタジアムは満員の観衆に埋め尽くされた。

第1回のトヨタカップは1981年2月に行われ、ウルグアイのナシオナルがノッティンガム・フォレスト(イングランド)を破って優勝。第2回大会では、「白いペレ」と呼ばれたジーコのスルーパスがリバプール(イングランド)の守備陣を切り裂いて、フラメンゴ(ブラジル)が優勝した。当時、欧州チャンピオンズカップではイングランド勢が優勢だったが、トヨタカップでは南米の優勝が続いた。「イングランドのゾーン守備が南米勢には通用しない」とも、「国立競技場の硬いピッチが南米に有利だ」とも言われた。南米のクラブの方が先に来日し、時差調整など準備に時間をかけていたことも南米優勢の原因だったろう。

欧州勢の初優勝は1985年大会。アルゼンチンのアルヘンチノス・ジュニアーズとは点の取り合いとなり、2-2の末、PK戦でイタリアのユベントスが優勝を決めた。この試合では、後世語り継がれることとなる伝説的なプレーが生まれた。フランスの将軍ミシェル・プラティニがCKのこぼれ球からのパスを胸で浮かせた後、右足でリフトし相手を華麗に交わし左足ボレーでスーパーシュートを決めて観衆を魅了したが、他の選手がオフサイドポジションにいたためゴールは認められなかった。1987年にはポルト(ポルトガル)とペニャロールが大雪の中で延長の熱戦を繰り広げ、最後はアルジェリア人のマジェールが執念のゴールを決めて、ポルトが優勝した。

南米優勢の流れを変えたのが1989年、90年に連覇したアリゴ・サッキ監督率いるACミラン(イタリア)。バレージなどの強力DFラインがプレッシングの守備を見せ、ファンバステン、グリット、ライカールトのオランダ・トリオがダイナミックな攻めを見せた。1990年代になると、欧州のクラブは外国籍選手枠が緩和され、南米の代表クラスはこぞって欧州のクラブに移籍。93年にはチャンピオンズカップはチャンピオンズリーグとしてバージョンアップ。欧州のビッグクラブの実力は南米を凌駕するようになる。トヨタカップに対するモチベーションの高い南米勢が守備的なサッカーで抵抗するが、欧州優位の試合が多くなってくる。2000年には、これまでクラブの試合は管轄してこなかったFIFAが、トヨタカップとは別にブラジルでクラブ世界選手権を開催した(地元のコリンチャンズが優勝)。だが、盛り上がりに欠け、翌01年開催予定だったスペイン大会(ジュビロ磐田が出場予定だった)は中止になってしまう。そこでFIFAはトヨタカップを発展させる形でクラブ世界選手権を主催することになった。

2005年大会では、イスタンブールでの欧州チャンピオンズリーグ決勝での大逆転勝利の記憶も新しいリバプールが参加したが、決勝ではサンパウロ(ブラジル)が見事なカウンターで1−0と勝利。翌06年大会からは「FIFAクラブワールドカップ」と名称を変更。ロナウジーニョなど世界のスーパースターが集うバルセロナ(スペイン)人気に沸いたが、決勝ではやはりブラジルのインテルナシオナルに敗れてしまう。欧州、南米以外のチームの試合にも多くの観衆が集まり、大会は見事に成功。FIFAは、この大会を2008年大会まで日本で開くことを決めている。

Reported by 後藤健生

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