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2015/12/17(木)15:05
【レポート:準決勝】疲労困憊の広島 本気の悔しさが滲む惜し過ぎる敗戦
メディアセンターが、アルゼンチン人によって支配された。ドヤドヤと入ってきて、机に荷物を置き、お菓子や飲物をいっぱいに広げた。大きな声を出し、記念撮影をいたるところで。それはまあ仕方ないにしても、仕事のためにキープした机にまで荷物を置きだした時には閉口した。
実際、戻ってきた記者が座れなくて困っていた。「すみません、そこは他の記者が仕事をするから」と言うと、ある男がスペイン語でけんか腰にかみついてきた。
「はあ? なんなん?」
日本語で言い返した。基本的にはウェルカムだが、仕事を邪魔された上に逆ギレされては黙ってられない。かつみいてきた男はブツブツ言いながら去っていったが、賑やかなパーティはまだまだ続く。楽しそうだし、机の件以外では我慢できる範囲だったので、黙っていた。
突然、静かになった。パーティーは終了。机に散乱していたゴミは綺麗に片付けられ、ゴミも分別していた。最後には自ら持参していた布やティッシュで机を拭き、笑顔で去っていった。
彼らは記者ではなく、何らかの関係者たちだったようだ。メディアセンターを借りてお茶したかっただけなのだが、それにしても素晴らしいメリハリだった。楽しむ時は楽しむ。立つ鳥跡を濁さず。この「切り替え」がリバープレートのサッカーにも通じると書くのは、飛躍がすぎるだろうか。サッカーがその国の国民性を如実に現す鏡だと考えるならば、あながち間違っているとは思えない。
ボールを奪いにいく。かわされる。さらに行く。かわされる。ならばと判断を変え、ブロックを形成する。「切り替え」は攻守の瞬間だけではない。攻めている時も、守っている時も、うまくいかないと判断すれば、すぐに次の選択肢を見つけ、切り替えられる。ポゼッションも速攻も、引いて守ることもプレッシングも、彼らにとっては選択肢の1つにすぎない。判断のベースにある個人戦術能力が非常に高いのだ。華麗なテクニックに目がいきがちになるが、リバープレートの強さはそこだと実感した。
ただ、広島も決して負けてはいない。球際のバトルで清水 航平や柏 好文が後手を踏み、決定的なクロスを入れられたシーンは記憶にない。抜かれても追いすがり、弾かれれば弾き返す。男対男、意地対意地。決して上回ってはいなかったが、ひけをとってもいなかった。だからこそ立ち上がりの相手の攻撃を凌ぎ、速攻からの好機演出が実現できたのだ。
26分、塩谷 司のアーリークロスから皆川 佑介。31分、ドウグラスの横パスからまた皆川。33分、皆川のポストから茶島 雄介。40分、青山 敏弘のスルーパスからまたしても皆川。大一番に抜擢された皆川が立て続けにチャンスに絡む。だが、リバープレートの守護神=マルセロ・バロベロの泰然としたプレーに決定的なシュートは次々に弾かれ、得点できない。
後半も、広島のペースは続いた。堅守だけでなく、マゼンベ戦のようなパスワークでリーベルを揺さぶるシーンもあった。だが、奮闘は続かない。12月2日のチャンピオンシップ初戦から15日間で5試合目。全ての試合が緊迫感に満ち、テンションも5割増しにならざるをえなかった。疲労は蓄積し、練習で状態を上げることも戦術的な確認もほとんどできず、ひたすらに回復への路をさぐるだけ。12月8日に来日し、休養と調整に時間を使えたリバープレートとはコンディションに大きな差があった。ドウグラスは足に踏ん張りがきかず、前への気持ちと自分の肉体がリンクせずに、何度も転びかけた。ドウグラスだけでなく、チーム全体が疲弊していた。肉体も精神も、ボロボロだった。
「広島相手の苦戦は予想していたことだし、試合は本当に拮抗していた。彼らは実にコレクティブなチームだ」というマルセロ・ガジャルド監督(リバープレート)のコメントは、右サイドバックのメルカドが足をつらせて交代を余儀なくされた事実をもって、真実味を帯びる。彼らも苦しかった。だが、苦しくても勝ち、勝利したのもまた、リバープレートだった。
それだけに、悔しい。72分の失点もそうだが、チャンスの数や質で上回っていたのに点が取れなかったことがなお、悔しい。「そこが世界との差。したたかさが違う」などと、したり顔で言ったところで、勝利は永遠にやってこない。「世界中がリーベルとバルサの決勝を見たがっている」などと、世界と伍して戦う気概も夢もない発言からは、何も生まれない。
青山は「負けては何も残らない。与えられる者にはさらに与えられる。そういうことです」と本気の悔しさを滲ませた。失点の責任を全て背負った林 卓人も「ウチは、勝利しないと満足できないチーム」とはき出した。
悔しさを語るには資格がいる。全力を尽くすのは当然。その上で、「次は勝つ」という実感を伴っていなければならない。2015年12月16日、広島はリバープレートに対して悔しさを口にできる資格を有した。それはきっと、素晴らしいことなのである。
[文:中野 和也]