日本代表がロシアワールドカップ アジア2次予選を戦ったシンガポールの地で、Jリーグで確固たる足跡を残した一人のGKが戦っている。
彼の名は野澤 洋輔。今シーズンからアルビレックス新潟・シンガポールに移籍したベテラン守護神だ。JリーグやJクラブがアジア戦略を打ち出す一方、数多くの元Jリーガーが日本を離れてアジア各国で新しい挑戦に臨んでいる。この11月9日で36歳を迎えた野澤もその一人である。
日本代表戦の取材でシンガポールを訪れた際、現地で完全復活を遂げたという彼を尋ねた。シンガポールのチャンギ国際空港に到着してホテルに荷物を預け、新潟・Sの本拠地であるジュロン・イースト・スタジアムへと向かう。野澤と会うのは昨シーズンのJ2リーグ最終節となった水戸ホーリーホック戦以来、約1年ぶり。スタジアムへ着くと、少し日焼けして浅黒くなった笑顔が迎えてくれた。
スタジアム内のベンチに腰掛け、1年間の空白を埋めるべく話を進めていく――。最後に顔を会わせた水戸戦は、松本が記念すべきJ1初昇格を決めた後のアルウィンでの凱旋試合。彼にとっては約1年半に及ぶリハビリからの復帰戦だった。
清水エスパルスユースからトップチームに昇格した野澤はその後、アルビレックス新潟、湘南ベルマーレ、松本山雅FCでJリーグ公式戦300試合以上に出場したが、2013年に松本で古傷の椎間板ヘルニアが悪化。東京都内の国立スポーツ科学センターに泊まり込み、1日8時間に及ぶハードなリハビリに臨み続けたが、一時は左足がしびれて感覚がなく、力が入らない時期があったことをリハビリ時の取材で耳にしていた。本人は「本当にもう一度サッカーができるかどうか不安だった。半分諦めていた時期もあった」と振り返るが、周囲のサポートと復帰に向けた取り組みが実り、約1年半という長期のリハビリを乗り越えて水戸戦で実戦復帰。持ち前のバネを生かしたファインセーブを連発し、抜群の存在感を披露した。
だが、松本とはこのシーズン限りで契約満了となってしまう。新潟、湘南、松本で彼を指導してきた恩師・反町 康治監督が、最後に実力を証明する場を作ってくれたのだろう。野澤はその親心に結果で応えた。しかし、ケガの影響や年齢を懸念されたためか、スムーズに新天地が見つからない。「なかなか声が掛からなくて、引退せざるを得ないと思っていた」という野澤の下に届いたのが、他ならぬ新潟・Sからのオファーだった。
実は新潟・Sには思わぬ縁があった。チームを率いる奥山 達之監督は、かつて新潟の前身である新潟イレブンやアルビレオ新潟に在籍し、現役引退後は新潟のアカデミーやレディースで監督を歴任。野澤とも新潟時代に同じ練習場を使用していたことから交流があったという。クラブを通じて旧知の指揮官から話をもらった野澤は、新たな挑戦としてシンガポールの地を踏むことを決意した。
前年度のシーズン終盤に実戦復帰していたとはいえ、約1年半に渡るリハビリを乗り越えたばかりの状態。野澤自身も「最初はフィジカルに不安があった」と話すが、シンガポールの高温多湿さとコンパクトな国土が彼の戦いを後押しした。暖かい気候が腰の動きをスムーズにし、どんなアウェイゲームでも移動はバスで30分から1時間程度と腰にかかる負担も軽減。さらに新潟・Sが練習場を兼ねるジュロン・イースト・スタジアムのピッチは天然芝で、シンガポールの他クラブと比べても格段にいい環境でトレーニングに臨むことができた。GKコーチが不在のため、自らGK陣のトレーニングメニューを考えながら練習できたこともプラスに働いた。シーズンが経過していく中で状態はどんどん良化し、あれだけ不安があった腰は、全く問題がないままシーズンを戦い抜くことができたという。
「ちょっと長かったけれど、頑張ってリハビリした甲斐があった。これだけ回復して再びプレーできていることに関してはすごく喜びを感じているし、今までリハビリなどでお世話になったたくさんの人には本当に感謝しています。とにかく身体を戻すことができたので、ここで経験して成長したことを糧に、もう一度挑戦してみたいと思えるようになった」
新潟・Sで正GKとして君臨し続けた野澤は、20代前半の若い選手が大半を占めるチームで豊富な経験を生かしてリーダーシップを発揮。ピッチでは抜群の反応で幾度となく大ピンチを救った。彼の活躍もあって、チームはシーズン終盤まで優勝争いを繰り広げ、4年ぶりにリーグカップ制覇を成し遂げた。彼がその中で得たものは、もちろんフィジカルコンディションだけではない。ベテランとして周囲に教えていくことで自分が学ぶ部分も多かったという。
「他人に求める以上は、自分もしっかりしなければならないという気持ちが改めて芽生えた。うまく伝わらない選手にどう接すればいいのか、どのタイミングでどんな声を掛けるべきなのかも考えるようになった。もちろんそんなに強いチームではないから、それならそれでやるべきことがあるとも思ったし、自分の経験やサッカー観を伝えようとしてきた。オレは“反町サッカー”で育っているからね。ヘタならヘタなりにできることがある。相手よりも走ることはもちろん、攻守を素早く切り替えたり、球際で強さを見せたりとか」
新潟、湘南、松本で毎日耳にしていた反町監督の言葉が、シンガポールで次々と頭をよぎった。「ヘタなら走るしかない」と走力アップに取り組んだ指揮官のスタイルを、頭も体も覚えていた。野澤自身も「ソリさんと同じことを言ってましたからね。自分が親になって、親父に言われていたことを言っているような感覚。チームメートがソリさんのことを詳しく知らないといいんだけど」と苦笑いしたが、それだけ自分の中に反町イズムが浸透しており、「若手に教えたり伝えたりする内容が自然と自分の中に入っていた」と感じたという。そして「選手としても一人のサッカー人としても成長できている感覚がある」と手応えを口にする。
過去にないほど充実したシーズンを送ることができた。願わくば、もう一度Jリーグに挑戦したいという気持ちは強い。ただ、シンガポールでの挑戦に充実感も覚えている。
「もしJクラブからオファーがあったら戻りたいとは思うけれど、意外にシンガポールでも楽しみを見いだしている。決して海外組とは恥ずかしくて言えないけど、ちっぽけな世界でもアジアで頑張っていて、本当にいろいろなことが見えて、サッカーライフを楽しめている。もう一回Jリーグでプレーするのは夢だし、目標でもあるけど、そこは実力がすべて。叶わなければ自分の実力不足。ただ、そういう気持ちを捨てずにやっていこうと。サッカー選手としてどこであろうと成長し続けるようにやっていきたいですから」
奇しくもこの日は彼の36歳の誕生日。本人も「36歳の誓いだ」と笑った。
1979年生まれの野澤は、日本サッカー界を支えてきた“ゴールデンエイジ”の一員でもある。同い年の小笠原 満男(鹿島アントラーズ)は今シーズンのヤマザキナビスコカップ決勝でMVPに輝き、世代交代を狙う若い世代に対して「やれるもんならやってみろ」と言い放った。もちろん野澤にも長く現役を続けてきた自負がある。
「オレは“ゴールデンエイジ”年代の雑草の、その下の根っこのような目立たない存在だけど、まだしっかりと生きている。メジャーな人たちにも、もっともっと長く頑張ってほしいし、オレもまだまだ頑張りますよ」
日本でプレーしていた時、野沢は試合前の円陣で右足を後方に高く上げ気合いを入れていた。そのルーティーンはシンガポールでも変わらず続けているという。
「あれは小学生の頃から、気づいたらやっていたんですよ。円陣ではみんな足を高く上げるものだと思っていた。だから僕にとってはあれが普通なんです」
タイでプレーした岩政 大樹(現ファジアーノ岡山)や茂庭 照幸(現セレッソ大阪)のように、東南アジアを経てJリーグに復帰する選手は少なくない。Jリーグ発、東南アジア経由、Jリーグ行き――。果たしてシンガポールで完全復活を遂げ、心身ともに成長した“36歳の誓い”が叶う日は来るのだろうか。願わくば、彼のトレードマークとも言える円陣時の美しいシルエットを、もう一度Jリーグのピッチで見たい。高く掲げた右足と同じように、諦めずに高い志を持った野澤 洋輔の姿を――。
最後に野澤から古巣・松本山雅とサポーターへのメッセージをお伝えしておきたい。
「シンガポールではハイライトを見るくらいしかできなかったけれど、ずっと結果は気にしていた。J2降格は本当に残念だけれど、これからもクラブは続いていくものだし、やっぱり松本山雅の魅力はサポーターであって、素晴らしいスタジアムに人が集まるところ。今まで地域リーグからJFL、J2、J1と夢を追いかけてきた中で、どんどんお客さんが増えてきたけれど、J2に落ちてもスタジアムに足を運んでもらいたいし、クラブや選手たちには頑張ってサポーターに来てもらえるように取り組んでほしい。ここからが松本山雅のJクラブとしての本番だと思う。自分もアルウィンのピッチに立って、本当に何度も何度も大きな力をもらった。やっぱりサポーターあってのチームだし、どこのカテゴリーにいたとしても愛され続けるチームであってほしいですね」