コートジボワール戦を終え、ギリシャ戦の会場となるナタールに移動中のバスの中でこのコラムを書いている。
ブラジル時間6月14日、夜22時のレシフェ。初戦コートジボワール戦の会場だ。10分程度の間隔で雨が降っては止む、そしてまた降り始める。雨脚が強いのでカッパを着ずにはいられないが、ひとたび雨が上がれば、雨がっぱを着続けるには温度、湿度ともに高いので、試合中も至る所でカッパの着換えが行われていた。
日本の先制後、後半に入ってもコートジボワールは決定機を外し続け、じれた観客の間からウエーブが始まる。Jリーグのスタジアムではもはや行われることのないウエーブが選手の集中を切らすかの如く唸り続け、それに呼応するようにコートジボワールの民族楽器が象のような鳴き声を上げる。そうしたタイミングを見計らったかのようにドログバが投入。彼の祈りにも似た所作を伴う登場で、一気にスタジアムの空気が変わるのが目に見えて分かった。
南米での試合に向けて、空の移動は到着までに40時間近くを要した。移動による疲労に加え、高温対策が必要だと言われてはいたが、合わせて湿度対策も必要だったのだろう。私はキックオフ前から、そうした選手のコンディション確認に奔走するピッチ上の早川直樹コンディショニングコーチを見守っていた。彼こそが、私が思う影のキーマンだからだ。
早川氏は日本代表監督5代にわたり選手のコンディションを見守ってきた。基本的に、監督が代わればコーチ陣は入れ替わる。トルシエ、ジーコ、オシム、岡田武史、ザッケローニと、いずれも彼を頼ったのは異例中の異例の人事ともいえる。私はチェアマン就任後、早々に知人を介して早川氏と食事をさせていただく機会を願い出た。私が彼に非常に興味を持ったのは、彼がサッカーと出会うきっかけとなった「木の実子供会」の話を知人から聞いたからだ。
早川氏は昭和38年東京生まれ。彼が育った東京都日野市は、当時東京のベッドタウンと呼ばれ、大規模団地が林立した。そこで生まれたのが「木の実子供会」だ。木の実子供会が母体組織だとすると、傘下にサッカーを行う「どんぐり子供会」や野球を行う「いがぐり子供会」、水泳を行う「ヤシの実子供会」などがある。その他に、スキーやスケートなどシーズンスポーツも行われる組織もある。夏にサッカーをした子供たちが冬にスキーやスケートで遊ぶのだ。まさにJリーグが夢に見る「総合型スポーツクラブ」のあり方ではないだろうか。
早川氏は小学校6年から「どんぐり子供会」に入会、中学校はどんぐりでサッカーを続けながら、小学生の子供たちにサッカーを教える。高校からはサッカー部に所属しながらも「木の実子供会」の指導も行った。彼が多種目のスポーツを経験したのも、「木の実子供会」の存在抜きには語れないだろう。彼は、そうした縁の延長で様々なスポーツの現場で働く道を志して、アスレティックトレーナー、鍼灸マッサージ師などの本格的な資格を取得し、現在の道を歩んでいく。
FIFAワールドカップブラジル壮行試合のキリンチャレンジカップ対キプロス戦で、日本代表のDF内田篤人は貴重な決勝ゴールを挙げた。得点後、内田が一目散に走り寄って抱き合ったのは、ベンチのドクターやトレーナー、早川コーチだった。欧州で負った怪我を代表チームスタッフとともに懸命に克服してきた経緯があったからだ。
もちろん、彼の治療技術やコンディション調整技術は最高のものがあるからだとは思うが、5代の監督にわたり、すべての選手やコーチングスタッフからの信頼を得たのは、彼の誠実な人柄と真摯なコミュニケーション力にあるはずだ。選手にとっては、心を開くかけがえのないカウンセラーの役割も担っているのだろう。そして、多世代の人々と触れ合う「木の実子供会」がそうした彼のコミュニケーション力を磨いたのは間違いない。決して雄弁ではないが、しっかりと私の言葉を聞き、そして自分の言葉と信念で端的に意思を表明する。彼と共にした八重洲の居酒屋はとても楽しいひと時だった。そして「木の実子供会」のようなJクラブを数多く育てよう、そう自分に誓った夜だった。
今、私は早川氏と日本代表のコンディションを信じている。初戦の反省を生かし、ベストのコンディションで必ずやギリシャに勝利してくれるだろう。そして、日本代表の真の力を見せてくれるだろう。