社会学者F・L・K・シューは、ある目的をもって意識的につくられた集まりを「クラブ」と定義している。集まりの場である「クラブハウス」の起源は、英国ではコーヒーハウスだという。18世紀のクラブは、コーヒーハウスの一角に会員が定期的に集まる形式だった。やがて、周りの関係のない人々と差別化するために、会員専用のクラブハウスを望むようになる。初めは、会員個人の家を利用していたが、次第に専用の場を求め独立したクラブハウスがつくられるようになった。 1897年の晩秋、イタリア・トリノ市内のダゼリオ高校に通う若者たちが、街のベンチに座って「みんなでサッカーを楽しむために、クラブチームをつくろうよ!」と話し合った。その続きは仲間の暗がりの仕事場で行われ、最も単純な難問が最初の議題となった。それは、活動拠点をもつこと。つまり、「クラブハウス」をどこに構えるか。
そして、通りに面した庭とロフトの付いた場所を見つけた。次は、クラブの名前だ。15人が議論の末に選んだ三つの候補から全員で投票を行い、“ヴィア・フォルト”(通り名)でも“マッシモ・ダゼリオ”(高校名)でもなく、“ユヴェントス”(若者・青春)が選ばれた。ユニホームの色は、ピンクにした(1905年からは現在の白/黒)。 20年前、当時の鹿島町に15,000人の個席に屋根付きのサッカー専用スタジアムが誕生し、Jリーグの未来が具現化された。忘れてならないのは、同時に整備された立派な専用練習場とクラブハウスの存在である。クラブの精神的支柱として真っ先にクラブハウスを設けたことは、その後の鹿島アントラーズの栄光の歴史と無縁ではないだろう。今春、サガン鳥栖やファジアーノ岡山にも念願の専用練習場が完成し、その隣に彼らのクラブハウスができる。
ユヴェントスの誕生から70年後の1967年、信州・松本駅前にあった喫茶店『山雅』の常連客たちによって、サッカー同好会の「山雅クラブ」が結成された。彼らのクラブハウスは、もちろん2年前にオープンしたこの喫茶店である。ここが、現在J2まで昇格した松本山雅FCの発祥の地なのだ。お店は、残念なことに再開発計画のため1978年に閉じられた。しかし、半世紀の間ずっと最初の活動拠点をクラブの名前に冠する誇らしい姿に、今更ながら地域に根ざしたクラブの原点を感じる。 カタチあるクラブハウスの中に、そこに集う人たちの強い意志や果てしない夢が透けて見えてくる。クラブハウスは、すべての始まりである。