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コラム

プロサッカー選手としての経験、役立てています!

2018/2/7 12:02

今では予約でいっぱいの人気豆腐料理店の経営者!「結局、人と人との繋がりなんです」~三原 廣樹編~

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―「飲食店もサッカーも同じ。結局、人と人との繋がりなんです」ー

そう話すのは、三原廣樹氏。人あたりのよさを感じさせる温和な表情と腰の低さから、話して数分間でその人柄に惹きつけられる。1997年に佐賀商業高校を卒業し名古屋グランパスへ加入した。その後はサガン鳥栖、アビスパ福岡、コンサドーレ札幌へと移籍していった。一時期はルーマニアへサッカー修行に渡ったこともある。2007年、当時JFL所属のFC琉球で引退を決意し、その後は実家の三代続く『三原豆腐店』の手伝いを始めた。実家とはいえ三原氏にとって豆腐づくりは未経験、セカンドキャリアは全くゼロからのスタートとなった。
毎日早朝からの豆腐づくりに真面目に取り組んでいたところ、転機が訪れる。家業を継いでいた兄と話し合い、お店の豆腐をメインにした料理を出す飲食店を福岡で開店する話が決まった。お洒落な空間やオリジナルの豆腐メニューがOLや若い女性の口コミで広まり、またたく間に人気店に。現在も一ヶ月半先まで予約が入っているという、福岡では知る人ぞ知る人気店である。


―人気の豆腐料理店、ついにバンコク進出へ!ー

三原氏へのインタビューは、まさに西中洲(福岡市内の繁華街)のお店にて行われた。
一階はカウンター席と個室、二階は福岡らしく屋台を意識したBAR形式、どちらも連日賑わっているという。
「有難いことに連日お客様でいっぱいで、予約もうまっています。実は…3月にバンコクへ出店するんですよ」
開口一番、三原氏からサプライズが飛び出した。「アジアのベストレストラン50」で3年連続でトップに輝いたガガン・アナンド氏が三原氏のオリジナル料理と人柄に惚れ込み、初の海外進出が決まった。三原氏は優しい語り口と謙虚な人柄から、周りの人をどんどん巻き込んでいく不思議な魅力を感じる。それが垣間見えるエピソードだ。


―ほとんど出場機会がなかった名古屋グランパス時代ー

プロへのきっかけは佐賀商業時代、九州のサッカー強豪高校である東福岡、国見、鹿児島実業との対外試合だった。
「相手の選手のスカウトに来ていたので、別に僕を見に来ていたわけじゃないんですよ(笑) 。それが対戦校の中に少し目立つ奴がいると思ったのでしょうね」
試合後にスカウト担当から声を掛けられ、Jリーグに進むことを意識し始めた。何度かの話し合いのうえ、三原氏は憧れだったJリーグの舞台に18歳で足を踏み入れた。が、プロの世界ですぐに洗礼を受ける。J1の舞台で戦う名古屋ではほとんど出場機会がなかったのだ。レベルの差や怪我など理由はいっぱいある。
「でも、やっぱりメンタルです。今振り返ってみて思うのは。一番強く感じているのは『志』を含めて『何を目的としているか?』なんです。僕の場合は「Jリーガーになる」が目標になっていて達成してから目的がなくなっていた。それこそ日本代表になる選手は、もっと高い目標を、ずっと持ち続けていたと思います。だからあれだけの活躍ができる。プロ生活が終わった後、一番感じたことです」と振り返る。


―転機となったルーマニアへの留学―

プロ選手となってから悪戦苦闘がずっと続いていた。名古屋での5年間の在籍中に公式戦出場の記録も少ない。
「今でこそ話せるようになったのですが…名古屋時代に約1年間、ルーマニアへサッカー留学をしたんです。チームには“移籍”という形をとってもらったのです。
これは初めて話します。当時は試合出場もロクにできない、もともと体の線も細い。恥ずかしいのですが、実際のところ自信をなくして練習へ行くのも足が震えていました。正直、僕はメンタルが弱い。ネガティブな思考も強くて、プロとして一番大切な部分を持ち合わせていなかったのです。
チームの紅白戦にもまともに参加できず、サテライトの試合ではユースの選手が先発で出場して、自分はトップチームの選手なのに控えでした」
そんなギリギリの精神状態の時にルーマニア行きを決断した。なぜその時期に海外行きを決めたのか?
「逃げたいが気持ち7割、自分を変えたい気持ちが3割でした。向かったルーマニアは僕にとってすごい転機となりました。今でも一番大きい変化かなと思っています」


―輝きを取り戻したサガン鳥栖での活躍―

大きな心の変化を感じて帰国したが、名古屋では思うように試合に絡むことはできなかった。そんな時だ。グランパスの元チームメイトで、当時J2のサガン鳥栖に在籍して現在は奈良クラブ代表を務める矢部次郎氏からのご縁で、期限付き移籍により鳥栖でプレーすることになった。地元の佐賀で、三原氏はサッカー選手としての輝きを取り戻す。
「サガン鳥栖で初めてサッカーをしているというか、自信に満ち溢れている自分がいました。今でもはっきり覚えています。一番自分を信じられた。どんどん伸びているというか、メンタルでこれだけ変われるんだというのを感じました。名古屋時代からの臆病になるような自分は一切ありませんでした」
鳥栖で1シーズンのプレー後、名古屋に戻った三原氏だったが大きな怪我に襲われる。右足の前十字靭帯を切り、1年間はリハビリ生活となってしまった。復帰後は期限付きでアビスパ福岡に移籍したが、大した活躍はできなかった。この頃、本当に運がなかったともいえる。そして、新天地であるコンサドーレ札幌へと移籍を決めた。


―挫折の果てに見えた、新しい光―

札幌で3シーズンを過ごした後、所謂“戦力外通告”を受けた三原氏だったが、引退は考えていなかったという。
「コーチにもなろうかと考えていました。でも、何をしたいのかわからない状態でした。引退を考えるようになったのは沖縄のFC琉球に行ってからです」
結果的にサッカー選手最後の地となったのは当時JFLだったFC琉球だった。お世辞にもプロ選手としては成功したとはいえなかった。怪我と挫折の連続だった。
2シーズンを沖縄で過ごし、2007年、29歳で現役引退。家業であった豆腐屋の事業の一つで新しいキャリアをスタートさせた。ピッチを去ってからすぐ飲食の道へ進んだが、急な生活の変化に戸惑いはなかったのだろうか。
「環境の変化は意外と受け入れられました。サッカーだけで終わりだと思われたくない、もう一回ゼロベースから、サッカーでいうならJリーグのような華のある舞台へ、飲食業でも行く。そういう思いだけはありました」
すると不思議な心境の変化が生まれた。
「最初の半年間は皿洗いをしていました。ただ、料理人になりたいというより、なぜか漠然と経営をしたいという感覚が生まれたのです」
Jリーグ選手としては成功しなかった三原氏だが根っからのサッカー好きから、何でもサッカーに例えて考えてしまうそうだ。皿洗いをしている時は、手で1回1回持ってリフティングをする感覚で丁寧に洗ったという。リフティングができるようになることからサッカーをスタートしたように、飲食なら皿洗いをおろそかにしなかった。その後も自分自身に一つずつ課題を与えながら、飲食の世界でステップアップしていった。
三原氏の人生に新しい光が射し始めた。そこにはサッカー選手時代の学びが生かされていた。


―成功の秘訣は、お客様とスタッフとのコミュニケーション―

店舗経営がある程度わかってくると『良いお店』とは何かを考えるようになり、一から勉強し直した。彼なりの一つの結論にたどりついた。
「良いお店を作るというのは、結局サッカーと同じなんですよ。何より全員のチームプレーが大切です。まず、働いているスタッフが楽しんでないと結局食べてくれる人たちに伝わってしまうんです」
大事にしているのは、二つのコミュニケーションだ。一つはスタッフとの円滑なコミュニケーション。そしてもう一つはお客様とのコミュニケーションだ。この二つの意識が現在の繁盛店への成功に繋がっていると分析している。
嬉しい出来事も起こった。昔のチームメイトが福岡に来る度に、お店に訪れてくれることだ。
「名古屋に在籍した頃には相手にもしてもらえなかった代表クラスの望月(重良)さん、平野(孝)さんは福岡に来るたびに訪れてくれます。楢﨑(正剛)さんも短時間でも寄ってくれます。みなさん、見てないようで見ていてくれていたんです」
当時はメンタルが弱く話しかけることすらできなかった先輩方の来店、元Jリーグ選手として、こんな嬉しい再会はないだろう。


―時間を絶対に無駄にしてはいけない!―

三原氏はいま現役時代を振り返って、こう思っている。
お金も大事だが、時間の使い方の方がもっと大事だということだ。プロだからお金も時間もすべて自分で管理しなくてはいけない。
「僕は強制されるとやるんですが、そうでないとやらない。それで時間をどれだけ無駄にしたことかと凄く反省しています。なんであの時に次に向けてやっていなかったかと。本当に時間ほど大切なものはありません。
人生を逆算できたらもっといいなとも思ってます。セカンドキャリアのことを考えてゴールから逆算して、現在やらなきゃいけないことを明確にする。選手時代が終わってからでしかそう思えなかったですが、現在の選手には時間の大切さにどうか気づいて欲しい」

今年は三原豆腐店にとって飛躍の年になりそうだ。今後はお豆腐を通して食育関連のビジネスも展開していく予定だという。健康こそがあらゆる人生の基本だと考え、ヨガとのコラボや自然派プロテインの商品開発など色々な業界の人たちと交流して、幾つかの新しい展開を進めている。
来月のバンコク出店を目指す三原氏の瞳は前だけを見つめていた。以前の挫折体験があるからこその優しい瞳の輝きが、そこにはあった。

 

Text By:上野直彦